■データの先にあるもの
専門書の販売を離れて十年。その間に彼はすっかり一般書の売り方を身に付け、ひとつのジャンルではなく、店全体のバランスから売上を上げるノウハウを取得したようだった。開店から閉店まで店にいるという彼に、もう少し社員が欲しいのではないか、と質問したら、これで充分、と答えるのは、彼が経験豊かであり、販売のツボを心得ているからだ。1冊でも多くの本に触り、1分で長く店頭にいることで商品感覚を身に付けている彼のような人がこれから先育っていくのだろうか、と僕は思う。雑用に追い回わされて、棚を見、本に触ることなく1日を終えてしまう毎日が続けば、商品に対する嗅覚を失ってしまう。その結果、POSのデータの読み方さえわからなくなってしまう。
今書店を支えているのは、かつて本にまみれて育った世代である。若い世代の人達は、POSを操り、データを読むことで本を売ることを考える人達である。本を棚に入れるのはパートやバイトであり、社員は管理業務が大きな仕事になった。商品に対峙する機会が少なくなるばかりだ。150坪をふたりで切り盛りしている店で、専門書は売れない、と彼が言い切るのは、本の売り方を知り尽くしているからだ。専門書も文庫も同じ売り方が出来れば、苦労はない。しかし、同じだと思っている人が増えている。それは販売数がデータ化され、紙の上に並んだ数字だけで販売を捕らえているからだ。プロセスを無視し、結果のみで判断する現在の単品管理のやり方からすれば、そうなっても仕方がないのかもしれない。
■「本屋さんへのお願い」 今から25年ほど前、僕がまだ学生だった頃出版された北杜夫の「マンボウぼうえんきょう」という本の中に「本屋さんへのお願い」という文章がある。当時は全集ブームだった。書店はそれを争うように売っていた。「小さな書店では、全集と文庫と雑誌しか置いていない。全集もいいけど他の本も置いて欲しい。」というようなことを北氏は書いている。全集が売れるとなれば、全集ばかり置いている書店、小さな書店なのだからそんなことをすれば他にある良い本が置けなくなってしまうではないか、と北氏は心配している。読書好きの彼から言わせれば、そんな書店の現状が不満なのだったのだろう。>br> 僕は、長く書店を見続けているが、当時の状況は今もほとんど変わっていない。ブームが到来すれば店頭は一挙にその関連商品で埋め尽くされる。大型店のように展示スペースに余裕があれば、店の一角にコーナーを設ければ済むことだが、店の規模が小さければ、商品構成のバランスは崩れてしまう。好きな本が並んでいた棚が一夜にして流行本に変わっていたときのショックは、本が好きであればあるほど大きい。結局25年前の北氏の嘆きは、今も同じように読書家の口から漏れている。全集ばかりが置かれるようになったなじみの書店から、北氏は足を遠のかせたに違いないのだ。小規模店が苦しくなる構図は、今も変わらない。
■失われた経験
以前僕は、書店に来る人はマニアだと書いた。「本」が好きな人、「本」を必要としている人が顧客の大半であると書いた。僕は、「マンボウぼうえんきょう」の文章を今もう一度読みかしながら、M氏の事を考えていた。彼が専門書の販売で身につけた、1冊をどう売るのか、ということを見極めることが、本を売るということなのだ。売れるから売る、売れないから返品するという単純な仕掛けではなく、店の客のどのような人が本を必要とするのか、欲しいと思うのか、店に来ているお客に必要のない本はどれなのかを考え商品を選択し、店の性格を把握した上で、絶対に外すことが出来ない本は何なのかを判断するという専門書の販売で不可欠な要素をM氏は本の販売全体に生かしているのだ。
「ポイントさえ押さえておけば、売上が落ちることはないから。」
と彼は、笑いながら言った。彼の言うポイントとは、北氏のような人が必ず書店には来ているから、そんな人の満足も確保しておくことも大切なんだ、と言う意味なのだと僕は思う。書店が書店として存在していくためには、決して忘れてはならないことだと思う。
僕は、書店も出版社も基本的には儲からない商売だと思っている。金儲けをしたければ、もっと効率のいい商売はたくさんある。それを敢えて書店業を営んでいる以上、そのことを充分理解しておきたいと思う。こういう言い方は極めて無責任であることは十分承知の上でそう思う。「本という商品を売るということ」を知らないで、ただ儲けるという目的のために本という商品を扱うのであれば、それは大きなリスクを伴うのだということを理解したいと思う。M氏が自信を持って本の販売をしているのは、本を売るということについて、彼なりのノウハウと経験があるからだ。販売は常に経験の上に成り立っているのだと思う。そして今、その経験が機械化によって失われようとしている。