書店経営7月号掲載分

《自動洗濯機的快楽に溺れるな》

■本が店頭にあるのはなぜ
 我々がいる業界は、実に単純な流通の仕掛けからなっている。出版社、取次店、書店という商品の流れだ。出版社は取次店に、取次店は書店に、書店は顧客に本を売って、それぞれが利益を上げている。しかし出版社は取次店に、取次店は書店に本を《預けている》というような構図になっているのが現実で、書店で本が売れるのを待っているのである。「返品条件付」「フリー入帳」という言葉があるのは、こうした事情を端的に表している。
 中心に取次店を据えた構造を持つ出版流通は、書店にしろ出版社にしろ、取次店というアンプにプラグを差し込んでいさえすれば、美しい音楽が流れるのだと思ったり、チャンネルがひとつしかないテレビを見続けるいるような、安心感をもたらしている。取次店が流す音楽とはいったいどんなものなのか、テレビの画面に映る映像がいったいどんなものなのか、あなたは意識したことがありますか。日曜日にテレビの前に寝転んで、ぼんやり眺め、それがどんな番組だったのか忘れた、というような話なら、それはそれで許される話なのだが、明日の糧を得るための商売としての書店を営んでいるのなら、それは決して許される話ではないと思う。
 一方通行的な商品調達だけでとりあえずメシが食える書店と、商品をタレ流すことでとりあえずメシを食っている出版社と、その間で効率的な商品配布に奔走する取次店という構図は、商品流通が単純であることが生んだ結果である。こうした構図が生まれる根底には、日曜日のテレビのように、新刊委託や常備寄託など、本を売るための様々な制度の意味を深く考えず、また理解した上で運用しないというぼんやりとした意識の「甘え」が存在していると僕は思う。だから商品1点1点について、どうしてこの商品が自店の店頭にあるのかすらわからなくなってしまっているのだと思っている。

■全自動洗濯機のこと
 物販というのは、言うまでもなく、物を売りそれを貨幣に替えて生計を立てるというとである。書店ならレジに溜まる貨幣の量が、物販の価値そのものと言える。そしてその価値は、ドーラク的快楽を求めることで達成できるということを第1回目で書いた。ドーラク的快楽は、出版流通の仕掛けや制度を理解し、自発的にそれに首を突っ込み、そこから得た経験の蓄積によって達成される快楽である。
 かつてパソコンは何でも自動的にしてくれる魔法の箱だと思われていた。今では誰もそんことは思っていないが、そう信じて買った人もいたのだ。そしてその結果、何かを命令したり、自分で考えなければパソコンは動かないことに絶望感を抱いた人もあった。システムとは最終的な目的を達成するための、最も効率的な仕掛けのことだ。仕掛けそれ自体は単なる仕掛けにすぎない。その仕掛けが円滑に動くようにするためには、それを積極的に人が使わなくてはならない。だから自動洗濯機のようにスイッチを押せばすべてを機械がやってくれるようなものをシステムとは呼ばない。店に商品を陳列しておくだけでは本は売れないし、本を作っただけで取次店に任せておけば売れるというものではないし、出版社から本を仕入れて書店に送るだけも本は売れないのだ。でも全自動洗濯機のように、スイッチポンで本が売れるような仕掛けがあるかのごとく信じている人が多く、それを目指している人もいることに僕は驚いている。

■理解と経験
 販売に厳しい人なら、「本を注文する際に、10冊だとか5冊だとかアバウトな発注をしてはいけない」と言う。そうした発想に無責任な一面があるからだ。しかし本の販売はゲーム感覚でしてもいいと僕は考えている。10冊だろうが、平積したとき高さがほどよくなる7冊だろうが、目一杯ハッタリをかました100冊だろうがそれはそれでいいと思う。問題なのは発注したとき、その商品を売る、どう売る、どこで売る、誰に売る、誰が買う、足りなかったらどうする、残ったらどうする、どこに、誰に、補充の手当や返品の依頼をするのか、補充には何日かかるのか、重版分の予約は確かなのか、そんなことが段取りされているのかということである。流通を理解し、そこに首を突っ込んだ経験がある人なら、それは簡単に判断できゲームに活用できるのだ。
 本を売るということは決してバクチではない。適当に選んでそれが「当たり」か「ハズレ」かを競うそんな遊びではない。「当たり」を得るために様々な理論や経験を積んだ上で行うゲームであることをキチンと理解していなけばならない。ゲームを楽しむには自分自身の実力を判断し、そのゲームの内容を理解し、かつて経験したゲームの攻略術を活かさなければならない。

■意志を伝える
 書店は、取次店のシステムの中で商売をしている。そのシステムは、書店が立地さえ間違わなければ、ある商品が自店で売れるのかとか、何を売るのか、売らないのか、とかを気にせず、常備品で棚を埋め、売行良好書を追い掛ければ、それなりに売上が得られるような仕組みにはなっている。しかし本当にそれだけでいいのだろうか。
 新刊委託品が1冊配本されたとする。なぜ1冊しか配本がないのか。それは配本がシステム化されているからだ。すべては売上との関係によって支配されている。その関係を越えて配本部数を増やすのなら、新刊1点1点について出版社や取次店に対し、販売したい数量を言えばいい。配本が少ないという一方、不要な配本があるという場合も同様だ。そんな本の配本はいらないと言えばいい。出来る、出来ないは別にして、こうした意志を、流通の中で常に相手に伝え続けなければならない。システムは万能ではない。何もしなければシステムに使われることになる。システムを使わなければ、そこから恩恵を受けることは出来ない。

■母の言葉
 本を売るという行為は、日常の業務を漫然とこなしていると、全自動洗濯機で洗濯するような錯覚に陥るものだ。汚れものを洗濯機に放り込んで水を入れスイッチを押せば、干す手前までの作業はすべて完了してしまうのと同じように、売れたものを補充して売れないものを返品して新刊委託品を展示すればそれでレジには貨幣が溜まっているのである。しかしシステムを理解し使いこなさなければいつまでも同じ状態が続いてしまう。「最近は売れる新刊や話題の本がないからさっぱり売れないよ」とか「売れる本はいっこうに入って来ないけど、売れない本はたくさん配本してくる」というボヤキは、売れる本を探さない、売れる本の調達を誰かに任していることにほかならない。
 「甘えたらあかん、何でも自分でしなさい」きっとあなたは母親にそう注意されたことがあるはずだ。スイッチを入れれば、すべてを自動的にやってくれる洗濯機のようにこの業界のシステムが見えるかもしれないが、レジに溜まる貨幣の量を見れば、あなたの母親の言葉を実感するはずである。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ