その5

《喫茶店までの遠い道》

 ヒナちゃんとの話にちょっと疲れた藤川は猿山を訪ねた。 猿山は事務所の横の作業台の上で返品伝票を切っていた。
「こんにちは、 学生出版社の藤川です。 返品ですか。 もしかしてそこにうちの本、 入ってないでしょうね。」
「ハハハ、 君のところの本は良く売れるから、 返品なんてしないよ。」
 藤川はさっきまでしていたのヒナちゃんとのズッコケ話をしようと思ったが、次の機会にすることにした。 今日は猿山からセット商品の扱いについて話がある、 と言われて店を訪れていたからだった。
「どうですか。 返品は後にして、 そこの喫茶店でお茶でも飲みながら例の件、 話でもしましょうよ」
藤川は猿山を誘った。 猿山は伝票を置いて、
「そうですね、 ちょっと行きましょうか。」 と言って、手帳を手に取り藤川と事務所を出た。
 少し歩いたところで猿山は立ち止まった。
「ちょっと待ってください。」
猿山は、 専門書を担当している林さんから呼び止められた。 林さんは、 林鈴女といい名前はスズメと読む。 犬田がなんとなくラッキーと思っている動物の名を持つ女性である。 彼は、 3分ほどで藤川のところに戻って来た。
「何だったんですか。」 と藤川が尋ねると、
「新刊の発注部数の確認です。 ちょっと売れそうな新刊が出るんで、 彼女に取次店と版元への手配を指示していたんです。 すいませんね、 さあ行きましょう。」
二人が並んで歩いていると、 レジ担当の鶴田が猿山を呼んだ。
「ちょっと失礼します。」と言うと猿山はレジに向かった。
お客さんからの問い合わせのようだ。 彼は棚の向こうに消え、 しばらくして本を手に持って帰って来た。
「ありました、 ありました。」
と猿山は嬉しそうな顔をして戻って来た。 そしてまたちょっと歩き出したところで、 「ごめん、 ちょっとだけ。」
と言って、 倉庫へ向かった。 10冊ほどのKHKテキストを手に戻ってきた彼は、平台にそれを補充した。
「寅は何をしてるんでしょうね、 ハハハ」
と照れ笑いしながら言った。
 藤川が 「お茶でも飲みながら」 と誘い、事務所を出てからすでに10分以上が経過していた。 店の目と鼻の先の喫茶店。 歩けば1分程だ。 延々と10分を費やしてやっとたどり着いた喫茶店で、 猿山はコーヒーを注文しながら、
「ここまで遠かったですね。」 と彼は笑いながら言った。

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