その6

《こんな本、あるんですよ》

「10珠のソロバンがあるのを知ってますか。 それで、 そのソロバンの教則本が出版されているんですよ。今はもう誰も使っていないのに教則本があるなんて、おもしろいと思いません?。」
林は目を輝かせながら言った。 藤川は、 嬉しそうに言う彼女からその本を受け取った。
「こんな本売れるの?」 と聞くと、 彼女は
「さあ?」と答えた。 「それで、 この本どこから仕入れたの。」 と聞くと 「地方の流通センター」ということだった。

 書店に行く楽しみのひとつに 「へー、こんな本があったのか」 という驚きがある。 そして彼女は、 読者の立場ではなく書店人として 「へー、こんな本があったのか」 という楽しみに耽っている。 本という驚きの世界を楽しんでいると言ってもいいかもしれない。 それは商売としてではなく、単純に書店に勤務している自分の喜びにほかならない。そんな風に楽しく働いている彼女のことを、 藤川は羨ましく思った。
 藤川はいつも、 書店でつまらなそうに働いている人には、 「書店」 に務めているという喜びを見付けなさい、 と言って励ましている。 読者として書店を訪れるよりも、 書店に勤めている方が、 本との出会い、 本と知り合うチャンスが大きいことは当然である。 本の世界という、 とんでもない世界の中にいる自分が幸せであるためには、 本を自分の方へ手繰り寄せなければならない。 それは読者が読みたい本と出会うために、 いろんな書店の棚を見たり、 新聞や雑誌、 そしてテレビやインターネットを通じてその情報を得る作業と同じことだと彼は思っている。 だから彼女みたいに、 ソロバンの本を見付けたことが嬉しくて、 みんなに自慢したくてウズウズしているのを見ると、 とても嬉しくなってしまうのだ。

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