その8

《ええ本、作ってや》

 丘羊子は、 以前勤めていた書店の上司、 吉野が好きだった。 給料が安くて残業ばかりのその店に長く勤められたのは、 彼がいたからだと言ってだろう。それは恋愛感情というべきものではなく、 書店人として、彼を尊敬していたと言うべきものだった。
 彼は格闘技が好きだった。 好きが高じて、 彼はよく格闘技のブックフェアーをやっていた。 本だけではなくビデオやグッズも置いた。 専門誌にフェアー開催の記事も書いて貰った。 そのお陰で、 彼の催すブックフェアーは全国から問い合わせが来るようになったし、売上も大きかったようだ。
 丘は彼によく飲みに連れて行ってもらった。 それは出版社の営業マンと同席であることが多かった。 そして彼は酒が回り始めると口癖のようにこんなことを言っていた、

「ぜーんぶ、 版元さんのお陰や。」と。
「売れる本があって、 それを売らしてもろとるさかい、 わしらー飯が食えるんや。」
「えー本作ってや、 そして売らしてや。」

 彼は、 言葉は悪いが、 いわゆるインテリではなかった。
「難しーことわかれへん。」
と彼はよく言っていた。 そんな彼に版元の営業マンが新刊の案内をしていると、
「それでどないやねん。 それ売れるんけ。」
という。 出版社の営業マンは 「売れません。」 とはなかなか言い辛いので、
「そりゃあ、 売れますよ。」 と答えると、
「ほな、 売りまひょか。」 と彼は言った。
 しばらくして店をその営業マンが訪ねると、
「あれ、 売れます、 言うてたけど、 売れへんで。 あんなんあかんわ。」 と笑い飛ばすのである。 それ以来その営業マンは、 彼に対しては軽率に 「売れます。」 という言葉が使えなくなった。

 彼は、 商品に対してとても正直だった。 売れるものはそれが何であれ、 「売れている」 と思い、 売れない本は 「あかん」 と思う。 格闘技好きらしく勝ちか負けしかないのだ。 だから勝った本は、 とことん愛してしまうのだ。 売れ行きが鈍り出しても、
「よー売れた本やし、 まだまだいけまっせ。」
と平積をはずそうとはしない。 そんな彼の本を売るということに対する考え方が丘羊子は好きだったのだ。
 それからしばらくして、 彼女がその店で働くことについて、彼女の我慢の限界を越えようとしていたとき、 吉野は事故でこの世を去った。 その店で働く理由を失った丘は、 犬猫堂に移ったのである。

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