その11

《報われないって、悲しい》

 彼には自負があった。 犬猫堂の棚のすべてについて、 長年自分で管理してきたという自負があった。 言ってみれば、 店のどの棚になんという本があるのか、 この店には残念ながら置いていない出版社の本があるということや、 月に一度だけ本を買いに来るお客Sさんの嗜好や、 どの出版社が返品について厳しいとか、 そんな事までが彼の頭の中に整理されていつでも引き出せる状態になってることが彼の誇りだった。 リニューアルする際にも、彼が中心になって商品を選定した。犬田はそれを許した。

 電話が鳴る。
「毎度ありがとうございます。 犬猫堂ですが。」
「伊藤出版の 『山菜取りの基礎知識』 という本はありますか。」と電話の向こうでお客が尋ねた。
彼は、 その出版社の本を犬猫堂では取り扱っていないことを即座に判断し答えた。
「あいにく、 その出版社の書籍は取り扱いがないので、 ありません。」
その言葉を聞いて客は、 驚いたように言った。
「おいおい、 どうしてそんなことが解るんだよ。 ちゃんと探してよ。 あるかもしれないじゃないか。」
「申し上げましたとおり、 当店では扱いのない出版社でして、 それで。」
「なに言ってんの。 探してよ。」 と客は食い下がる。
 彼の心の中で、 「俺はよー、 この店で20年も毎日毎日本を見続けてんだよ。 その出版社は特種な本を出版していて、 店頭に出しても売れないから置いていないの。 だからないのよ。 それは。」 と思うのだが、 読者が一書店員がなんでも知っているなんて思もわないし、 そう言われるのはしかたないな、 と思いその言葉を噛み殺した。
 それ以後、 こんなことが度重なり、 猿山はいまでは電話を保留にして3分ほど待ってから、 「在庫はございません。」 と言うようにしている。

 彼は、 このような出来事に対して怒りに満ちた気持ちが強かったが、 今ではそれが嘆きに変わっている。 彼が嘆くのは 、読者と書店の信頼の絆がなくなったことだ。 読者が「書店人は本を知らない」と初めから思っていることだ。 いつからこんなことになったのだろうと、猿山は思う。 そして、書店の仕事って報われないものなのかと思うとき、 それは悲しいことだな、 と猿山は思うのだった。

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