その14

《売れ残りは、俺が買う》

 寅は朝から張り切っていた。 学生出版社の藤川がやって来るのを今か、 今かと待ち構えていた。 そして藤川が姿を現すやいなや、
「藤川さんのところで出している 「まちづくりの環境学」 いう本、犬猫堂でも売り方によっては結構いけると思うんです。 売れなかったら責任取りますから、200冊欲しいんです。」 と真剣な目で藤川に言った。
藤川は突然のことに、 やや呆然としながら、
「おいおい、 納品するけど、 ほんとうに大丈夫か。 決して一般的に売れる本じゃないぞ。 売れ残って全部返品になるんじゃないの 。」と言うと、
「いやいや、 任せてください。 万が一残ったとしても200冊なら僕の貯金で買えますから。 犬猫堂にも藤川さんのところにも迷惑は掛けませんから。」と自信たっぷりに寅は答えるのだった。
 こんな信じられないような発言をする寅が、 いったい何を考えているのか、 藤川にはまったく分からなかったが、 寅が何らかの理由で売れると思ったこと、 それと本を売るということを真剣に考えているのだ、ということは藤川にも分かった。
 寅が何を考え、何をしようとしているのか分からないまま、その気持ちだけに押された形で、そこまで言うのなら、 と藤川は少しワクワクするような気持ちで、 自分で荷造りした200冊の本を出荷した。

 寅から藤川のところへ電話がかかってきたのは、納品してから4ヶ月後のことだった。
「すいません。残っちゃったんですよ。15冊なんですが。」
「寅くん、 残ったら自分で買うと言ってたじゃないか 。」とからかい、藤川は、ハハハと電話口で大声で笑った。

 詳しくは聞かなかったが、 犬田や猿山、 それに丘から、どうして相談もなく専門書を200冊も仕入れたのかと責められたり、 林やヒナからは、 どうしてこの本をこんなに売らなければならないのかと冷たい目で見られたり、 辛い思いをしたようだった。 そのとき彼は、
「 俺が売れると思ったものは、売れるんだ。」 と言っていたらしい。

 とりあえずは結果オーライの話ではあるが、 正直なところ藤川は10冊売れればそれでいいと思っていた。 彼の気持ちに突き動かされた形で出荷した200冊は、 無駄にならず彼の気持ちと藤川の気持ちに深い絆を生んだ。 売りたい、 売って欲しいという単純な気持ちのつながりが、 きっと好結果を生んだのだ藤川は思っている。 寅の一直線な思い入れは、時には人を寄せ付けないものであるが、 彼の商品に対する熱意は、 藤川自身も見習わねばならないと思った。

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