その15

《取次店にあります》

 入社して3年目の蟹江は、 やっとひとりで仕事ができるようになりつつあった。 これまでは猿山の指示のひとつひとつを確認しながら仕事をしていたが、 今では、 猿山も彼に責任を持たせて仕事をさせるようになっていた。そして発注業務の一部も猿山は彼に任せるようになっていた。

ある日、 平台に乗せて売っていた商品が在庫薄になった。 蟹江は取次店に在庫を確認したのだが、
「今補充中で在庫がない。」 という返事だった。 それならばと、 蟹江は版元に電話した。
「もしもし、 「あそびの事典」 を10冊ください。」
「ああ、 それなら取次さんにあります。」
「さっき取次店に電話したら、品切れている、 ということなんですが。」
「いや、 あるはずです。 この間かなりの数を補充しましたから。」
「それが、 ないと言っているんです。 だから注文をお願いしたいのですが。」
「えっ、 電話注文ですか。 それはちょっと。 うちは取次店と取引をしておりまして、書店さんから直接というのは。」
「違います。 直取引じゃなくて、 取次さんへの注文を電話で受けてほしいということなんですが。」
「そんなことをしなくても、 取次店にあるのですから、 取次店に注文してください。」
「だから、 さっきも言ったけど、 取次店にないので電話しているのです。」
「だからこちらもさっき言ったように、 電話でお受けできないので。」
という会話を3回繰り返したところで、 蟹江は受話器を置いた。

 蟹江は思った。 いったいどうなっているんだろう。 書店で本が売れている、 ということがどういうことなのかを電話口の人は想像出来ない、としか思えないような出来事だ。 本が作られ、 取次店に納品され、 そして書店で販売され、 それを読者が読んで、 仕事に役立てたり、 楽しんだりしているのだ。 読者に届けるべき本が品薄になり、 書店がそれを補充しようとしている時に、 書店や取次店の事情ではなく、 店頭にない本を前にして困った顔をしている読者の顔を想像できないなんて、最低だと。

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