そのことを店を閉めた後、近くの赤ちょうちんで猿山に伝えた。 しかし犬田が予想したとおり、 猿山の答えは 「ノー」 であった。 現場にいることでここまで来た自分を、 管理の場に置くことなど猿山には出来ない相談だった。 猿山には仕事に対するある考え方があった。それは、
会社に勤めるということは、 仕事を通じて自分をどう表現するか、ということなのだろうが、 それよりもなによりもお金を稼ぐということが、 現実的な意味だ。お金を稼ぐということは、 つまりは出世するということだ。 出世するということは、 会社にとって有益であると認めてもらうことであり、 多くの人を指導できると判断されることである。 こうした場合、 その人は管理職と呼ばれるポジションに立つことになる。 管理職とは現場をコントロールする仕事である。 管理職という仕事は、 だれでもできるわけではないから、 給料がよい、 ということになる。 だからみんなこの職に付けるよう努力するというわけだ。 だが猿山にとって現場とは自分自身のことでもある。 現場を他人に任せるということは 、猿山にとって仕事を辞めることに等しい。
髪の毛に白いものが目立つようになった猿山は、 もくもくと棚の整理をする。 平台の前で展示について考える。 売上カードを丹念に仕分ける。 出版社の営業マンと熱心に議論をする。 彼は長年にわたり棚と話をすることだけが仕事だった。 彼の頭の中には本を売るということしかなかった。 管理職になることなど全く頭になかった。 なぜなら管理職になれば現場を離れなくてはならず、 少なくとも本にかかわる仕事がしたいと思い書店に勤務している以上、 本から遠ざかることなど考えられないことだった。 本の温もりを感じていることがすべてだった。
彼は、 定年になるまで現場で本と向かい合うことを望んでいた。 そして猿山は本の販売については誰にも負けたくなかった。 「犬猫堂の猿山」 と言われるような仕事をしたかった。
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