その29

《精一杯がうれしい》

 藤川がスズメちゃんと話をしていると、 レジの鳩山さんが年の頃は60才くらいのご婦人と、何やら話をしているのが目の端に止まった。 しばらくして藤川と話をしているスズメちゃんを鳩山さんはレジに呼んだ。 きっと何か本の問い合わせだろうと藤川は、 中断した話をそのままに、 スズメちゃんが仕事を済ませるの待った。

「スズメちゃん、 この方が習字の本を探してらっしゃるということなんだけど、 私わからなくて、 丘さんは今日休んでいるし 、お願いできます?」 と鳩山はズズメちゃんに応対を頼んだ。
 藤川は、 スズメちゃんがそのお客と棚の前で何やら本を何冊も抜き出し話をしているのを遠くから見ていた。 いろいろと質問をしているお客と、 その質問にひとつひとつ熱心に答えている彼女の後ろ姿を見ていた。 10分が過ぎ、 20分が過ぎ、 もうすぐ30分にもなろうとしたときそのお客が 、納得した顔で1冊の本をレジに運んだのが見えた。
 長い時間待たせたことに済まなそうな顔をして戻って来た彼女に、藤川が
「どうしたの」 と聞くと、
「習字を始めようと思うのだが、 初心者向けの本はないかというので、 あれこれと話をしながら本をいっしょに選んでいたら、 あっという間にこんなに時間がたってしまった」という。
何事もなかったかのように、 藤川と仕事の話を続けようとする彼女に、
「いつもあんなふうに丁寧に応対しているの」と聞くと、 「書店というのは、 客商売だけど、 実はこんな風に本について相談をしてくれる人はめったにいなんです。 大概の場合、 どこそこ出版社のなになにという本ありますか、 という会話で終わってしまうんです。 だからめったにないこういう場合は、 できることを精一杯したいと思ってしまうんです。 実は私、 習字のことなんにも知らないんです。 だけど、 こんな本はどうか、 あんな本はどうかなんてお客さんと話しているうちに、 結構習字についてわかったんです。 お客さんと話をすることで身についたことってたくさんあるんですよ」 と彼女は照れながら言った。

 藤川は、 普通接客というのは 、忙しいという理由が、 時折にお客さんに対して失礼な態度となって現れるものだと思う。 けれど彼女の仕事は、 自分の知っている範囲で精一杯役に立ちたいというそれがお客の満足を勝ち得たのだと思った。 藤川は、 彼女の素直な気持ちが嬉しくて、 待たされた時間など忘れてしまっていた。

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