その33

《夢の人》

 猿山は店が終わってから、 蟹江を近くの赤ちょうちんに誘った。 なるべく仕事の話はすまいと思っていた猿山だったが、 現実的な話ばかりをする蟹江に、 猿山が一目置いていた斎藤書店の店主の話を聞かせたくなったのである。 彼が、 蟹江に聞かせたのはこんな話だった。

 斎藤はいつも猿山に自分自身の夢を語っていた。 猿山が彼の店を訪ねた時、
「500坪の店を持ったら、 そこには僕の好きな本をたくさん並べるんだ。 棚はきちんと整理して、 お客さんがいつでも気持ち良く買えるようにしてね。」 と自分の店がまだ50坪ほどにもかかわらず大きなことを言っていた。 また彼は、 なかなか本を覚えてくれないアルバイトばかりの自分の店に不満をもっていた。
「あの棚には、 まだまだ展示すべき本があるんだ。 でもみんな忙しいからね。 今の仕事をするだけで精一杯だから、 多くのことを要求できないんだよ。」
「そうそう、 あの棚 、○○って本がないでしょう。 補充中だって担当者は言ってるけど、 そうじゃないんだよ。 もうひと月も本が切れたままなんだ。」
電話が鳴った。
「あー、 そうですか。 すぐに出版社に電話して在庫を聞いてみます。 後ほどお電話しますので 、電話番号を」
どうやら、 品切れ本の問い合わせらしい。 出版社に電話を入れた彼は、 電話の向こうの相手から、 在庫があるという返事をもらったらしい。 得意満面の笑顔を見せた彼は、 すぐさまお客さんに電話をした。
「ありました。」

 そんな彼は、 これまでの多忙が祟ったのか、 入院することになった。 入院するとはいえ、 フリーになった時間をこれまで忙しすぎて出来なかった読書に当てるのだと言って、 そのための本をたくさん買って来た。
「A書店には本がちゃんと揃っているよ。」
彼は、 自分の店ではなく別の書店で本を買い揃えて来たのである。 そういう彼の言葉の端に、 これまで自分ができなかったくやしさがあった。
 それから間もなく、 彼はこの世を去った。 しばらくは奥さんが店を引き継いでいたが、 先日斎藤書店は彼の夢を実現できないまま閉店してしまった。

蟹江はこの話を聞き終わったとき、
「悲しい話ですね」と言った。
それを打ち消すように猿山は言った、
「蟹江くん、 夢なんだよ。 でも実現できない夢なんだよ。 500坪の夢のような書店。 そんなもの出来ないんだよ。 でも語れる夢があることは、 僕は羨ましいと思っているんだ。 斎藤くんはきっとA書店の棚の前でワクワクしながら本を買っていたんだと思うよ。」

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