その35

《領収書ください》

 鶴田はレジの仕事が好きだった。 いろんな人がいろんな本を買っていく。 その本に犬猫堂のカバーを掛けて、 「ありがとうございました」と言う。 そんな仕事が楽しかった。 それに客注品の受付も、 入荷が遅くて叱られたり、 本を間違って渡して怒られたりといろいろ大変だけれど、 どうしても読みたいと思っているお客さんに本を届けられることが嬉しかった。 慣れないうちは、鳩山に何度も注意されたり、 POSレジのことが分からなくて失敗もあったけど、 ようやく本を売るということが面白くなってきていた。 それでもやっぱり面白くないこともある。 それはつい先日のことだった。

 鶴田は、 いつものように笑顔で、 レジに立っていた。
「いらっしゃいませ。 420円になります。」
文庫本を1冊買ったお客にそう告げたとき、
「領収書ください。」 とそのお客は言った。
普通、 領収書を求められるのは、 その本を会社で買ったりするときだ。 だから本もそれなりの本で、 金額もそれなりの場合が、 ほとんどだ。 鶴田が今売った本は、 ミステリーで、 領収書が必要になるような本とは思われなかった。 変なお客さんだなと思いながら、
「はい、 少々お待ち下さい。」 と言って、 領収書に日付と金額を記入し、 そして判を押してそのお客に渡した。
「ああ、 悪いけど、 日付を抜いて欲しいんだけど。」
そのお客は、 渡された領収書を見ながらそう言った。
「日付を抜くんですか。 そういうのはできないんですけど。 お買い上げに日付を入れるようにと言われてるのですが。」 と鶴田が言うと、
「できない。 そんなことはないよ。 どこでもやってるよ。 金額の入ってない領収書だってくれるところもあるんだから。」
鶴田は、 思った。 この人は何か不正をしようとしていると。 鶴田はなんだかいやな気分になり、 きっぱりと言った。
「できません。」
隣で鳩山が、 ニヤニヤしながら見ていた。
出来る、出来ないという押し問答がしばらく続いた後、そのお客は、
「しょうがないな。」と言って、 店を出て行った。

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