その36

《どこかって、どこ》

 「学生出版社です。 いつもお世話になっています。 この間配本した 『建築を学ぶ君へ』 売れてるかな。」
と、 川はヒナちゃんに声をかけた。
「藤川さん、 それ、 なんでしたっけ。」
ヒナちゃんのいつものオトボケが始まった。
「1週間前くらいには、 店に届いているはずのA5判の表紙に鳥の絵のついているやつなんだけど。」 と藤川がヒナちゃんが思い出せるように装丁のデザインを説明してやると、
「ちょっと待ってください。 入荷ノートを見ますから。 あー、 確かに入荷してるわね。これは確かスズメちゃんと相談してあの棚に入れておきましたから。」
と、 なんだか怪しげな返事である。
藤川は、 ヒナちゃんが本を入れたという棚の前まで行った。
「うーん、 ヒナちゃん、 ちょっと見当たらないね。」
「そうですね、 ないですね。 もしかしたら売れたのかしら。」 とヒナちゃんは言った。
「そうだといいね。 売れたんだったらいいね。」 と藤川は言いつつ、 心中は穏やかでなくなってきていた。
 ヒナちゃんの話がなんとなくいい加減であると思ったからだ。 入荷した本をすべてヒナちゃんが覚えていることを藤川は期待しないし、 そんなことができる人に藤川は会ったこともない。 新刊が入荷した。 ノートにチェックもした。 棚詰めもした。 でも売れたかどうかわからない。 たとえPOSデータを調べて売れたことが分かったとしても、 いったいそれがなんになるのだろう。 売れた、 売れた、 めでたし、 めでたし、 ということ以外、なんの価値があるのだろう。 商品管理って、 商品を管理することだ。 管理とは把握することだ。 ノートに記入した時点で仕事が終わるのではなく、 管理するためにノートはあるはずだ。 日常の仕事が、 入荷と棚詰めだけに終始しているとこんな会話が存在するようになるのだと藤川は思う。
「売れたのだったら、 補充しましょう。」 と藤川はヒナちゃんに持ち掛けた。
「いや、 ちょっと待ってください。 どこかにあるかもしれないから。」 ヒナちゃんは少し困った顔をして言った。
藤川はヒナちゃんに、
「どこかって、どこ?」
と意地悪な質問をしようと思ったけど止めてしまった。

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