その38

《店番のおばーちゃん》

 犬猫堂が50坪で開店したころ、 犬田は人を雇う金がなくて、 猿山以外のスタッフといえば、 奥さんとアルバイトの学生それに犬田の母であった。 彼の母は、 開店当時はまだ書店で働くのに高齢すぎるという訳ではなかったが、 それでも若くはなかった。
 犬田は、母にレジを任せていた。 藤川と犬田の母との出会いにはエピソードがあり、 犬猫堂に出入りするようになったのは、 この犬田の母によるものであると言ってもいいだろう。
 藤川が今思えば、 それは開店して10年ほどたった頃のはずである。 犬猫堂からの客注品の注文を偶然にも藤川が何度か受けた時のことである。
「もしもし犬猫堂ですけど、 ○○を2冊ください。 お客さんがすぐに欲しいといっているんですけど、 すぐにもらえますか。」
「はい、 すぐに出します。 明日には取次店に入りますから。」
「あーそう、 助かるわ。 ありがとう。」
 電話の主の声は、 普段聞き慣れた若い女性の声ではなく明らかに高齢の女性からである。 しかし注文の仕方は実にはっきりしており、 丁寧なのである。 藤川は、 気になっていた。 いったいどんな人なんだろうと。 そしていったいどんな店なんだろうかと。 藤川はいつもの販売促進のルートをはずれて、 電車で1時間程離れた犬猫堂を訪ねてみることにした。
 そこには 『彼女』 がいた。 レジを任されているという表現よりもその風貌から言えば、 「店番」 という方が似合っていた。 カウンターに座り、 お客さんからの問い合わせや注文をテキパキをこなしている。 店の商品についても大変な知識をもっているようで、 お客さんの問い合わせに、 棚の場所を適確に案内していた。 店にある本ない本はちゃんと把握しているようで、 ありませんとか注文してくださいとか言っている。
 藤川は、 早速、 注文を出してくれていることや、 学生出版社の読者に親切にしてもらっていることの礼を述べた。 しかし彼女は、 当たり前のことを当たり前のようにしているのだから、 という雰囲気で、 藤川が訪ねて来たことにそう特別の感覚は持っていないように、 藤川には見えた。 しかし藤川の方は、 もうすでに80才を越えているかのように見える彼女の仕事ぶりに感激してしまって、
「おばあちゃん、 こんど客注が入ったら、 持って来ますよ。 そう直納しますから。 うちの会社はここから1時間ほどだし、 このあたりは用があってよく来ますから。」 と告げたが、 彼女は、
「そう、 ご親切に。」 と言ったきり、 仕事を続けていた。
 その後も何度か犬猫堂から注文が入った。 勿論急ぎの注文もあった訳だが、 彼女は本を持って来て欲しいとは言わなかった。 そのかわり、 どれぼど急いでいるのかを言葉を選んで伝えるだけである。 それがダイレクトでない分よけいリアルで、 「おばーちゃん、持っていきますよ。」 という言葉を藤川に言わせてしまうのだった。
 藤川が犬猫堂に着くと、 「ありがとう、 ごくろうさん」 といって少しほほ笑んでくれた。 それ以上の言葉はない。 藤川は、 事務所に行き、 犬田から直納品受領書を受け取った。 犬田は大笑いしながら言った。
「藤川さん、 また負けたね。ご苦労さん。」
 それからしばらく彼女は、 レジにいたが、 藤川が数回直納した後、 鳩山が入社したのをきっかけに店を引退した。

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