その43

《文化を蔑ろにする》

 書店における、 本と文化について、 ちょっと考えさせられる事があった。 それは1週間ほど前のことだ。
 犬田が仕入金額の計算をしていたときである。事務所のドアをノックする音がした。 「どうぞ、お入りください。」と言うと、一人の男が入って来た。
「はじめまして、飯塚というものですが、ちょっとご相談がありまして、聞いていただけますか。」というので、アルバイトか何かの相談だと犬田は思った。
「実は、こういうものを出版したのですが、犬猫堂さんで置いていただけないかと思いまして。」と言って1冊の本を大きなバッグから取り出した。それは詩集で彼の作品を集めたものだった。
「ああ、申し訳ないけど、うちではこういうのは扱かわないんだよ。それ直取引でしょ。」と犬田が言うと、 「直取引というか、置いて頂ければいいんです。1000円なんですけど、売れても私に支払うことはないんです。タダで置いて行きますから、適当に売っていただければ、それでいいんです。タダのものを1000円で売っていただくのですから、ご迷惑じゃないと思うのですが、どうでしょう。」と言う。
「やっぱり、ダメですね。我々は商品を扱っています。商品というのは、売られること、つまりコストをかけて作られたものが売れて貨幣に変わるものを扱っているんです。あなたがお持ちのその本は売られることではなく、読まれることを期待してあなたが作られたものです。この店にタダで置いていかれるのだっら、駅前で配られたらどうでしょうか。」と犬田は少し冷たい口調で言った。
「それならば500円で置いていきます。1冊500円でどうでしょうか。これで商品と言っていただけるでしょうか。」その男はなんとしても店に置いて欲しいという気持ちで犬田を見つめながら言った。
「つまり1冊500円で仕入れて欲しいということですね。それでは、ちょっと考えますから。」と言って犬田は本のページをめくった。そしてしばらく考えた後、
「ダメです。うちでは売れません。」と言うと、男は少し怒った様子で、言葉を強よめて 「書店というのは、文化を売っているんじゃないんですか。僕のような非力な者の出版物を売ってくれるということこそ、書店の仕事ではないでしょうか。売れる本しか置かないから、どの書店に言っても同じでつまらない書店ばかりになってしまうんです。犬猫堂はそのへんが他の書店と違うと思っていたのに。」と言うと、犬田から本を奪うようにして事務所を出て行った。

 犬田は、男が出て行った後しばらく考え込んでしまった。
 店に配本される本を棚に入りきらないという理由で返品したり、平台の商品を動かないという理由で3日ほどではずしたりしているけど、これが出版社や著者にバレて、みんなが「文化を蔑ろにしている」と言って怒鳴り込んで来たら大変なことになるな。
 犬田は、さきほどの男の真剣な表情を思い出していた。

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