その52

《時が流れた》

 藤川には、この業界で先生と呼べる人が一人いる。 藤川が学生出版社に入社した頃、 大手書店の店長だったその人は、 藤川に本という商品について、 そして本を売るということを教えてくれた人である。 今彼は、 すでに50才を過ぎ、60才に手が届く年令を迎えようとしている。 その彼がパソコンに向かってキーボードを叩いている姿を見たとき、 藤川は、 書店も情報化の時代になったのだなとつくづく思った。彼が若かった頃、自分のこのような姿など想像も出来なったことに違いない。

 パソコンというのは、 慣れるととても便利な道具であるが、 アナログ的な思考をすることに慣れた人には、 その取り扱いに困惑したり、 凄い数のキーのついたキーボードの前に立ち尽くしたりするものである。 藤川自身、 パソコンを道具とするために、多くの時間を費やした。 藤川にとってパソコンがそのような存在であるならば、 藤川の大先輩である彼にとってパソコンがどのような存在であるのかは想像できる。 きっと若い部下に向かって、
「パソコンなんて使わなくても仕事はできるんだ。 パソコンに使われるような仕事はしてはならん。 データはデータにしか過ぎない。」 というような事を言っていたに違いない。

 ある日、 藤川は彼を久し振りに訪ねた。 そして最近の取次店のコンピュータ管理システムをどう使うか、というような話をしていた時だ。
「最近は、 電話がかかって来なくなって、 ほんとに仕事がやりやすくなった。 電話がかかってくると仕事を中断しなくてはならないからな。」
「電話がかからないというのはどういうことですか。」
「メールだよ。 社内連絡のようなものは、 すべてメールで済ましている。 便利だぞ。 おまえはまだ使っていないのか。」
などと話している時、 事務の女性が彼にメールを届けた。
「そうか。」 と頷いた彼は、 手本を見せてやる、 と言ってパソコンに向かってキーボードをたたき始めた。 彼はメールの返事を書きすぐさま送信した。
「ほら、 便利だろう。 うるさい経理とのやりとりはメールに限るよ。」 と笑いながら言った。
藤川は、 呆然と彼を見つめていた。

 時は流れたのだ。

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