そんな彼女の心の中に、 喝采の日と呼べる思い出がある。 それはこんな日のこんな出来事だった。
いつものようにレジで仕事をしていると、 初老の紳士が本を尋ねてきた。
「あー、 分からないかもしれないけど、 川本史朗っていう著者の本を置いてるかな。」
鶴田はしめた、 と思った。 彼女の知っている評論家のことだったからだ。
「ああ、 それなら、 左手の社会科学というプレートの出ている棚の、 こちらから見て3本目の棚にあります。」
と自信たっぷりに答えた。
「ああ、 ありがとう。 君、よく知っているね。」
と言って、鶴田が案内した棚の方へ向かった。
それを聞いていた鳩山が、 驚いたように言った。
「鶴田さん、 すごいわね。 いつ覚えたの。」
「へへへ、 実は昨日、林さんの棚詰めの手伝いをしているとき、 私がどこに入れたらいいか分からなくて、林さんに聞いたのが、 川本史朗の本ってわけ。 最近けっこう人気があるんだって。 岩田新書でも出ているって林さん言ってたわ。」
と鶴田は嬉しそうに答えた。
「なーんだ、 そういうことだったの。」
とカラクリを知った鳩山は、 変に安心したように言った。
しばらくしてその紳士が本を1冊手にしてレジに戻って来た。
「ありがとう。 あったよ。 この本以外に棚にはあと2冊あったんだが、 僕の持っている本だった。 他に彼の書いたものはないのかな。」
という言葉を聞いて鶴田は再びしめたと思った。 そしてすぐさま、
「岩田新書で1冊出ています。 すぐそこの棚にありますので。」
と言うと、 その紳士はあからさまな驚きの声を上げた。
「き、 君、 凄いね、 よく知ってるね。 いろんな書店を知っているけど、 君ほど何でも知っている人はいないよ。 びっくりした。 犬猫堂さんのレベルは高い。 素晴らしい。」
と拍手喝采、 べたぼめである。 鶴田は内心くすぐったい気分だったが、 誉められることはうれしいことだった。 仕事を始めて、 こんなにお客さんに誉められたことは一度もなかった。 たまたまであり、 偶然であったことは事実だが、 鶴田にとって、書店で仕事をする楽しみを見付けさせてくれた出来事だったわけである。 そして、 このうれしい感触を鶴田は忘れたことがない。