その55

《返品のご了解》

 蟹江は、 一日中電話にかじりついていた。
「犬猫堂と申しますが、 大変恐れ入ります。 少しお願いがあってお電話を差し上げています。」
と言いながら、 蟹江は電話器に向かってペコリとお辞儀をした。 そして受話器の向こうの出版社の担当者に続けて言った。
「実は、 客注品でキャンセルがありまして、 返品のご了解をいただきたいと思うのですが。」
と頭を掻きながら言った。 しかしどうやら相手は、 注文品の返品は受け取らない、 と言っているらしい。 蟹江は少し困って説明を続けた。
「貴社の本を取り寄せたのですが、 お客さまが内容が思っていたものと違うとおっしゃって要らないと言うのです。 どうか入帳をお願いしたいのですが。」
と事情を伝えたのだが、受話器の向こうからは、
「そう言われても、 注文したものを返品したい、というのはそのお客さんの責任で、 買って貰うしかないんじゃないですか。 それなのにそれを引き取ったのは犬猫堂さんの責任なのですから、 それは犬猫堂さんでなんとかすべき問題だと思うのですが、 どうでしょう。」
と事務的な返事しか返って来ない。
「そのとおりなのですが、 思っていたものと内容の違う商品をお客さんに買って貰うなんて、 できないじゃないですか。 なんとかなりませんかね。」
と蟹江は最後のお願いをしたが、結局返品の了解は貰えなかった。 蟹江は電話器の前で大きな溜め息をついた。

「そうなんだよな、 理屈は正しいんだよな。 だって食堂に行って、 注文した品が自分の思っていた味と違うからと返品なんてしないのだし、 出来ない。 そういうことなんだ。 でもなんかすっきりしない。 本という商品の場合、 食堂の注文とは意味が違うような気がする。 注文を受けた時に、 お客さんにキャンセルは出来ませんよ、 と念を押してもいいのだけど、 本ってそうやって売るものなんだろうか。 他の商品なら中身を確かめてから買うのだけど、 本という商品は、買ってから中身を確かめるという部分もある。 だから、 売る方も買う方も商品に対して曖昧な部分を引きずったままなんだ。 そういうことだから、 内容が違うから返品したい、 そういうなら返品を受けましょうというやりとりは、 理屈や規則の問題ではなく、 お客さんと店の信用というべき問題なのだと思う。 そういうことが理解されずに返品の入帳を断られたのは、 僕自身や犬猫堂が出版社との間に、 キチンとした信用を作れなかったからなんだろうな。」
と蟹江は独り言をいいながら、 また別の出版社の電話番号をダイアルした。
「もしもし、 犬猫堂と申しますが、 うっかり返品を忘れてしまった委託期限切れの新刊がありまして、 ぜひとも入帳をお願いしたいのですが。」
蟹江はまた電話に向かってお辞儀をした。
電話に出た営業部の担当者はいとも簡単に言った。
「期限切れですか、期限ギリギリまで置いて貰ったのに売れなかったんですね。それなら、入帳しますよ。またいい本出しますからその時はよろしく。」
蟹江は、呆気にとられていた。
蟹江は、この日30本の電話をした。半分の本は何とかなったのだが、やはり返品出来ない本が残ってしまった。
「いつも、いつもこうなんだけど、こういうのってほんと何とかならないものだろうか。」
そう言いながら溜息をつき、夕方の忙しくなる売り場に出て行った。

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