その60

《1と0》

 蟹江は、 プリンターから打ち出されたPOSレジの集計データにピンクのマーカーでチェックを入れていた。 彼がチェックしているのは、 ゼロ回転の本である。 彼は、売れ行きの悪い商品を棚から排除しようとこの作業を始めたのだが、 しばらくするとデータシートはどんどんピンク色に染まり、途中でその作業を止めてしまった。
「こんなに売れていない本があるんだ。 棚の回転率を上げるためには、 こんな本を在庫しちゃダメんなんだ。 でもこれを全部棚から放り出したら犬猫堂の棚はガラガラになってしまうな。」
彼は、 データシートをぼんやり眺めながら、 考え込んでしまった。
そんな蟹江に、 事務所に入って来た猿山が声をかけた。
「よー、 どうした。 そんな深刻な顔をして。 寅がまた何かしでかしたのか。 ハハハハ」
と大声で笑った。
「ああ、 猿山さんでしたか。 実は、 このデータなんですが、 犬猫堂の商品って売れていないものがたくさんあるんですね。 これじゃ、 まずいんじゃないでしょうか。 もっと回転率のいい商品をたくさん仕入れないと、 売上は上がらないと思うのですが。」
と言われて猿山はピンク色に染まったデータシートに目を移した。
「ほんとだね。 売れていない商品がいっぱいあるね。 でも書店の商品ってまあこんなもんじゃないかな。 コンビニだったら、0回転商品は即刻撤去なんだろうけど、 書店の場合そんなことをしたら棚はガタガタになっちまうよね。」
蟹江は、 いつもは商品の回転についてうるさい猿山のこの言葉が意外だった。
「猿山さん、0回転商品がこんなにあるんですよ。 まったく売れない商品つまり、 ゴミがこんなにあるんですよ。 これを売れる商品と入れ換えないと売上は上がらない、ということではないでしょうか。」
蟹江は、 少し語気を強めていった。 しかし猿山はそんな蟹江にほほ笑みながら言った。
「蟹江くんの言うとおりだと思う。 売上を上げるためには不良在庫を一掃するべきだと思う。 しかし0回転の商品すべてに不良在庫のレッテルを貼れるだろうか。 例えば、 そのデータどおりに0回転商品を排除したとすれば、 以前の犬猫堂の規模、つまり50坪あれば十分展示できるだろうね。 勿論展示されている本は1回転以上の本ばかりで売れた実績のあるものばかりだから、 販売効率はとても高くなることが予想できるよね。 でもほんとなんだろうか。 50坪の犬猫堂と100坪の今の犬猫堂が同じ売上になるんだろうか。 どう思う、 蟹江くん。」
蟹江は、 少し間を置いて答えた。
「理屈の上では、 同じだと思いますが、 同じ状態がいつまでも続かないということも分かります。」
猿山は、 蟹江のその言葉を聞いて更に続けた。
「そうなんだ、 1回転以上の本だけを集めた50坪の犬猫堂もやがて0回転の本を抱えることになる。 そして0回転の本がたくさんある100坪の犬猫堂だって同じ条件なんだけど、 0回転の実績しかないとはいえ倍の商品を抱える犬猫堂の方があらゆる面で有利なのは分かるよね。なぜなら、0回転の本を更新したり、 売るための工夫が倍できるからだ。
 0回転の本が不良であるというのは、 数字を見れば誰だって分かる。 その本を排除するのも誰だって出来る。 大切なことは、 なぜそれが売れないのか、 売れない本が陳列されている棚はどういう状態なのか、 売れない本の群れの中に高回転の本はあるのか、 ないのか、 1回転の本が2回転する可能性があるのか、2回転させるためにどうすればいいのか、 そして最も大切なことは、 データを取った時には0回転だったが、 その本が本当に死筋なのかということだ。 つまり、 データが示す1と0は、その本の売れる売れないを示しているのではなく、 その本が展示してある棚の質と販売傾向を示しているのだということなんだ。 猫の飼い方の本を陳列している棚で、ある本が10回転その他は0回転だとすると、0回転の本が不要なのではなく、 その棚は商品を更新することでまだまだ読者を掘り起こせるということだし 、犬の飼い方の棚はすべてが3回転だから今のままでよい、ということではなく、 さらに展示数を増やせば売れるということだ。 勿論この場合、 増やした本の中に0回転の本が発生するのは当然だ。 そしてこの0回転の本を次ぎの作業でどう評価するのかということだ。」

蟹江は、 猿山の話を黙って聞いていた。 そして目をもう一度データシートに移した。
「わかりました。 このシートを持って、 棚の前で1点1点チェックしてみます。 猿山さんの言うとおり、 データはデータでしかないと思います。 実際の商品を目で見て、 その商品や棚を評価する作業は必要だと思います。 でも僕にその力があるかどうか。 それでも商品を見る力がなければデータは単なる数字でしかなくなりますから、 がんばります。」
と言うと、 蟹江は勢い良く店に飛び出して行った。

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