その63

《備蓄は美徳か》

 書店の棚の一番下には、 本のストック場所が設けられている。 引出式になっているものが最近では主流だが、 オープンになっているものもある。 その使い方は、 売行良好書の補充品をしまっておいたり、 配本のあった新刊について、 棚に入りきらないものをしまっておいたりするのである。 だからこのストックについては、 売れたものの補充や、 売れ行きの悪くなったものの返品のチェックなどで少なくとも一日に1回は見なくてはならない、 いや必然的に見ることになるはずのものである。

 ある日、 レジで鳩山はお客さんから問い合わせを受けた。
「『境界線の彼方』 という本はありますか。」
鳩山はその本がどこにあるのか分からなかったので、 大声で林を呼んだ。
「スズメちゃん、 『境界線の彼方』 という本わかる?スズメちゃん担当の本だっけ?」
「ああ、 それならあるわよ。 お客さんこちらです。」
林は、 お客さんを棚に案内した。
「こちらです。」
と棚を指差したのだが、 そこにあるはずの本がないのだ。
「あ、 あ、 ありませんね。 少々お待ち下さい。」
慌てながら林は、 ストックが入っているはずの引き出しを開けた。 引き出しの中にはたくさんの本が入っており、 林はその本の中からゴソゴソと目当ての本を探した。
「あるはずですので。」
というのが精一杯で、 なかなか見付からないことに焦りを感じ始めていた。 引き出しの中の本を順に放り出しやっと見付け出したその本は引き出しの一番下にあった。
「あ、 あ、 ありました。 どうぞ。大変失礼しました。」
安堵の表情をした林に、 お客は冷たく言った。
「さっきこの棚を見たんだけど、 そんなところにあるんじゃ僕にはわからないよね。 どうもありがとう。」
林は本を売り逃がさなかったことに満足だったが、 もしレジで問い合わせてくれなかったら、と思うと冷や汗が出た。

 ストックを持つということは、 売り逃しを防ぎ、 1冊でも多く売るための方法なのだが、 棚に出ていなければ何の意味もない。 前日に売れた本をチェックしなかったからこういうことになったのだ、 と林は思った。 そしてもしかして見過ごしてしる本がこれ以外にあるのではないかと思い、 慌ててすべての引き出しを開けてみた。 するとやはり出て来た。棚に出ていない本が。
「あああ、 ストックがあると安心しちゃうんだよね。 ないよりはましだって。 でも棚に出ていなければ、 ないのと同じだもんね。 さっきのお客さんみたいに問い合わせてくれればいいのだけど、 そんな人はめったにいないし。 よし、 今日は在庫品のチェックをしよう。」
林は腕まくりをし、 引き出しからすべての本を放り出し始めた。
 どれくらいの時間が経ったのか林にはわからなかった。 それくらい熱中していた。 それは普段からストックに気を配らなかった自分自身のせいでもあった。 ストックからは、 返品すべき本、 棚に出すべき本などが大量に出て来た。 林はその数に圧倒されて、 林はヘナヘナと床に座り込んだ。 そして体中から冷や汗が噴き出すのがわかった。
「補充用在庫の管理のことは、 店長や猿山さんから棚の商品同様十分にするようにって言われてたのに、 私、どうしよう。 ついついこれは残しておこうとか思っちゃうからこうなってしまったんだわ。 それに補充用のストックがあるのに注文を出してるのもあるし。」
林は、 売ることだけを考えて在庫品の管理をおろそかにしてたことを悔やんでいた。
そして事務所に行くと、 赤いフエルトペンで紙に何やら書き始めた。 それにはこう記された。
「備蓄は美徳か」
これを見ていた犬田は、 林に尋ねた。
「スズメちゃん、何それ。」
林は苦笑いしながら、こう答えた。
「私のこれからのテーマです。」

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