その65

《考えすぎるとハゲる》

「困ったわね。」
とポツリと丘は言った。
「何が困ったんですか。 便秘ですか。」
と寅は丘をちゃかした。
「バカ。 困ったのはこれ。」
と丘は寅に業界新聞を見せた。
「ああ、 文庫の創刊ですか。 結構売れそうなラインナップじゃないですか。 売れますよ、これ。 で、 なんでこれが困ったことなんですか。」
寅は怪訝な顔で丘を見た。
「こういうのって、困るじゃない。 ほら、 犬猫堂を見てごらんなさいよ。 文庫の棚が幾つあると思う。 ここ数年、 文庫本の創刊が多くて、 前の店からこの店になった時、 かなり文庫の量は増やしたのよ。 それでもけっこう窮屈で、 それぞれの出版社の新刊とベストセラーものしか置けない状態なの。 まあそれでもいいのだけど、 それじゃ他の店と同じでお客さんにとって良い棚とはいえないよね。 それでもって、 また文庫の創刊でしょ。 結局今ある本を少し減らして置くことになるのよ。 売れないのだったら最初から置かなければいいのだけど、 文庫って結構売れるから、 棚を作ることになるでしょ。 新刊だけって訳にはいかないから既刊書も置く。 するとこれまで置いていたものが置けなくなる。まあそういうことなのよ。 今回の創刊で、 何をどう減らすのか、 頭が痛いわよ。」
と丘は溜め息交じりに言った。
「まあ、 そういうことなんでしょうけど、 そんなに深刻に考えなくてもいいんじゃないんですか。 売れないものは売れないのだから、 そんなのを返品して 、売れる新刊を置けばそれでいいんですよ。 文庫っていうのは、 ほかのジャンルの本と違って、 どんどん新刊出して、 それでそれが売れて、 そいでもって終わり、 という世界でしょう。 既刊本がどうのこうのっていう世界じゃないんですよ。 出版社だってそういうつもりで出しているんだし、 お客さんだってそう思っているから、 大丈夫ですよ。」
と、 寅は丘を悩みから解放するつもりで言ったのだが、 それが丘の頭に来た。
「寅くん、 何言ってんのよ。 文庫の世界ってそうじゃないのよ。 文庫って出版物の最後の姿なのよ。 場合によるけど、 雑誌の連載から始まって、 単行本になって、 それで新書になるものもあるけど、 文庫本になるの。 文庫の次ぎの出版形態はないのよ。 あとは絶版が待っているだけ。 確かに売らんがための文庫というのもあるけど、 文庫は単行本を買い漏らした読者がその本を読める最後のチャンスだし、 廉価だから手に取りやすいものなのよ。 文庫っていうと新刊しか売れないようなイメージだけど、 犬猫堂の場合だと、 平台より棚の方が回転がいいのよ。 知ってた。 それは新刊は、その月に出る銘柄によってすごく売上が上下するのだけど、 棚は管理さえしっかりしていればキチンと回転してくれるのよ。 だって文庫というのは古典から名作、 話題の本までなんだってあるんだから。 そして読者もそんな文庫の魅力を知っているという訳。 売れ筋だけの文庫の棚なんてなんの意味もないし、 読者にとっても魅力的じゃないということなの。」
寅は、 軽はずみな発言をしたな、 と少し後悔した。 そして控え目に丘に尋ねた。
「それじゃ、 どうするんですか。 今度創刊される文庫本は売るんでしょ。だったらやっぱり何か返品しなきゃ。」
丘は、 目を吊り上げて言った。
「分かってるわよ。 だから今こうして、 困ってるんじゃない。 もういいわよ。 考えるから。もうあっちへ行ってよ。」
と言うと、 寅の手から業界誌を取り上げると、 事務所の方へ歩いて行った。
寅はそんな丘に、 後ろから声をかけた。
「そんなに考えると、 ハゲますよ。」

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