その69

《文庫本になってます》

 出版物の中には、パターンをもっているものがあるものがある。 それは文芸書によく見られるもので、 雑誌連載、 単行本化、 文庫 (あるいは新書) という流れの中で消費されていくというパターンある。
 学生出版社の藤川は、 犬猫堂の文芸書の棚の前にいた。 専門書を中心に出版している学生出版社は、 一般の人達でも読める本を年に1、2点出版する。 そんな時、 犬猫堂で売ってもらうため、 本の案内に訪問するのだが、 今日は猿山から難しすぎるという理由で販売を断られた。 すこし失望したが、 猿山と話をした後、 以前から読みたかった本を探しに文芸書の棚の前にいたのである。
 棚の前で本を探している藤川を丘がみつけて声をかけた。
「こんにちは。 何か捜し物ですか。」
「ああ、 こんにちは。 ちょっと欲しい本があって見てるんだけど、 聞いてもいいかな。 僕の探している本のことじゃないんだけどね。」
藤川は、 犬猫堂の文芸書の棚に他の書店とは違うものを見つけていた。 それについて丘に聞いてみたくなったのだった。
「あのね、 あそこにある本だけど、 あれって文庫で出ているよね。 文庫化されたら単行本なんて売れないんじゃないの。 よその書店ではもう置いてないよ。」
と棚を指さしながら藤川は丘に質問した。
「そうね。 あの本は文庫化される直前には販売部数が減っていて、 文庫になったら、 また結構売れたわね。 文庫にするってことは、 単行本を売り切った後に、 二次読者に買わせるという出版社の戦略でしょ。 形とパッケージと値段を変えて同一内容で2回目の販売をするというやり方よね。 単行本には手が出なかったけど、 文庫になり値段が安くなれば読んでみようと思う読者がいるということよね。 文庫の魅力ってやっぱり値段だから。
 でもね、 本によっては文庫じゃなく単行本で読みたいという読者がいるのよ。 別の言い方をすれば、 単行本で持ちたいということかな。 本を、 内容ではなく、 本そのもの、 つまり内容を含めた本という質感全部で価値を認める読者がいるっていうことなの。
 藤川さんが指差しているあの本は、 藤川さんも良く知っているとおり、発売時にはベストセラーになった本だけど、 その後も犬猫堂ではズーッとロングセラーなの。 もちろん売れる部数は少ないのだけど。 そんな本について、 文庫になりましたので、 単行本はありません、 なんてこと出来ると思いますか。 実際、 文庫になった直後でも、この本は単行本で売れてましたから。」
丘は藤川に一気に説明をした後、 少し胸を張った。 自分の販売方法に自信満々という風だった。 そんな丘に藤川はもう一度質問した。
「そんなことをやっていたら、 文庫化された本で一杯になっちゃうじゃないですか。 それに文庫化された本は出版社で単行本の方を絶版にしちゃうでしょう。」
藤川のこの質問に丘はさらに胸を張って答えた。
「藤川さん、 それは逆よ。 文庫化された本を棚から全部外すと、 棚は新刊本中心の貧弱なものになってしまうのよ。 それぞれの作家には、その中心になる作品ってものがあるからね。 そういうのは、 文庫になっていることが多いのだけど、それを外しちゃうなんて棚として変でしょ。 それと文庫になったら単行本がすべて絶版なんてこともないのよ。 手に入りにくくなるのは事実だけど、 出版社に電話して在庫を確認すると、 取次店のコンピュータは在庫がないなんて言っている本でも手に入ることもあるしね。」
藤川は、丘の自信たっぷりの姿を見て、 自分が探している本がきっと犬猫堂にあると確信した。そして丘に聞いてみた。
「あの本がここにある理由はよくわかったよ。 ところで、僕が探している田中智美の 『さよならとこんにちはの狭間で』 という本はありますか。」
と言うと、
「それなら文庫になっているわよ。」
という答えが返ってきた。
「単行本の方はないんですか。 さっきちょっと見たら棚にはないようなんですけど。」
そう言う藤川に丘はあっさりと答えた。
「その本は、 単行本でも置いておくような本じゃないから。 犬猫堂のお客さんに合わない本だったのかしら、 新刊の時もパッとしなかったし。
 ところで藤川さん、 恋にお悩みですか。 田中智美の本を読むなんて。」
藤川は、 少し顔を赤らめながら、 何も言わずに文庫の棚にむかった。

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