その70

《減ったのに増えた》

 蟹江は、 犬田の突然の相談に困惑していた。 それは昨日のことだった。
「蟹江くん、 学習参考書のコーナーに小さな棚があるだろう。 ほら、 教科書ガイドの案内板がぶら下がっているところの棚だよ。 あれを撤去しようと思うんだ。」 と犬田は、 そう蟹江に告げた。
「え、 どういうことですか。 あの棚には語学の本が入っていて結構売れ行きもいいんです。 あれをなくしてしまうということですか。」
と蟹江はたいそう驚いた様子で犬田に聞いた。
「あ、 そういうことではなく、 棚そのものを店から撤去するということだ。 語学の棚を撤去するということじゃないんだ。 語学の棚は別のところに作るつもりなんだけど。」
と言うと、 蟹江は更に驚いたように言った。
「語学の棚を別のところに作るといっても、 棚が1本なくなるんですよ。 どこにどう今入っている本を収するんですか。」
そういう蟹江の言葉に少し戸惑いながら、 犬田は、棚の撤去についてもう少し詳しく話をした。
「だから君に相談しているんじゃないか。 ちょっと考えてみてくれないかな。
実はあの棚は、 リニューアルしたとき、どうしても設置できなかった語学のコーナーを作るために、 出来上がった図面に後から足した棚なんだ。 蟹江くんも分かっていると思うけど、 あの棚のせいで学習参考書のコーナーの一部がブラインドになってしまっているんだ。 つまりコーナーの入り口に立った時、 在庫量に比べて見える在庫が少なくなってしまっている。 せっかくたくさんの在庫があるのに見える量が少ないってことだ。 お客さんの印象っていうものは、 見えるものがすべてだからね。 語学のコーナーの裏側まで入って、 ここにもあったんだ、 なんていうのは単純に店の都合に合わせた展示の仕方だ。展示は、お客さんの印象を良くするものじゃないといけないと思うんだ。 確かにあの棚を撤去すればその分在庫は減る。 でもあの棚がなくなって、すべての商品が目に入るようになれば、 在庫が増えた、 というような印象を与えることができると僕は考えているんだけど。」
 犬田からそう説明を受けて、蟹江は棚が1本なくなった犬猫堂の店の風景を想像してみた。
「確かに、 店長のおっしゃるとおり僕だってこの棚が、 取って付けたような棚で、 店全体からいうと違和感を持っていました。 撤去すればすっきりして学習参考書のコーナーは、 今より本を選び易くなるのと思います。 でも今、 書店は1冊でも多くの在庫を持ち、 たくさんの本を展示することで読者を獲得しようとしている時代です。10坪より20坪、100坪より200坪、300坪より500坪の書店が有利な時代です。 ブックスローカルに客を少し取られたのもやはり展示量の差なんではないでしょうか。 こうした時期に棚を減らすというのは危険なのではないかと思うんですが。」
 蟹江の言っていることは犬田にはよく理解できた。 50坪の犬猫堂が100坪になった時のお客の反応がその証だ。 展示数が増えればお客の期待が膨らみ足を運んでくれるのだ。 しかし、 と犬田は思った。
「蟹江くん、 そのとおりだ。 しかし犬猫堂は100坪なんだ。 それは現実だ。 君の考え方でいうと、 この店にさらに棚を増設して展示数を増やせば売上は上がるということになる。 でもそれは疑わしいと僕は思うんだ。 この店に更に棚が増えた状態を想像したらいいよ。 本はぎっしり並んでいるけど、とても本が探しづらいだろうし、 倍の在庫になったところでお客さんに本当に倍の在庫量をアピールできるかどうかそれも疑問だ。 僕は在庫を増やすことより買い易く、 出来るだけお客さんが欲しいを思うものをたくさん展示することが大切なような気がする。 今度の計画では、語学の棚を小学生向きの参考書の棚の隣に設置する予定だけど、 そのためには学習参考書全体の10%をカットする必要がある。 やってもらえるだろうか。」
と犬田は多少の無理は承知で蟹江に頼んだ。
「だいたい分かりました。 やってみましょう。」
蟹江は、 すべてを納得したわけではなかったが、 商品の見直しも出来ると思い犬田の申し入れを受けた。
その後1週間が経過した。

「出来ましたよ。 10%のカットはつらかったですが、 よく見ると不要な在庫が結構あることがわかったんです。 特に小学生向けの部分では、 売れ行きが落ち込んでいるものがたくさんありました。 それに語学についても必要のないものがありましたし、 これで全体的なバランスは取れそうです。 いつでも撤去できます。」
と蟹江は自分の仕事に少し満足そうに犬田に報告した。
「ああ、 御苦労さんでした。 それでは早速、 今夜にでも実行しようか。 善は急げというしね。」
と犬田も満足そうに言った。

閉店後店に残ったのは、 犬田、 猿山、 丘、 もちろん蟹江、 そして棚の撤去という力仕事には欠かせない寅だった。
撤去する棚から本を抜き出し、 返品すべき本を抜き出し、 語学の棚を設置し、 棚をビルの外へ運び出し、 すべての作業が完了したのは、時計の日付が変わってからだった。
「できたね。」
と犬田はポツリと言った。 その言葉に続いて猿山が言った。
「開店するとき僕が無理をいってあの棚を付け足したんですよね。 こうして見るとやはりあの棚は必要なかったんですよ。 ああ、 見易くなった。 学習参考書のコーナーが生き返ったみたいですね。」
そういう猿山の言葉に、 みんなが頷いた。
蟹江は、 在庫が減ったにもかかわらず、 前よりもあたかも在庫が増えたように見える棚を見ながら、 書店における棚の見え方がこれほどまでに書店の印象を決定づけるものなのかと思った。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ