その73

《嘘》

レジ係の鳩山が、 を呼んだ。
「すいません、 お客さんの問い合わせなんですけど。」
寅は、 文庫の棚を整理している時、鳩山の声を聞いた。 そしてその手を止めてレジの方へ向かった。 そこには、 三〇代のビジネスマンが立っていて、 寅が近付くとこう言った。
「すいません。 川村出版社から出ている 『冗談の上手な奴、下手な奴』 って本ありませんか。」
 寅は返品業務をしている関係で、 店に出ている本について、丘や蟹江よりも知識があるのだ。 だからレジ係の鳩山や鶴田は寅を頼りにしている。
 寅は、 とっさにその出版社の本が店にないことに気付いた。 店に置いていないのだ。 寅は、 お客にどう答えるべきか困った。 「ない」 と言ってしまえば、 それはそれで簡単なことだけど、 このお客が犬猫堂なら置いているだろう、 と思って来てくれていることは明らかなのだ。 「置いていません」 の一言がどれだけお客を失望させるか寅には想像できた。 それは自分自身が他の店で何度も経験していることだからだ。
「あっ、 その本ですね。 ちょっと棚を見て参ります。 しばらくお待ちください。」
そう言うと、 寅は一般書の棚の方へ向かって歩き出した。 そして棚の前で、 本を探した。正確に言うなら、 本を探すふりをしたのだ。
「よわったなあ、 ありもしない本を探すなんて。 でもせっかく店に来てくれているんだし、 ありません、 なんてすぐに言えないし、 こうするより方法はないんだから。」 と心の中でつぶやきながら、 ない本を探し続けた。
 しばらくして、 寅がお客のところに戻ってきた。
「あいにく在庫を切らしているようです。 誠に申し訳ありません。」
そう寅が言うと、 そのお客はしかたないなという表情を見せて、
「品切れですか、 よく売れているんですね。」
と言いい、店を出て行った。
お客を見送ると、すかさず鳩山が言った。

「ねえ、 寅くん、 あの本って、 もしかしたら店に置いていない本じゃないの。 思い出したのだけど、 川村出版社の本ってうちでは扱いをしてないって丘さんが言ってたもの。」
「そのとおり、 置いてないんだよ。」
「なんだ、 知ってたの。 だったらなぜ棚まで行って本を探してたのよ。」
と言う鳩山の質問に、 寅は頭を掻きながら、
「だってさ、 ありません、 置いていません、 って言えるかい。 せっかく犬猫堂に来てくれて、 ここならあるかもしれないと思って聞いてくれているんだよ。 1分1秒を争う仕事をしていて手を止められないなら、 置いていません、 の一言で片付けてもしかたないけど、 1、2分探すふりをして、 それでお客さんの失望を少しでも和らげられるのなら、 その方がいいじゃないか。」
と答えた。
「へーっ、 寅くんって偉いね。 そんな風に出来るなんて。」
と言う鳩山の隣でこの話を聞いていた鶴田が言った。
「でも、 寅くんは嘘つきよね。」

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ