その75

《恋》

 林鈴女は、 最近山田ヒナが、 棚の前で夢想しているのをよく見かける。
「ねえ、 ヒナちゃん、 最近体の具合でも悪いの。 なんかボーッとしているように見えるんだけど。」
「やだ、 スズメちゃん、 ボーッとしてるだなんて。 私ちゃんと仕事してますよ。」
山田は、 林の言葉を打ち消すように言った。
「でもなんだか、 変だよ。 この間も私が、 あの本を歴史の棚に入れといてね、 って言ったのに、 ヒナちゃん、 政治の棚に差してたでしょ。 やっぱり変だよ。 あんなの間違わないもん、 普通だっら。」
山田は、 林からそう言われて、更に強く否定した。
「そんなこと絶対ありませんって。 たまたま間違っただけ。 やだなあ。」
そう言うと、 整理台に積んであった本を抱えて棚の方へ行ってしまった。
 林に指摘されるまでもなく、 山田は自分でも気付いていた。 寅のことが気になってしょうがないことを。

 寅が、 山田ヒナが好きだと言っていたホラー映画に誘ったのは、 一カ月ほど前のことだった。 同じ日に休みが取れない二人は、 寅が仮病を使うことでそれを実現させたのだった。 いっしょに映画を見て、 食事をして、 お決まりのデートをした彼女の心の中で、寅が大きな存在になったのは、 寅が自分の夢を彼女に聞かせたからだった。
「俺、 猿山さんみたいな書店人になりたいんだ。 猿山さんみたいに力を付けて、 いずれは書店を開くんだ。」
という寅の言葉に、 彼女は魅かれたのだった。
 それ以来、 寅の仕事ぶりが気になり、 そして夢を持って働いている寅の姿が頼もしく見えるようになったのだった。 ヒナは雑誌の返品伝票を切っている寅のところに雑誌の山を持って行った時、こう言った。
「ねえ、 いつかこんな風に、 二人で働けたら楽しいだろうね。 私がレジで、 寅くんが裏で返品伝票切っててね。」
寅はうつろな目をしてそう言っている山田ヒナを見て言った。
「ヒナちゃん、 何言ってるんだよ。 俺は今忙しいんだよ。 訳の分からないこと言ってないで、 その返品をそこに置いてよ。 ここにある雑誌の山を今日中に片付けなきゃならないんだから。」
 林が、 二人の仲に気付いたのはそれからしばらく後のことだった。 山田が、 じっと寅のことを見ているのをしばしば見かけるようになったことと、 昼休みに二人で仕出し弁当を食べている光景が、ほほえましく見えたことなどからだ。
「ヒナちゃん、 寅に惚れたね。」
そう冷やかされたヒナは、 真っ赤になって黙ってうつむいていた。

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