その82

《忙しい》

 藤川は、 久し振りに出張先で書店を訪問していた。 小さな出版社では、 営業という仕事は、販売先を販売促進するだけではなく、 社内の事務処理などやるべき仕事が山ほどある。 だから書店を訪問しようとすれば、 日々の仕事を段取り良く片付けておかなくてはならないのだ。

 藤川は、 なんとか仕事やりくりし、 出来ない仕事は同僚に託して出張先に来ていた。
「久し振りだな。 それにしてもなんて人が多いのだろう。 誰もがみんな忙しそうだ。 活気というよりも喧噪というべきなのかな。」
と独り言をいいながら、 人で溢れる交差点を渡っていった
。 出張の目的は、 東京都内に開店した超大型店を見ておきたいと思ったからだ。 この数年大型の店が増え 、藤川のところのような小さな専門書出版社の本を置いてくれる店が増えたことを藤川は喜んでいたが、 ただ置いてあるだけで 置いていないより少しマシな程度の書店もあることも事実だった。 今度出来た店がそうではないことを祈りながら、 藤川はその店に向かっていた。

 藤川は店に入り、 担当者を呼んでもらいたくてレジ係の女性にその旨を伝えた。 しばらくして担当者と思われる男が本を抱えてやって来た。 藤川は、 挨拶をし、 自社の商品の話や売れ行きについて話を始めようとした時だった。 彼は事務所から出て来た男に呼ばれた。
「すいません。 ちょっと待っていただけますか。」
と言ってその場を離れた。
藤川は、 しかたなく、 しばらく棚を見ながら過ごしていた。 開店間もないこともあって、 藤川が出荷した本は棚に揃っていた。 いくらばかりかの欠本はあったが、 それは売れて補充中なのだろうと理解した。 10分ほどたった頃、 男は戻って来た。
「お待たせしました。 それで用件はなんでした?」
「用件というほどのことではないのですが、 私のところの本が売れてるかどうか、 また売れずにご迷惑をお掛けしているんじゃないかと思いまして、 それに開店後の様子も少し聞かせてもらおうかと。」
そう言うと、 男は少し怪訝な顔をして藤川に言った。
「おたくの本、 ちゃんと置いてあるでしょう。 売れてるかどうかはちょっとわからないなあ。」
それだけの会話を交わした時、 今度はレジから呼ばれた。 男は、 すいません、 と言って再び藤川から離れた。その男が次に藤川のところへ戻って来たのはかなりの時間がたってからだった。

 藤川は、 すでに諦めていた。 ここで詳しい話をしようだとか、 聞こうだとかそんなことは思ってはいけないということを。 忙しいのだ。 商品の動きがどうだとか、 そんなことを考えている暇もないのだ。 用件もないのに話かけてはいけないのだと。 戻って来た男の顔には、 あからさまに、 忙しいのに相手をしている暇はない、とでも言うような雰囲気が漂っていた。
「忙しそうなので、失礼いたします。」
と藤川は、その男にそう伝えた。
その言葉を聞いて、 そうですか、 とだけ言い、男は本を棚に補充し始め、 それを終えると事務所に消えて行った。

 藤川は思った。
「犬猫堂の連中も忙しいけど、 こんな風じゃないよね。 確かに書店の仕事は雑用が多くて忙しいのだけど、 来訪者の相手が出来ないほどじゃない。 働く人に余裕さえ与えないような店は、 きっと棚だってそのうちだんだん荒れちゃうんだろうな。 なぜなら棚は人が作るものだから。 人がこんな風じゃ、 棚だってそうなるに違いない。 最近書店の棚が荒れているのは、 きっと忙しすぎるからなんだ。 店員が本を立ち読み出来るくらいの環境じゃないと、 棚なんて作ってる余裕はないよ。」
藤川は店を出て、大きく溜め息をついた。

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