その83

《つぶれた》

「店長、潰れたらしいですよ。」
と猿山が犬田に言うと、 犬田は猿山にとぼけた返事を返した。
「寅とヒナちゃんの関係か? あいつら最近うまく行ってないようだからな。 ハハハ」
「店長、違いますよ。 出版社ですよ。 潰れたのは。」
と猿山はあきれたように言った。
「え、 いったいどこなんだ。 もしかして講山出版社じゃないだろうね。」
と犬田は大手出版社の名前をあげた。
「違いますよ。 そんなところが潰れるわけがないでしょう。 ほら最近タレントの写真集やエッセイを立て続けに出していた宇治出版ですよ。新聞広告を出したりして、 最近かなり派手にやってたから、なんか危ないなあなんて思っていたんですがね。」
「そうか、 宇治出版ね。 で、 その情報はどこから手に入れたんだ。」
犬田は、 その情報が正確なものであれば、 すぐにでも店中をチェックして、 返品しなければと思った。 なぜなら倒産した出版社の本は、 時間が立てば返品出来なくなるからだ。
「ああ、 藤川さんですよ。 学生出版社の。 彼によると潰れたのじゃなく潰れそうだ、 と言うんですけど。 かなり信頼性の高い情報だそうです。 でもこういうのが広まると一気にパニックになるから、 絶対に漏らさないようにって釘を刺されましたけどね。」
と言う猿山の顔を見ながら、 犬田はしばらく考え込んだ。 そこそこ売れている出版社だから、今返品してしまえば売り損じることになると思ったからだ。
「でも、 宇治出版の本って売れてないわけでもないし、 どうして潰れそうだって藤川くんは言うのかな。 宇治出版以外で売れていない出版社の本なんて一杯あるのにね。」
と犬田は、 宇治出版の倒産の可能性について否定的だった。
「それは、 なんでも資金繰りの関係だそうですよ。 売上以上に膨大なコストをかけているらしいんですよ。 たとえば新聞広告とか、 自転車操業的な新刊の発行や、 制作コストだとかそんなことにね。 で、 銀行が今こんな調子でしょ。 そういうことらしいんですよね。」
それを聞いて犬田は納得したようだった。
「わかった、 とりあえず店からすべて引き上げよう。 火のないところに煙りは立たず、だからね。」
それを聞いて猿山は、 蟹江や丘を呼んで宇治出版の本を店から引き上げるように指示した。しばらくして蟹江と丘が持って来た本は、 6冊だった。 それを見て、 再度チェックをするように指示した。
 それから1週間後、 新聞に小さく宇治出版の倒産の記事が出た。
「やっぱり、 本当だったんですね。」
猿山は、 しみじみと言った。 それは書店だってそのうち、 という気持ちと、 本を作るということや本を売るということが、 極めて地味な商売であるかということを感じたからだった。
「ああ、 あれだけ派手にやってたんだから。 本というのは所詮趣味の領域にあるもんなんだよ。 大量販売には向かない商品ってことかな。 幻想だよ、 ミリオンセラーなんてね。 マスセールスやミリオンセラーはないことはないけど、 結局それを追い掛けていると、 いずれ破綻するってことだ。 雑誌1冊売って百数十円の儲け、 それの積み重ねでメシを食っているという書店の現実を考えれば、 莫大な利益を本という商品はもたらさないってことは、明らかだよね。
我々が潰れないようにするためには、 1冊1冊をしっかり売っていくこと以外に方法はないんだ。 お客さんのニーズをしっかり見詰めていれば、 大きく失敗することはないと思うよ。」
犬田はそう言うと帳簿に目を通し始めた。

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