その86

《信頼》

 レジに設置してある取次店と接続されているパソコンに向かってキーボードを叩いている鶴田に、犬田が声を掛けた。
「鶴田さん、それうまく使えているかな。」
そう声を掛けられた鶴田は、その質問の主旨がわからなくて、しばらく考えてからこう答えた。
「はい、店長。便利ですよ。特に、お客さんの問い合わせには随分重宝しています。本の名前しか分からなくて注文を出される場合、これで調べられますからね。それから、あいまいな問い合わせの場合も、これを使って具体的に書籍の案内が出来ますから。お客さんも納得されてますよ。目録で検索していた時代とは雲泥の差と言えるんじゃないでしょうか。」
 犬田は、自分ではあまり使うことのないパソコンのディスプレイを見ながら頷いた。
「ところで、そこに表示されている在庫についてはどうんなんだ。《在庫あり》と表示してるけど、それはどこにある在庫のことかな。」
そう質問されて鶴田は困った。
「えーっと、これは、取次店の流通倉庫の在庫のことなんですけど、今現在在庫があるということじゃなくて、在庫している銘柄ですよ、というくらいの意味なんです。だからそこに在庫があるかどうかはわからないんです。だってこのデータはリアルタイムで貰っているわけじゃないでしょ。データを貰った時にはあったけど、今はないってこともあるわけだし。だからお客さんには在庫があってもなくても、一応2週間くらい時間がかかりますよ、っていう風に案内しなきゃならないんです。」
犬田は少しがっかりした様子で言った。
「あっ、そういうことなの。それじゃ、最近では出版VANで取次店に自社の在庫データを流している出版社があるでしょ、そういうところの在庫情報ってのはどうなんだろう。」
「ああ、それはまた別の意味であいまいな情報なんです。藤川さんから聞いたんですけど、出版社の在庫情報は自主管理だから、それぞれ意味合いが違っているということなんです。例えば《在庫あり》と言っても1000部の場合もあれば10部の場合もあるんですよ。つまり出版社の都合で決められるものだから、《在庫あり》でも確実に手に入るという保証はないってことです。それからいい加減な出版社だと、在庫コードのメンテナンスを怠っていて、絶版になっていても《在庫あり》なんて表示しているところもあるようだし。
 だから私は、この在庫表示についてはあまり気にしてません。品切れ表示だとしても一応確認のために出版社に電話してるんです。だって品切の表示だからといって客注を断って、万が一在庫があったら信用問題でしょ。逆に注文を出したのに品切れという返事がきたら、これもやっぱりちょっとまずいですから。まあ、念には念を入れてということです。」
 犬田は少し頭が混乱した。せっかく導入したシステムが、使う人間から信頼されていないことについてだ。
犬田が少し考え込んでいるのを見てこう言った
「ああ、店長。そんなにガッカリしないでくださいよ。なんの手掛かりもない時代に較べて、すっごく便利になったんですから。」
犬田は鶴田にそう慰められたのだが、なんとなく釈然としなくてパソコンのディスプレイをしばらくじっと見詰めていた。

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