その88

《売り切れです》

 新刊の検品を寅と猿山がしていた。しかしその日はいつもと違ったムードが事務所に漂っていた。みんなが事務所に集まり、取次店から送られて来た新刊が詰め込まれた箱を見つめているのだった。
「なかなか出て来ないね。」
と鶴田が言った。
「いったい何冊入っているのかしら。」
と林鈴女が丘に聞いている。
「そんなこと分からないわよ。ほら猿山さんが伝票を持ってるから、それを見せて貰ったら。」
丘は、箱をじっと見つめながら、面倒臭さそうに答えた。
 この日は、犬猫堂の女性たちが愛読している、山崎さぶろうの新刊の発売日だったのである。
「ねえ、私は友達に頼まれているんだ。1冊欲しいんだけど、ちゃんと私の分もあるのかな。」
と山田ヒナが集まっている皆の後から声を掛けた。
「ヒナちゃん、ダメよ。みんな自分の分が欲しくてこうしてるんだから、友達の分なんてないわよ。」
意地悪そうに鶴田が言った。
そんな雰囲気に猿山がイライラしながら皆に向かって言った。
「おいおい、何を殺気立ってるんだよ。検品の邪魔だよ。終わったらみんなに言うから、それぞれの持ち場に戻って仕事をしなさい。」
猿山にそう言われて、それぞれが渋々事務所を出て行った。
「いったい何なんでしょうね。山崎さぶろうって、そんなにいんですかね。売れ筋の作家じゃないでしょ。結構マイナーだし、売れ行きだってそんなに良くないのに、どうしてうちの連中は、みんな揃って山崎さぶろう、山崎さぶろうって言ってるんですかね。」
寅は猿山に聞いた。
「寅は知らないんだな。この作家は女性ファンが多いんだよ。これからきっと人気の出る作家だと僕は思うよ。男が読むと甘ったるくて、とても読む気にならないのだけど、女の気持ちを掴かんでいるというのか、二十代の女性を中心に人気が出てくるのは間違いないよ。丘さんが山崎さぶろうコーナーを作っていて、そこそこ回転してるようだから、僕の予想もまんざらじゃないと思うよ。」
猿山がそう言い終わると、寅が本を箱から取り出して言った。
「ああ、これですね。ありました。でも2冊ですよ。配本は2冊だけです。これじゃ足りないですね。
 さては、猿山さん、知ってましたね、伝票を見て。配本が2冊だってことを。だからみんなを追い出したんでしょ。」
寅がそう言うと、猿山はニヤリと笑った。

 検品がすべて終わってから、猿山はクジを作って店内を回った。
「残念だったね。配本は2冊だったよ。丘さんが事前に注文を出してるから、そのうち追加分が入荷すると思うけど、今日の分は抽選だ。」
みんなは、猿山の差し出すクジを引いた。当りクジを引いたのは鶴田と林だった。二人は大喜びだった。鶴田は本を持ったまま何度も何度も「ヤッター」を繰り返していた。
「猿山さん、いいんですか。これじゃ店に出す分がないじゃないですか。お客さんが来たらどうするんですか。お客さんに申し訳ないですよ。店員がみんな買っちゃいましたなんて、シャレにならないですよ。」
寅が心配そうに言った。
「いいんだよ。店の連中だってお客さんだ。読者だ。これくらいの特典がなきゃ、書店に勤めている価値がないだろう。誰よりも早く、欲しい本を手に出来る、読める、そんなことがなきゃ、やってられないじゃないか。だからこれでいいんだ。」

 レジでは、鶴田が山崎さぶろうの本を買いに来たお客に言っていた。
「あのー、今日、山崎さぶろうの新刊が発売になる日だと聞いたんですけど、入っていますか。」
そう聞かれた彼女は胸を張って、
「申し訳ありません。ついさっき売り切れてしまいました。追加分が入荷する予定ですので、ご注文を承っておきます。入荷次第ご連絡いたしますので。」
と言った。

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