その90

《居酒屋》

 学生出版社の藤川と猿山は、犬猫堂がある町の小さな居酒屋にいた。猿山が藤川をビジネス抜きで話をしたいと持ち掛けたからだった。
「藤川さん、今日は申し訳ないです。僕の勝手なお願いを聞いてもらって。」
猿山は、藤川にビールを注ぎながら詫びた。
「そんなことはないですよ。ぼくだって一度、仕事の話じゃなく、ゆっくりと猿山さんの話を聞きたいと思っていたんですから。」
二人はしばらく昔話をしていたのだが、酒が少し回り出すと、猿山はこう切り出した。
「藤川さん、最近の出版状況についてどうお考えですか。僕達小売店は、少なくともメーカー、つまり出版社に依存して商売をしている訳なんですよね。僕達の未来は、これから出版社が何をするのかで決まるとも言えるじゃないですか。
僕達が今売っている本は、漠然としてですが、読者や本そのものが以前とは随分変わってしまったような気がするんです。出版物が変わっていけば、当然書店の在り方も変わっていくということでしょ。」
 そう言われて藤川は困った。猿山が言うように藤川も漠然としか書店の未来について考えたことがなかったからである。
「そうですね。確かに出版物に対する考え方は読者の方も出版社の方も変わりつつあるといえるでしょうね。その考え方の変化というのを端的にあらわしているのが、再販を含めた流通にかかわる変化なんでしょうね。出版流通は、スピードや確実性のことを問題にしているわけだけど、他の業界に比べてものすごいことをやってるんですよ。例えば、スーパーマーケットで誰も「山形産のダイコンをくれ。」なんていう注文をしないから、それで済んでいるけど、出版業界はそういうような要望に応えているわけですよね。そしてそのことにエネルギーを投入してるわけですよ。無理だとは思うけど、スーパーマーケットで客注を受け付けるようになったら、山形産のダイコン1本取り寄せるのに、きっと本の取り寄せくらいの時間はかかる筈なんです。いやもっとかかるかも知れない。扱ってるものが違うからこの例はおかしい、といわれるかもしれないですが、流通ということで言えば同じです。僕達の業界は何か訳のわからないオバケにとりつかれているんです。いわゆる「均一オバケ」ってやつですよ。そういうもんに惑わされているうちに、読者はもっと身軽にものを考えるようになっているんです。書店になければ、直接出版社に注文する。インスタントラーメンはメーカーに直接注文しても売ってくれないけど、本は手に入りますから。幾らばかりの負担は生じますけどね。こんなこと以外にもスピーディーに本を手に入れる方法はたくさんあります。本の宅配とかね。」
猿山はしばらく考えてから再び藤川に質問した。
「つまり、インターネット書店とか、無店舗販売とかそういうことを言ってるんですか。既存の書店はいらない、という意味で。」
藤川はそれを否定するように手を振りながら答えた。
「そうじゃないです。本は書店に行かないと手に入らないという消費者の感覚が薄れているということですよ。」
それにうなずきながら猿山が言った。
「つまり、本の流通経路が今後ますます多岐に渡ってくるということですね。」
「そういうことです。だから出版社は、この本は書店さんで売って貰うんだ、店頭に展示して中身を吟味してもらって買って貰うんだ、という商品よりも、多岐に渡る流通経路にも耐え得る商品を開発しようとします。どこでも、誰でも買えて、今売れる商品ですよ。現実にそういう商品が売れているでしょ。猿山さんがいう、漠然と商品の変化を感じる、というのはそういう商品が増えたことを言ってるんでしょうね。」
猿山は黙って藤川の言うことを聞いていた。
「もう少しだけ喋らせてくだい。」
そういうと藤川は言葉をつないだ。
「出版の場合、流通の要は取次店です。出版物をスムースに配本するのも、書店が円滑に本を仕入れられるのも取次店のお陰なんですよ。つまり取次店の力は、良い意味でも悪い意味でも強大です。取次店が何を、どのように、どこで売りたいのかという意志がすなわち、これからの本の販売の在り方を決定すると言ってもいいかもしれないですね。そしてそれはシステムという効率重視の考え方の上に立って決定されるはずです。」
猿山は不安げな顔で言った。
「ということは、失礼ですけど、藤川さんのところのような本は読者ニーズも小さいし非効率な本で、そんな出版社の本を置いている犬猫堂も非効率な書店だということですね。そのうち学生出版社の本はどこに行っても手に入らない。だから読者は書店店頭というチャンネルから別のチャンネルへ切り替えて学生出版社の本を手に入れる。こういう未来図ですね。全然売れないわけじゃなく、ちゃんと管理すれば売れる学生出版社の本を売らずに、効率の良い今売れる本を売って行く書店と、いろんな手段で本を手に入れることのできる読者とのギャップが、これからの書店の未来を決めるということですか。」
藤川は、長くなった話を切るために、猿山に酒をついだ。
「まあとりあえず、今のままじゃね、ということですよ。それから少しだけ視点を変えれば、ビジネスチャンスは転がっているとも言えるんです。均一オバケを退治するアイデアと勇気があれば、ですがね。」
そう言うと藤川は酒を一気に飲み干した。

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