その92

《再び居酒屋》

「すいません、もう一本。」
藤川は大きな声で店員に声をかけた。一方、猿山は、心地よい酔いを感じながら、犬猫堂の将来のことを考えていた。
「ねえ、藤川さん。なんだかんだ言っても、やっぱり書店の未来って、暗いってことじゃないでしょうか。つまるところ資本の問題なんですから。5坪の店を開店したって、それで商売ができるほど甘くはないってことです。お金がなきゃ何にも出来ないってことですよ。ブックスローカルがこの町にやって来た時そう実感しました。彼らの店には何でもあるんです。僕たちが必死で仕入れた数冊の本が、向こうにはドカーンとある。勝てませんよ。もうだめだ、と思いましたね。店長が決断して、店を大きくし品揃えを強化したお陰でなんとか対抗できましたが、それは清水の舞台から飛び下りるような決断だったんですよ。借金抱えてね。」 猿山は、藤川にそう言った。
「猿山さん、何を弱気なことを言ってるんですか。書店の未来ということですか。そういうことだったら、ある書店とない書店があるでしょうね。僕は犬猫堂には未来があると思ってますけどね。
犬田店長は、その未来が少し見えていたからこそ、借金をして店を大きくしたんですよ。違いますか。」
その藤川の言葉に、猿山は疑うような目で言った。
「慰めはうれしいですよ。でもこんな町のこんな書店のどこに未来があるっていうでんすか。売上は低迷、商店街だって活気を失ってるし。」
藤川は、慰めるつもりで言ったのではなかった。全国を歩いて見て来た書店の状況から言えば、犬猫堂が優れた書店であり、ますます均一化する書店の中で、読者に選らんでもらえる書店として、これからも充分読者から支持され続けると実感していたからだった。
「猿山さん、今書店の経営は大きな転換期を迎えていると言えるかもしれません。と言うより、拡大することで利益が上がっていた時代が過ぎようとしている、ということです。これまでは、店に本を並べるだけで本が売れていたので「経験」はコストのかかるものとして排除していました。アルバイトやパートが労働の主力です。10坪の店しかない場所に100坪の店が出来れば、その店に客が流れるのは道理です。何もしなくても売れるでしょう。でもそれはその時だけの話です。欲しい本がないのは10坪の店でも100坪の店でも同じです。なければ買わないのが読者ですから。
 猿山さんがブックスローカルの件で負けたと思われたのは、ベストセラーのことでしょ。確かにベストセラーは大資本の書店に多く流れます。資本の差が出るのはこういう時ですよね。
 100冊売るのにベストセラーは手軽だし誰でも扱うことが出来るし、今すぐ利益が上がります。アルバイトやパートが主力の店が最も欲しい商品でしょう。
 でも別の本を100冊売れば利益は同じです。違うのはベストセラー以外の本を100冊売るには経験と手間がかかるということです。その経験と手間をどう見るのかってことが、僕は書店の未来を決定する大きな要因だと考えているんです。
 ベストセラーだけに目を向けると、小さな書店はかなり不利で、大資本に押しつぶされそうに思えますが、本を売るのに大も小も関係ないでしょう。大書店と同じ手法で金儲けをしようとしても、それは無理というもんです。」
猿山は藤川のその言葉にわずかに表情を明るくして言った。
「ということは、犬猫堂には少し明るい未来があるということですね。今のやり方がこれから先も通用するということですね。」
 藤川は確認するように聞く猿山に、「だけど」、と前置きをしてから言った。
「儲ける、利益をドンドン上げる、ということだけを求めるなら、犬猫堂の未来は厳しいと言えるんじゃないでしょうか。だって、本1冊を売るためのコストが高いでしょ、犬猫堂の場合。ブックスローカルと比べれば分かりますよね。しかし、コストをかけた分だけお客さんの満足度が高いんですよ。だから犬猫堂を利用するお客さんが減らない、つまり売れるんです。儲けは少ないですけど。」
猿山は藤川の言う意味がよく理解出来なかった。
「いくら売れても儲けが少ないってことは、やっぱり未来はないってことじゃないですか。」
猿山が聞き直すと、藤川は少し言葉を強めて言った。
「猿山さん、じゃあ、人を減らせばいいじゃないですか。そうすれば儲けは増えますよ。それでも犬猫堂のお客が減らないという自信があれば、ですけどね。人を減らして売上が落ちたら、何の意味もないですからね。」
 猿山は藤川にそう言われてしばらく考え込んでしまった。藤川は猿山の盃に酒を注ぎ、自分の盃にも酒を注いだ。話し込んだせいで酒は冷えてしまっていた。その酒を一気に飲み干した猿山が、突然話始めた。
「そうですよ。犬猫堂に未来はあるんです。本という商品を売るということは、非効率な仕事であり、儲からないということが前提にあるんです。それでも本を売るというのは、その仕事が面白く、読者にいい本を届けるのだという誇りにも似た気持ちがあるからなんですよ。利益とか効率とかそういうことに過敏になって、非効率なものを徹底的に排除して利益を上げることだけに血眼になるということは、本という商品を売る場合には適さない。手間とコストを掛けてでもお客さんが喜ぶ本を揃える、そのことが売れるということにつながる。その結果として利益が上がる。それでいいんですよ。利益を上げるために売るのではなく、売れた結果としての利益でいいんです。本という商品はそういうもんですから。
 うちの連中はきっとそう思ってますよ。そう思って働いていれば、未来はある。そうでしょ、藤川さん。」
 藤川は、自信たっぷりに言う猿山の顔を見ながら、もう一度冷え切った酒を猿山の盃に注いだ。
「僕が言いたかったことを、全部猿山さんが言っちゃいましたね。犬猫堂の未来のために乾杯しましょうか。」
藤川と猿山は盃を小さく合わせた。

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