その93

《夢のつづき》

「猿山くん、なんか顔色が冴えないけど、どこか具合でも悪いのか。」
犬田はそう声を掛けた。
「すいません。昨日、学生出版社の藤川さんと痛飲しましてね。藤川さんが飲め、飲めって言うもんですから、つい調子に乗っちゃって。」
猿山は、頭を押さえながら答えた。
「なんだよ。二日酔いか。でも珍しいじゃないか。君がそんなに飲むなんて。」
「いやぁ、昨日はなんだか弱気になってましてね。そして藤川さんと書店の未来がどうのこうのって、ややこしい話になりまして。結局今のままでいいんじゃないかって、そんな話だったんですよ。
それで少し自信が取り戻せて、ついグイグイと飲んでしまったという訳ですよ。」
こんな猿山の説明では、犬田には何のことだかさっぱり分からなかったが、きっと猿山にとって嬉しい話であったに違いないと思った。
「なんだか、さっぱり分からないけど、まあいいや。でもその様子だと午前中いっぱいは仕事にならないようだね。ハハハ。」
と猿山を指さしながら笑い声をあげた後、犬田は声の調子を落として言った。
「ところでね、順風堂書店のことだけど、知ってるかな。あくまでも噂なんだけど、社員の給与カットに踏み切ったってことらしいよ。外から見ていれば、全国に支店を展開して、そのどれもが成功を収めているように見えるのだけど、内情は火の車ってことらしいんだ。」
すると猿山は表情を強張らせて言った。
「やめてくださいよ。昨日、藤川さんと書店の未来の話をしていて、明るい未来が見えそうになってたのに、そういう不景気な話は。」
「ああ、悪かったね。でも現実だよ。
君だって知ってるだろう。全国でどれだけ多くの書店が廃業になっているかってことを。ほら三都グループだって、あんなのが廃業してしまうなんて信じられないだろう。信じられないことが現実に起こっているんだ。」
犬田はそう言うと、溜め息をひとつついて続けた。
「なぜこうなったのかということだけど、その原因がぼんやりと見えると思わないか。
ひとつは急激な拡大路線であり、もうひとつは過去の遺産を引きづり、今に対応した商売にシフトしなかったことだと思うんだ。要するに、無理をしたか、ぼんやりしていたかということだ。本を売るってことは、その展示している本の数や店の規模だけで読者を魅了できないものだ。常に商品の更新をしたり時代性を取り入れないと読者から支持されないものだと思う。それを忘れて、規模の勝負をして、とりあえず売れてるからと、それで満足してしまうと、あっと言う間に書店はその魅力を失い、客を失うってことだと思うよ。まだまだ書店はつぶれるよ。」
そう言い終わると犬田はニヤリと笑った。
「店長、その笑みはなんですか。気持ち悪いですね。でもその笑みは、昨日藤川さんと話をしていた時に最後に結論として見つけた笑みと同じですよ。 その笑みの意味を言いましょうか。犬猫堂は潰れない、でしょ。」
二人は顔を見合わせてもう一度、ニヤリと笑った。そして猿山は、こう言った。
「まだ、夢は見つづけますよ。犬猫堂のお客さんに喜んでもらうという夢です。その夢さえあれば、なんとかなるでしょう。」
そう言う猿山に犬田は言った。
「夢だけで食えるほど、書店業は甘くないぞ。知ってるとおりこの店だっていつどうなるか分からないんだ。でも、だからといって夢を失ったら、書店をやっている意味がない。手綱が僕が握ってるから、君は夢を追えばいい。犬猫堂の運命の鍵を握っているのは、この街の人達だ。この街の人達に支持されれば犬猫堂は繁盛し、されなければ廃業だ。単純なことだよ。」
猿山の二日酔いの頭の中に、犬田の言葉が心地よく響いた。

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