その95
《旅立ち》
寅とヒナはレストランのテーブルに向かい合って食事をしていた。
「ねえ、ヒナちゃん。とりあえずって言って勤めている犬猫堂だけど、仕事はおもしろいかい。社員の補助業務ばかりで雑用が多く、いやにならないかい。それに結構きつい仕事だしさ。」
寅は、アルバイトとして入社して1年が過ぎようとしているヒナにそう聞いた。
「別に。いやだなんて一度も思ったことないわよ。だって、みんないい人だし、毎日お客さんに接していて楽しいし、それに書店っていろんなことが勉強出来るでしょ、いっぱい本があるから。」
そういう答えが返ってくることを確信していたかのように、寅はほほ笑みながら、ヒナに言葉を返した。
「そうだね。ヒナちゃんはいつも楽しそうに働いているもんね。最初はドジばかりだったけど、最近では、蟹江さんから仕事を任されているんだろう、成長したもんだよ。」
寅はそう言うと安心したように、ほほ笑みをヒナに返した。そして話を続けた。
「実はね。犬猫堂を辞めようかと思っているんだ。」
ヒナはその言葉に驚いた。
「えっ、どういうこと。寅くんの方が仕事がいやになったの。」
寅は首を振りながら答えた。
「逆だよ。書店の仕事が面白くてたまらなくなったんだ。最初は面倒臭い仕事ばっかりで、全然面白くなかったんだけど、本を売るってことが、これほど奥が深く面白いものだって気づいたんだ。猿山さんの仕事を見ていれば誰だってそう思うだろう。本が売れることを楽しんでいる様子をヒナちゃんだって知っているはずだよね。
それでね。もっといろんなことを勉強したくなったんだよ。言っちゃ悪いけど犬猫堂じゃそれも限界があるような気がするんだ。もっと大きな書店で本を売るってことを勉強したい。そう思うんだ。」
その言葉に頷きながら、ヒナは寅に言った。
「そういうことなの。ヒナは賛成だな。寅くん、以前に言ってたもんね。いずれ書店を開きたいって。私といっしょに。」
ヒナは少し顔を赤らめて言った。
「バカ。書店をやるには莫大なお金が必要なんだぞ。そう簡単にできるわけないじゃないか。
実はね。就職情報誌で見たんだよ。大阪に大きな書店ができるので社員を募集してるって。そこで働いてみたいんだ。」
ヒナは突然の申し出に困惑した。
「大阪なの。この町からじゃ通勤できないわね。ということは、寅くん大阪へ行っちゃうの。もう会えなくなるってわけ。」
ヒナは今にも泣きそうな声で言った。
「大袈裟だなあ。大阪なんて目と鼻の先じゃないか。休日には会えるさ。いままでのように毎日って訳にはいかないけど。」
寅がそう言うと、ヒナは大粒の涙を流し黙って下を向いてしまった。長い沈黙の時間が過ぎて行った。湯気を立てていた料理はすっかり冷めてしまっていた。そして突然ヒナがスプーンで冷めたスープをすくいながら切り出した。
「いいわよ。行ってらっしゃい。寅くんのためだもん。その代わりしっかり勉強して、しっかりお金を溜めて、私と書店が開店できるようになってね。
でも店長が寅くんを手放すかしら。」
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ。がんばるからな。店長には明日話をするつもりなんだ。わかってくれるよ、きっとね。」
そう言うと二人は水の入ったグラスで乾杯した。
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