その96

《本屋のおやじ》

 犬田は、自分がサラリーマンを辞めて書店を始めた時のことを思い出していた。「書店でも」という軽い気持ちで始めた商売だったが、それが大きな間違いだったことに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。書架とレジさえあればそれで商売ができるなんて考え方が、いかに甘いものだったかということをその時いやというほど味わったのだ。
 当時、「本屋のおやじ」というイメージが素敵なものに見えていた。喫茶店のマスターや本屋のおやじが、何となく趣味でメシが食えるという風に見えて、仕事としてはなかなかいいじゃないか、と犬田は考えていた。たいそう儲からなくてもいい、メシが食えるだけの売上さえあれば、そうも思っていた。しかしその考えも開店した途端、一気に吹き飛んだ。売りたい本が手に入らないのだ。犬田は仕入れでつまずいたのである。注文してもなかなか入荷しない本にイライラした。それでも何とか食えたのは、取次店や出版社に一生懸命商品の調達を働きかけたからだった。
本屋のおやじがのんびりしているというのが嘘であることに気付いた時にはもう遅かった。

「なあ、寅、大変だぞ、書店って言う商売は。やっと大きくした犬猫堂でさえこの有り様だ。分かるだろう。それに本を売るっていうことがいかに難しいかってことは、猿山くんや丘の仕事を見ていれば分かるだろう。朝から晩まで棚とにらめっこして、それでも売れる本なんて、ほんの僅かだ。流通はどんどんシステム化してるし、僕が始めた頃のように、軽い気持ちで書店でもやってみるか、なんて考えじゃまったく歯が立たなくなってるんだ。莫大な資金がなくちゃ、書店は開けなくなっているんだ。」
犬田は、勉強のために大阪の書店で働きたいと言い出した寅を前にして説得していた。
「わかってますよ、店長。犬猫堂でたっぷりと見せていただきました。儲けるということだけ考えれば、書店が割に合わない商売だってことでしょ。だから手っ取り早く儲かるようなスタイルの書店が増えていることも知ってますよ。だから、なんです。書店で本という商品を売るってことについて、犬猫堂のようなスタイルじゃなく、他のやり方や大きな書店に対する出版流通の現実や犬猫堂に置いていない商品の売り方やそんなことをたくさん知りたいんです。僕に書店ができるのかどうかそういったことを経験してから決めたいんですよ。本を売るってことが、どんなに楽しく面白いものかを知ってしまった以上、それをなんとか僕の仕事にしたいんです。」
寅は、やや興奮気味に犬田に向かって言った。

 犬田は、寅の言葉を聞きながら、犬猫堂を始める時、自分に彼ほどの熱意があったら決して最初の失敗はなかったと思っていた。なんとかなるさ、と思いつつ始めた自分との違いに犬田は少しの嫉妬を感じていた。
「なあ、寅。犬猫堂って書店のことだけど、どう思う。寅は好きか。」
「店長、理想だと思います。この町に犬猫堂があることがこの町の幸せだと言ってもいいくらいです。雑誌や話題になっている本をブックスローカルで買う人でも、読みたい本を探しに来るのは犬猫堂ですから。僕は書店というのは本を買うところじゃなくて、本を探しに行くところだと思ってます。探して自分の読みたいものを見付ける。本と出会う場所と言うんでしょうか、そういうところです。でも今の書店は、本を売ろうとするから売れる本しか置いていないんです。犬猫堂は本を探しに来る人に、こんな本はどうですか、こんな本もありますよって言っている書店です。そして働いている連中は本を探して、買って貰うことに仕事の面白さを見付けているでしょ。最高ですよね。その仕事でちゃんとメシが食える。その積み重ねで店を大きくすることも出来た。まあ借金のことは、僕は知らないですけど。」
犬田はその言葉に少し目が潤んでいた。
「ありがとう、寅。そこまで言ってくれるなんて嬉しいよ。君を育てた甲斐があったってもんだ。お世辞だと思うけどな。ハハハ」
そしてしばらく言葉を置いてから、犬田は言った。
「勉強して来いよ。出来ればそのノウハウを持って犬猫堂に戻って来て欲しいけどね。」
その言葉を聞いて寅は深々と頭を下げた。

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