その97

《人と人》

 レジカウンター横に置いてある取次店と結ばれたコンピュータ端末のディスプレイを見ながら客注品の発注をしていた鶴田に、鈴木が声を掛けた。
「ねえ、聞いた。寅が辞めちゃうんだってね。なんでも武者修行に出るらしいよ。」
「スズメちゃん、聞いたわよ。ちょっとビックリしたね。寅がそんなことを考えていたなんてね。それからヒナちゃんに、お前のために俺は書店の勉強をしてくるんだ。いつか二人で書店を開こう、なんて口説いたらしいのよ。笑っちゃうよね。」
噂というものが広がるのは早い。寅が犬田に相談したその日の内に、店中にその話は伝わってしまっていた。
「でもさ、噂話って怖いわよね。あっと言う間に伝わっちゃうんだから。テレビや新聞の情報って、自分で見たり聞いたりしなきゃならないけど、噂っていうのは耳を塞いでいても聞こえてくるんだもんね。」
鶴田は、林のその言葉に、自分のやっている仕事と人との繋がりについて、気が付ついたことがあった。

「突飛なことを言うようだけど、やっぱり人なのよ。」
そう切り出した鶴田に、
「何よ、突然。何の話なの。」
と鈴木は怪訝な表情で言った。
「寅くんが辞めるっていう情報だけど、人から人へ伝わってくるでしょ。そういうのって実は尾ひれが付いて、とんでもない情報になってることが多いのだけど、例えばその情報をパソコンとかそういう通信手段で得たとすると、辞めるっていう事実だけが伝わって、どうしてなのかってことやその気持ちみたいなものは伝わらないよね。だってそこに感情みたいなものが入ると客観的な情報が、別のものになっちゃうじゃない。でも人が伝えると、伝える人の感情や情報が付加されて、たとえそれが間違った情報でも人間的な表現として伝わるよね。寅くんの場合だと、そうか辞めちゃうのか残念ね、っていうような受け取り方になるのよ。」
理屈っぽい説明に鈴木は少しじれていた。
「鶴田さん、ごめんなさい。なにが言いたいのかよくわからないよ。」
「ああ、ごめんね。さっきからディスプレイを見てたもんでついね。
 つまり、情報というものは人が伝えるのと機械が伝えるのでは、同じ情報でも受け取り手の気持ちに違いが出るってことが言いたいのよ。
 例えば、コンピュータが在庫なしっていってるけど、電話してどうしてもお客さんが1冊欲しいって言ってるというと1冊ならありますよ、っていう返事が来たり、客注品の取り寄せ時間でもマニュアルどおりに2週間なんて言わないで、この出版社なら少し早くなるかもしれませんよ、って一言付け加えるだけでお客さんの顔がほころんだりするのは、結局人が人から受け取る情報にはその意味だけではなく感情的な何かが付加されているということなの。書店の仕事って八百屋さんや魚屋さんのような訳にはいかないから、人と人のコニュニケーションが少なくなっちゃうよね。だから、とりあえず本を並べておけばそれで勝手に買ってくれるとか、わかりません、ありませんなんて平気で言ってしまうんだと思う。でも、お客さんの方は、きっと書店のそういう応対には満足していないと思うのよ。」
鶴田はそう言い終わると、フーッと溜め息をついた。そして林はその言葉を噛みしめるようにした後でこう言った。
「なにが言いたいのか分かったわ。当たり前のことだけど、品揃えがどうした陳列がどうしたこうしたって言う前に、本という商品を売るってことは、書店人が読者のことをどれだけ理解をしているかってことが大切なんだって事でしょ。機械ではわからない、目に見えない部分をどう理解するのかってことよね。そうだな、本は、人と人のつながりの中でしか売れないってことかな。」
と言った後、林は突然声の調子を変えた。
「やだ、なんでこんな難しい話をしてるの。寅くんのことよ。どーする、送別会。ドーンと派手にやりたいよね。この不景気を吹き飛ばすくらい派手にね。」
その提案に鶴田も賛成した。
「やろうよ。私がみんなに意見を聞いて、すぐに日取りを決めちゃうからね。まかせてよ、宴会のことなら私に。」
そう言うと、鶴田は胸をドンと叩いた。

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