その98

《夢見心地》

 明かりの消えた深夜の犬猫堂に小さな影が動いた。犬猫堂の入っているテナントビルに棲みついている猫のフー助である。フー助はお気に入りの文芸書の平台に飛び乗ると、あたりを見回した。
「ここの連中は、本当によくやっているよ。ブックスローカルが出来たとか、不景気だとか、なんだかんだ言っても、ちゃんとお客さんは入ってる。3階の電気屋なんて郊外に出来たディスカウントショップに客を取られて、いつまでここで営業していられるのか分からない状態だし、洋服屋のおやじだって、毎日毎日溜め息ばかりついている。不景気なのはわかるけど、彼らにはそれをなんとかしようなんて考えはない。10年前と同じスタイルで同じような仕事してちゃ、そりゃお客さんだって離れるってもんだ。」
そう言うと、フー助は、平台の本のくぼみを見付けて寝転び、大きなあくびをした。
「この平台は羊子さんが管理してるんだったな。彼女の仕事はきめ細かいよね。昨日、僕が気持ち良く寝転ろばせて貰ったあの本のくぼみには、もうちゃんと本が補充されてしまっている。僕としては悔しいけど、こういう仕事が犬猫堂を支えているんだよ。この本は、売れ行きが落ちたんだろうな、昨日は確か、台の前の方に積んであったよな。今日は台の奥の方に場所が変わってる。それから、棚だってみごとに整理されてて、いつ見ても気持ちいい。こういう棚から本を買えるこの町の人は幸せだよ。僕だってこういう所で毎晩眠れるなんて幸せだし。」
 フー助はもう一度大きなあくびをして立ち上がった。平台から飛び降り、丘が本の仕分けに使っている整理台の方へ移動した。そして体を小さく縮めた後、大きくジャンプして、台の上の飛び乗った。
「新刊の発注メモか。そうなんだよね。犬猫堂のような店でも、新刊が潤沢に入荷するわけじゃないんだ。売れる商品の仕入れは丘さんの重要な仕事だからね。売れ筋の新刊発行情報に毎日毎日目を通して事前に手配しておく。結構面倒臭い仕事なのに、がんばっているよ。」
 フー助はノートに書かれたメモに目をやった。
「10冊の発注で入荷が3冊か。厳しいよね。未入荷なんて書いてあるのもあるし、これじゃ売上を上げていくのは難しいよね。でもこの現実に立ち向かって、犬猫堂の棚を維持しているところが、丘さんの腕ってところかな。」
 フー助は非常灯の明かりでぼんやり浮かんだ本を1冊1冊見渡しながら、心地よい眠気を楽しんでいた。それは猫ならずとも、本が好きであれば、夢見心地になるような書店の風景の中だった。

「ちょっと面倒臭いけど、冒険してブックスローカルまで行ってみようかな。犬猫堂にはないものがあるかもしれないし。でも店員の数が減って食い物が少なくなってるって猫仲間では評判だから、行っても何もないかもしれないな。あんなところまでわざわざ出かけなくてもいいや。僕は、ここで十分満足だ。」
フー助はゆっくりと目を閉じた。一日の出来事が頭の中を駆け巡り始めたが、ウトウトとした気分の中で、それもすぐに消えた。
「僕が、こうして幸せな時間を過ごせるよう、犬猫堂の連中にはまだまだ頑張ってもらわないと。」
フー助は、そう思うか思わないかの内に、深い眠りに落ちていった。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ