その99

《ありがとう》

「今日みんなに集まって貰ったのは、寅の新しい人生の旅立ちを祝うためです。もう知っているとおり、彼は大阪の書店に転職することになりました。残念ながら正社員にはなれなかったのですが、準社員、まあアルバイトと変わりませんが、として働くことになりました。犬猫堂の10倍はあろうかという巨大な書店です。商品管理は最新のコンピュータシステムを使った未来型書店でもあります。こんな田舎町の、こんな昔ながらの書店の経験を、その店で寅がどう役に立ててくれるのか、僕は興味があります。短い期間でしたが、寅には本という商品の売り方について、覚えてもらったつもりです。とにかく頑張って欲しい、新しい書店のスタイルを身につけて欲しいと思っています。
 しかし本音を言えば、寅が出て行くのは、本当に辛い。騒々しい男だが、うちの店では欠くことのできない人材でした。できれば、また戻って来てほしいというのが、正直な気持ちです。
寅、がんばって来い。」
犬田は寅の送別会の冒頭でこう挨拶した。

「自分の夢のために愛するヒナちゃんを置いていくのか。この薄情者。」
と蟹江が横から口を挟さむと、寅とヒナは赤面した。
「違いますよ、蟹江さん。僕の夢じゃなく、僕とヒナちゃんの二人の夢です。」
と寅が切り返えした。すると、集まった全員から拍手が起こった。
司会役の鶴田が、寅の門出を祝うためにやって来た学生出版社の藤川のそばにやって来て声を掛けた。
「藤川さん、寅くんのために何か一言お願いします。」
突然の指名に戸惑った様子だったが、藤川はゆっくりと立ち上がり、話を始めた。
「日頃は、犬猫堂のみなさんには、いろいろとお世話になってましてありがとうございます。その中でも、僕は、寅くんに、特別な意味を込めてありがとうを言いたいのです。
というのも、寅くんには、本を売るという気持ちの大切さを教えて貰ったからです。寅くんがうちの本を大量に注文して売りたいという《あの一件(その14/売れ残りは俺が買う)》がなかったら、書店人の売るのだという気持ちが、ダイレクトにお客さんに伝わるという事実に気付かないままだったからです。本を仕入れて、棚に置いたり平台に積んだり、そんなことだけで本は売れると思っていました。でも、この本を売りたい、という気持ちが強ければ、さらに本は売れるのだということを寅は僕に教えてくれたんです。
 実際あの発注は無謀でした。学生出版社の本を200冊も仕入れた書店はこれまで1軒もありませんでしたし、1軒で200冊も売った書店もありませんでしたから。それに彼は、もし残ったら、俺が買う、とまで言ったんですよ。ほんと、馬鹿ですよね。
 寅には、この本は犬猫堂のお客さんにピッタリだという自信があったんでしょうね。事実売れたわけですから、寅の目利きが当っていたということです。しかし僕は今でも、彼の気持ちが売上につながったんだ、と信じています。
ほんとうに寅くんありがとう。いつまでもその気持ちを忘れないでほしいと思います。」
そうい言い終わると藤川はゆっくりと座った。
「へー、寅が誉められるなんて、藤川さんちょっと言い過ぎかもね。」
丘は言いながらも寅に向かって拍手を送っていた。
「話はもうこれくらいでいいんじゃないかな。飲みましょうよ。僕が乾杯の音頭を取りますから。」
と猿山がビールの入ったグラスを手に立ち上がり、大きな声で、乾杯、と言った。
 その後の様子は想像がつくと思う。鶴田や鈴木が言っていた「派手な宴会」が始まったのである。極めつけは、店長恒例の宴会芸「腹芸」だった。そしてお決まりのカラオケで二次会が終了するまで大騒ぎが続いたのである。

大いに飲んだ犬田が猿山との帰り際に言った。
「猿山くん、僕は今幸せだよ。寅は、僕の店から巣立った第1号だよ。アルバイトだったけど彼はよくやった。無骨な奴だけど、細やかなセンスを持っている。でも僕が嬉しいのは、僕の店で働いて、書店の仕事の面白さを見つけてくれたことなんだよ。書店の仕事を一生の仕事として選んでくれたことなんだ。書店の仕事は確かにしんどいし、儲からないものかもしれない。でも本を売るという仕事は、どんな仕事より楽しいものだと思っているんだ。しんどさしか見えなくて辞めてしまったり、日々の仕事に流されるだけで退屈な毎日を送ってしまう人が多いのだけど、苦労することで楽しさが見つけられる仕事だと思うんだ。それを寅は、僕の店で見つけてくれた。それが何より嬉しくてたまらないんだよ。」
そう言うと犬田は目頭を押さえた。それを見た猿山は、大きく頷きながら言った。
「そのとおりですね。店長、自慢してもいいですよ。犬猫堂は、本という商品を売る楽しさを知っている連中ばかりの店だってね。それから犬猫堂には、全国の書店が失いかけている本を売るという夢をもっている書店だってね。
さあ、我々はここで退散しましょうか。」
犬田と猿山が歩きはじめると、カラオケボックスから飛び出して来た寅が、二人の後ろ姿に向かって大きな声で叫んだ。
「ありがとうございました。」
その声の大きさに道を歩いているすべての人が振り返った。

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