最終回

《現場の記憶》

 藤川は、取次店の仕入担当者と話をしていた。売れませんね、返品が多いですね、単価が下がりましたね、という言葉が何度も行き交っていた。

 その日藤川は、新刊の配本先を調整するための相談がある、と取次店の担当者から呼び出されていたのだ。適正な配本先の選択は、小部数を発行する専門書出版社にとって極めて重要なことである。何故なら限られた部数を効率よく販売するためには、無駄な配本は、返品を増すだけで売上の向上につながらないからである。
「藤川さん、学生出版社が現在配本しているこの10軒の書店なんですけど、新刊委託しなくてもいいんじゃないでしょうか。藤川さんのところのような専門書を販売するのは無理だし、きっと配本しても、すぐさま返品されてますよ。」
取次店の担当者は実にストレートに物を言う。彼が指摘するその10書店について、藤川だってその販売に大きな期待をしている書店ではなかった。ただ、この書店なら学生出版社の本を配本すれば、きっと展示して売ってくれるだろうという期待だけが配本する理由だった。配本しているすべての書店を実際に見た訳ではない。藤川は、できるだけ足を運ぶようにしているが、そのすべてをカバーすることは出来ないのが実情だ。
「おっしゃる通りかもしれませんね。でも、それらの書店で専門書の販売が厳しいと言うなら、いったいどこで売ればいいんでしょうか。もう絞り込むだけ絞り込んだ結果が現在の配本先なんです。」
と藤川が言うと、その担当者は、実にアッサリと言った。
「全国の書店を知ってる藤川さんだったら分かるでしょう。書店が専門書の販売についてどう考えているか。新規開店時に専門書を置いていたって、その棚がいつまでも継続されるってことは少ないんですよ。それから、かつては賑わっていた書店、つまり町の商店街にあるような書店の惨状はご存じのとおりですし。また、新刊がドンドン入荷して、売り方や販売の仕方を考える暇もなく仕事に追われているような現状で、言っちゃ悪いですが、学生出版社の本がどんな扱いになるかわかるでしょ。売れる店、売れない店、売ってくれる店、売ってくれない店は明らかなんです。」
その言葉が現実の書店の姿であることを藤川は知っていた。しかし、と藤川は言いたかった。
「しかし、そうだからといって、出版社側で売ってくれるだろう、と期待している書店に配本をストップすれば、その期待すらなくなるじゃないですか。」
そういうとその担当者はこう言った。
「そうです。僕達だって書店に期待してます。しかしその期待が即ち返品なんですよ。売れろと期待していろんな書店に配本する。こちらが期待した分が返品という現実に直面すれば、期待よりも現実的な数字に基づいた配本の方が効率がいいってことになるんですよ。藤川さんもこれは実感してるでしょ。期待してバラ撒くと返品が増えるだけ。結局売っている店は学生出版社の常備店だったってこと。」
 藤川は、複雑な気持ちだった。システムの中で本を売ることに慣れてしまった書店から、本を1点1点見つめる目が失われ、学生出版社の本が配本されてくることを、うっとうしいと思うようになっていることについてだ。
 全国に出来た巨大書店に行けば、日ごろ見たことのない本が陳列されている。その中から、この本は自分の店で売れそうだという発見の場にすれば、きっと面白いと思うのだが、そんなことをする書店人はすくないのだろうな、と藤川は思う。そんなことを考えていると、たまたま紹介した学生出版社の本を見て、目の色を変えた犬猫堂の寅(その14 ”売れ残りは俺が買う”)のことを思い出した。
「よくわかりました。この件については社に持ちかえって検討し、後日報告します。」
 藤川は、席を立った。取次店の担当者は、
「よろしく」
と力強く言った。

 藤川は取次店の社屋を出て、タバコに火を付けた。ゆっくりと煙りを吸い込み吐き出した。
「書店が書店としていきいきしていた時代の現場の記憶は、きっと風化していくんだろうな。僕だって現実の問題として書店への期待をある意味で断ち切ろうとしているのだから。」
藤川は、ぼんやりと都会の風景を眺めながら、ゆっくりと歩き出た。

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