楽しい体外離脱
 
★★プロローグ★★

あなたは「体外離脱」と聞いて、どんなことを想像するだろうか。いわゆる「幽体」とか「魂」とかいわれるモノが、カラダから抜け出す不可思議で超常的な現象だと考えている人も多いのではないだろうか。

たしかに私も自分で体験するまではそう考えていた。しかし現在の私は、自分自身で数百回もの体外離脱体験をした結果、それが「幽体」や「魂」がカラダから抜け出す不可思議な現象ではないと確信している。

では体外離脱現象の正体は何なのか?

答えは「幻覚」である。

あまりにもありきたりで普通の答えだが、もちろんタダの幻覚ではない。体外離脱体験者がよく「断じて夢や幻覚ではなかった」と言うが、すなわち断じて夢や幻覚ではなかったと錯覚するぐらい超リアルな「幻覚」のことだ。

一般的に「幻覚」という言葉には、夢のように不確かで曖昧な映像というイメージがあるので、体外離脱体験が現実の体験であったことを強調したいため、ついつい比較のために「幻覚」という言葉を使いがちである。

しかし本当にリアルな「幻覚」は、そう簡単にそれが幻覚だと自覚できるモノではない。私も何度も体外離脱体験をして、初めてそれが「幻覚」であると気付いたのだ。

そしてさらに何度も体外離脱を体験すると、その超リアルな「幻覚」である体外離脱現象が、じつは睡眠中にみる「夢」と同質のモノで、その差は睡眠の深さによる覚醒度の違いだけだと判ったのである。

では何度も体験しなければ自覚できないほどリアルな「幻覚」であり、しかも「夢」と同質のモノであるという体外離脱体験とはどんな体験なのか、次章から詳しく説明して行きたい。

 
★★金縛り時代★★

私の体外離脱体験を語るには、まず「金縛り」のことを語らなくてはならない。「金縛り」が私の体外離脱の基本であり、幻覚がいかにリアルであるかを語る上でも大変解りやすい事例であるからだ。

私は中学生になってからよく金縛りに遭うようになった。今でこそ金縛りは「カラダは眠っているが脳は起きている状態」という、科学的にも説明がつく現象なのだと理解しているが、当時は幽霊や悪霊が引き起こす心霊現象だと考えていたので、初めて金縛りに遭った時の私の恐怖は大変なものだった。

それでも何度も経験すると、そのうち慣れて恐怖も感じなくなり、金縛りの最中でも明日の予定を考えたり、電源を切り忘れたラジオの笑い話に耳を傾け、心の中で爆笑するという余裕さえでてきたのだった。

ただ恐怖は感じなくなっても、金縛り中はかなり息苦しく、決して気持ちのいい時間ではなかったので、当時の私は金縛りを解くためにいろんなことを試してみた。

カラダは動かなくても心臓や肺は自然に動いているわけだから、自発的に深呼吸をすることでカラダの感覚を取り戻そうとしたが、これはよけい息苦しくなっただけで失敗。

もっと頭を働かせて覚醒させれば金縛りも解けるだろうと、思いついた数字を適当に足したり引いたり掛けたりして暗算したこともあるが、これも効果なし。

高校生の時には、当時授業で覚えさせられた「枕草子」の序段「春はあけぼの」を心の中で暗唱してみたが、最後まで暗唱しても、やはり金縛りは解けなかった。

とにかくこのように金縛り中は、寝ぼけていたとかそんなレベルではなく、かなりハッキリ物事を考えることができるほど覚醒しているのだが、それでもカラダはまったく動かないのだった。

現在は金縛りに遭っても、これをチャンスとばかりに体外離脱してしまうので(「体外離脱の方法」で詳しく説明)息苦しさを感じることもなくなったが、当時はまだ体外離脱できなかったので、息苦しさの中、ひたすら金縛りが解けるのを待ち続けるしかなかったのである。

 
★★驚異の幻覚★★

さて、すっかり金縛りが日常の一部になったころのある晩、金縛りが解けるのを待っている間、他にすることもないので、寝室の壁に掛かったカレンダーの日付を見ながら、その週の予定などを考えていた。

ところが金縛りが解けた後、再び寝室の壁を見て私は驚いた。ついさっきまで見ていたカレンダーが無かったのだ。金縛り中はたしかに壁にかかっていたカレンダーが忽然と消えてしまったのである。

よくよく思い出してみると、たしかに以前はそこにカレンダーが掛かっていたのだが、2〜3日前に取り外して別の部屋に移していたのだった。

つまり、私が見たカレンダーは、カレンダーを取り外す以前の私の記憶を元にして現れた「幻覚」だったというわけである。

幻覚など薬物常習者が見るモノと思っていた私にとって、金縛り中にも幻覚を見ることができるとわかったのは、ちょっとした驚きであった。

ただ、その時点ではまだカレンダーだけが幻覚だと思っていたのだが、その後、じつはカレンダーだけでなく、金縛り中に見えるモノすべてが「幻覚」であるとわかった。

金縛り中に寝室の様子を眺めていた私が、金縛りから開放された時、本当は寝室を眺めることができない「うつ伏せ寝状態」だったということがあったのだ。

金縛り中、カラダは動かなくても眼だけは動くので、周囲の様子を眺めることもできるが、実際には眼は閉じていて、眼を動かしているつもりになって、幻覚の情景を眺めているにすぎなかったのである。

私はそれまでは幻覚という言葉に対し、夢のように不確かで曖昧な映像というイメージを持っていたのだが、私が見た「幻覚」は、カレンダーの数字が一文字一文字きちんと読み取れたし、寝室もタンスの形状から天井の木目まで、何ら現実と変わるところはなかった。

金縛り中に「幻覚」を見たことのない人には信じられないことかもしれないが、「カレンダー」の件や「うつ伏せ寝」の件のように、後で現実との相違点を発見することがなければ、それが「幻覚」であると自覚するのは極めて困難なことなのだ。

そしてもちろん「幻覚」はカレンダーや寝室の情景だけにとどまらない。時には人間の姿をした「幻覚」も現れた。

ある時、金縛り中に眼を開けると(実際は眼を閉じていて、開けたと錯覚しているにすぎない)、仰向けに寝ていた私のカラダの上に、私と向き合うような格好で、うつ伏せに寝ている浴衣姿の見たこともない老人の姿があった。

ハゲた頭に白い眉毛と白いあご髭、シワとシミだらけの顔の老人は、ほとんど歯の抜けた口に薄ら笑いを浮かべながら、気味の悪い眼で私を見つめていた。

すでに「金縛り中に見えるモノはすべて幻覚である」ことを学んでいた私であったが、不精ヒゲの1本1本までよく見えるこの不気味な老人に対しては、それが「幻覚」であるとは自覚できず、私は「幽霊が現れた」と思った。

「幽霊」に対し恐怖はあったが、それよりも、たとえ「幽霊」といえども私の安眠のジャマをしたこと対する怒りの方が強かったので、私は怒りをこめた右拳で老人の顔面をブン殴ってやった。すると老人の姿も消えた。

正確に言えば、金縛りで動かなかったカラダをムリヤリ動かして殴ったと思った瞬間、右手は布団を高く跳ね上げ、夢から覚めた時のように金縛りも解け、老人も消えていたのであるが、こうして私は、「金縛り中に見える人物像もまた幻覚」であることを学んだのだった。

 
★★幻視と幻聴★★

今までは「幻覚」という言葉を、主に視覚の幻覚、つまり「幻視」のことに対して使ってきたが、「幻覚」はなにも「幻視」だけではない。金縛り体験には、しばしば聴覚の幻覚である「幻聴」が伴う。

幻聴の音の種類は様々で、よく聞くのは扉の開閉音や、廊下を歩く音、階段の昇降音など日常でもよく耳にする音だが、「ドンドン」という大きな音や耳鳴りのような「キーン」という音もあれば、落ち葉が風でこすれ合うような「カサカサ」とか、木がきしむ時のような「ギシギシ」とかいう音もあるし、「ウギウギュギュ〜」とか何の音なのか形容もできない音も多々ある。

また美しい音色の音楽であることもあり、音楽の幻聴は何度経験しても素晴らしい時間である。知らない曲のこともあれば、よく知っている曲のこともあるが、共通して言えるのは、どちらも全くノイズのないクリアで澄んだ美しい音色であることだ。幻聴は不快な音であることも多いが、音楽の幻聴に限っては不快な思いをしたことは全くない。

かつて金縛り中に聴いたトランペットのソロが奏でる「特捜隊の歌」は、まるでこの世のモノとは思えない美しい音色であった。トランペットのソロ版の「特捜隊の歌」なんて実際には聴いたこともないのに、幻聴とはなんとも不思議な現象である。

そして、なんと言っても極めつけの幻聴は人の声である。

友人や肉親の声もあれば知らない人の声もあるし、何語か解らない聞き取り不能の言葉(らしきモノ)を誰かがしゃべっていることもあれば、そんな言葉を大勢がしゃべっていることもある。

また人の声の「幻聴」は、人の姿の「幻視」とセットになって現われることが多い。たとえばこんなことがあった。

ある日の金縛り中、私は息苦しさの中、ひたすら金縛りが解けるのを待ち続けていた。するとそこに友人のB氏が「よっ!久しぶり〜」と現われ、私が「いま金縛りで動けへんのや、助けてくれ」と言うと、B氏は「しゃあないなあ〜、助けたろ〜」と言って私の腕を掴んだのだった。

B氏が私の腕を掴んだと思った瞬間金縛りは解け、同時にB氏も消えてしまったのだが、就寝中の深夜に友人B氏が我が家を訪れるハズもなく、もちろんそれは「幻視」と「幻聴」がセットになった「幻覚」であった。

すでに「金縛り中に見えるモノはすべて幻覚である」ということを学んでいた私であったが、時として「幻聴」を伴うリアルな「幻覚」に対しては、「現実」と錯覚してしまうこともよくあった。

しかしながらこのようなことを繰り返し、「幻視」の時と同じく、金縛り中に聞こえる音はすべて「幻聴」である、ということも学んでいったのだった。

だからある時など、金縛り中に「私は金星人だ!」と名乗る人物が現われ、「キミと友達になりたい」とか「宇宙に連れていってあげる」とか話しかけてきたこともあるが、もちろん私は「幻覚」だと自覚していたので動揺することもなく、ただ金星人の「幻覚」を楽しんでいた。

おもしろいのはその声が、もしテレパシーというモノがあるとすればこんな風に聞こえるのだろうと思うような、頭の中に直接響くよく通る声であったことだ。これは幻聴全般に言えることだが、幻聴は耳で聞いているという感じではなく、頭の中に直接聞こえているという感じなのである。

もし金縛りも幻覚も初体験というような人が私と同様の体験をすれば、「宇宙人」と接触したとか、「チャネリング」したとか考えてしまってもおかしくはない。

前章で述べた狂った老人もそうだが、金縛り中に「幽霊」や「宇宙人」を見たという類の話は、ほとんどがこのような「人物像の幻覚」で説明がつくのではないだろうか。

 
★★幽体離脱?★★

さて、高校生になると金縛り中にある変化が顕れた。まったく動かなかったカラダが少しづつ動くようになってきたのだ。

始めは手の指先だけだったが、次第に腕全体、そしてカラダ全体へと可動範囲が広がっていった。

しかし不思議なことに、どんなにカラダを動かしても、金縛りが解けた後は最初に寝ていた時の姿勢に戻っていた。どうやら動かしているのは現実のカラダではないようだった。

「幽体離脱」、私はそう思った。

肉体とはまた別の、俗に言う霊魂に相当する「幽体」というものが、カラダから抜け出す現象なのだと考えたのだ。ただし、そのまま簡単にすぐ「幽体離脱」とまでは行かなかった。

「幽体」は、動くといっても、かろうじて動くという程度で、チカラが全然入らないうえに、少しでも気を抜くと、すぐに現実のカラダの姿勢に戻されてしまうのだった。

しかし何十回となく金縛りを経験し、何十回となく「幽体離脱」にチャレンジした結果、ついに全身を動かし、完全に「幽体」を現実のカラダから離脱させることに成功した。

その体験は、まさに私が見聞きした通りの「幽体離脱」体験そのものであり、カラダはふわふわと宙に浮き、空中をすべるように移動し、扉や壁をカラダごと突き抜けることもできた。

このとき私は、「幽体」すなわち「霊魂」の存在を確信し、もう死を恐れることもないのだとさえ思った。

ところがその考えは、その後何度も「幽体離脱」を経験するうちに、完全な間違いであることがわかった。

 
★★幻体(げんたい)★★

何度も「幽体離脱」をしてわかったことは、離脱中に見えるモノ聞こえるモノは、実際の様子とは違うということだった。

たとえば離脱中に見た自室の本棚は、現実の本棚と本の配置が変わっていたり、実際には所有していない本まであった。

離脱中、居間に行くと母親が座ってテレビ見ていたが、後で確かめると実際は父親がテレビを見ていた。

離脱中、居間のテーブルの上に、大きな釜に入った炊き込み御飯がおいしそうに湯気をあげていたが、そんな大きな釜は我が家にはなかったし、もちろん実際には誰も炊き込み御飯など作らなかった。

離脱中、自宅を離れ友人の家に行き、友人と会話を交わしたことも何度かあったが、後で友人に確認を取っても、出会った事を肯定されたことは一度たりともなかった。

このように、離脱中の体験は、宙に浮いたカラダの感覚や手足を動かす感覚、モノに触った感覚がある以外は、金縛り中の「幻覚」体験とほとんど変わらなかった。

つまり、「幽体離脱」体験は、金縛り中に体験した視覚の幻覚である「幻視」と、聴覚の幻覚である「幻聴」に加え、運動感覚や触覚の幻覚である「幻触」(たぶん私の造語)までもが現れた「幻覚」体験だったのだ。

触覚の幻覚を何と呼べばいいのか辞書を調べても載っていなかったので、とりあえず今後も触覚の幻覚のことは「幻触」と呼ばせてもらうが、とにかくこの「幻触」こそが、「幽体離脱」体験者に「断じて夢や幻覚などではなかった」と言わせるほど「幻覚」にリアリティーをもたらしていたのだ。

その後も離脱経験が増えるにつれ、何度か味覚の幻覚である「幻味」も体験したし、たった一度ではあるが嗅覚の幻覚である「幻嗅」も体験した。すなわち「幽体離脱」体験とは、「五感」すべての感覚を伴う「幻覚」体験なのである。

現在ではこのような体験を、「幽体」説を主張する人も、私のように「幻覚」説を主張する人も、一般的に「体外離脱」体験と呼んでいるようなので、私も以後はこの「体外離脱」という言葉を使わせてもらうことにする。

そして体外離脱中の現実のカラダでないカラダのことを、「幻覚」の肉体という意味で「幻体(げんたい)」と命名させていただく。

 
★★脳の錯覚★★

前章では、金縛り中に現れたリアルな「五感」を伴った幻覚が「体外離脱」であり、離脱中のカラダを「幻体」と命名したと書いた。そこで、この章では、なぜ金縛り中に「体外離脱」という特殊な「幻覚」が現れるのかを自分なりに考えてみた。

「金縛り」は、入眠時REM睡眠などが原因の、科学的にも証明されている睡眠中によくある現象である。簡単に言えば「カラダは眠っているが、脳は起きている状態」だ。

つまり、金縛り中にカラダが動かないということは、「脳」は起きているので「カラダを動かしたい」と思うことはできるが、カラダが眠っているため、「カラダを動かしたい」という「脳」の命令が、カラダに伝わっていない状態だといえる。

したがって、もし金縛り中に眼を開けて周りの様子を見ようと思っても、「眼を開けろ」という「脳」の命令がカラダに伝わらないため、眼を開けることはできないのである。

しかし、「金縛り」という睡眠中の特殊な状況下では、「脳」はカラダが眠っていることを認識できないらしく、「眼を開けろ」という命令は実行され、すでに眼は開かれていると錯覚してしまう。

眼を開けているという感覚は「脳」の錯覚なので、もちろん眼からは視覚情報が入ってこない。しかし眼を開けているのに視覚情報が入ってこないということは、「脳」にとっては不測の事態である。

そこで「脳」は、眼を開けていれば入ってくるはずの視覚情報を、「脳」が持っている記憶情報で代用したのだと考えられる。特に、毎日毎日見ている寝室の視覚情報を記憶の中から引き出し、リアルな「幻視」として再現するのは「脳」にとってはそう難しいことではないだろう。

そして視覚の記憶情報から作られた「幻視」同様、金縛りで動かないカラダの代わりに、運動感覚や触覚の記憶情報から作られた感覚が「幻触」であり、「幻触」を持った幻覚のカラダが「幻体」なのである。

「幻体」が持つ独特の浮遊感については、本来は骨と筋肉でしっかり受けとめなければ得られない地球の重力感を、「幻体」では再現できないのだと私は推測している。
 

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