Visual Culture私の研究に関わるさまざ まな資料などを紹介する頁です。4,
ピクトリアリズム関連年表
2,トポグラフィアとしての名所絵 ──江戸泥絵と都市の視覚文化 4,観光・写真・ピクチャレスク――横浜写真における自然景観表象をめぐって 研究会等での発表・書評(think-photo.net) 3, 『旧江戸城寫眞帖』(東京国立博物館所蔵、一八七一年)について 7,
文献紹介:スターケン&カートライト「視の実践 ――視覚文化入門」
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泥絵とは、胡粉を混ぜた安価な絵具、つまり泥絵具を画材として使用するものの一般的な呼称です。その
中で、江戸末期に流行した肉筆洋風画で、線遠近法を用
いて名所を描いたものを、江戸泥絵と呼び慣わしています。 泥絵主要参考文献
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〈横浜写真〉とは、一八六〇年代から一九世紀終わりまで、横浜で販売され、主として欧米への土産物
とされた風景・風俗写真を指す用語です。多くは写真を台紙に貼り付け、綴じた写真帖、すなわちアルバムの形態を採ります。平均的なものは、蒔絵の表紙付
き、写真の点数としては五十点くらいで、その内五分の四程度が風景写真(View)、五分の一程度が風俗写真(Custom)で構成されます。サイズは四
つ切が多く見られます。一八八〇年代までは、湿式コロディオン・プロセス、いわゆるガラス湿板写真の技法で制作されていました。その後、より簡便なガラス
乾板が普及しはじめてからは、その技法が多く使われたようです。
(*アクセント類は省略)
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『武江年表』は、江戸に関連した様々の事々を編年体で述した年表で、徳川家康の江戸入府の年、一五
九〇(天正十八)年から一八四八(嘉永元)年までを正編八巻(一八四九年発行)とし、一八四九(嘉永二)年からその死の年一八七三(明治六)年までを続編
四巻(一八七三年脱稿、公刊されず)としたものである。著者の斎藤月岑(一八〇四〜七八)は、江戸末期の著述家で名は幸成といった。家は代々江戸神田雉子
町の草創名主であり、彼はその九代目にあたる。和漢の学を修め、博覧強記で、『武江年表』『東都歳事記』『声曲類纂』『増補浮世絵類考』など著述が多い。
『江戸名所図会』は祖父幸雄が撰し、父幸孝が補修、月岑が校刊した。
斎藤月岑『増訂武江年表2(東洋文庫118)』(金子光晴校訂、平凡
社、一九六八年)より引用。
訳、註は佐藤による。 安政元年甲寅七月閏 再び云ふ、内田九一、名は重、長崎万屋町の産なり。幼穉の頃双親を喪ひ、伯父吉雄圭斎と云ふ医師の許
に養はれて人となり、彼の地なる上野某(5)に随ひて写真の術を学び、後武州横浜に来りて熟煉し、東京に弘めたり。先輩あれ共、其の可否をいはずして、九
一をもて本邦創業の人と思ふが多し。後駿河台紅梅町に壮麗なる第舎を営みてこゝに住みしけるが、乙亥の季冬病痾に罹り、惜しむべし享年三十歳六ヶ月にして
丙子二月七日卒せり。其の門人跡を継いでこの技を行へり。又呉服町なる清水東谷も此の技に長じ、其の外横山松三郎、浅草なる北庭筑波、江崎礼二(6)其の
他有名の輩枚挙に遑あらず。写真鏡の方法は、柳川某が編の「写真図録」二巻(7)に委しく載せられたり。 明治元(一八六八)年己巳 【註】
ちなみに、内田九一は、名を重といい、長崎万屋町の生まれである。幼い頃に両親を亡くして、伯父の吉 雄圭斎という人に育てられ成人した。長崎の上野彦馬に就いて写真を学び、その後横浜に来てから修行して、さらに東京に来て写真を広めた。さまざまな先人が いたにもかかわらず、彼らの良い悪いはいわず、ただ九一を、日本で写真をはじめた人であると思っている人々も多い。後、駿河台紅梅町に壮麗な写真館を営ん だ。そこで暮らしていたが、一八七五年陰暦十二月に病を得て、惜しいことに翌年の一八七六年二月七日に没した。死後、門人たちがその技術を受け継いた。そ の他、呉服町の清水東谷、横山松三郎や浅草の北庭筑波、江崎礼二など、写真に長じた人々は、枚挙に暇がない。写真術に関しては、柳川春三の『写真鏡図説』 全二巻に詳しい。 一八六八年己巳 |
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