Visual Culture

私の研究に関わるさまざ まな資料などを紹介する頁です。

1,江戸泥絵主要参考文献

2,横浜写真主要参考文献

3,斎藤月岑著『増訂武江年表』に見る写真 の黎明期

4, ピクトリアリズム関連年表


研究論文

1,江戸泥絵 ――近世日本に於ける空間への視線

2,トポグラフィアとしての名所絵 ──江戸泥絵と都市の視覚文化

3,都市とその表象 ──視覚文化としての江戸泥絵

4,観光・写真・ピクチャレスク――横浜写真における自然景観表象をめぐって


研究会等での発表・書評think-photo.net

1, 眞ヲ寫ス ――フォトグラフィと写真のあいだに

2, ピクトリアリズム考 ──カリフォルニアと日本

3, 『旧江戸城寫眞帖』(東京国立博物館所蔵、一八七一年)について

4, 書評:木下直之『写真画論:写真と絵画の結婚』

5, 書評:多木浩二『天皇の肖像』

6, 文献紹介:ミッチェル『風景と権力』

7, 文献紹介:スターケン&カートライト「視の実践 ――視覚文化入門」



江戸泥絵とは?

泥絵とは、胡粉を混ぜた安価な絵具、つまり泥絵具を画材として使用するものの一般的な呼称です。その 中で、江戸末期に流行した肉筆洋風画で、線遠近法を用 いて名所を描いたものを、江戸泥絵と呼び慣わしています。
特に浮世絵などほかの視覚メディアには、ほとんど描かれなかった大名屋敷、すなわち諸藩の江戸藩邸をしばし ば画面の主役とするのが特徴です。プルシアン・ブルーを使用した広い空が画面の半分以上を占め、線遠近法で江戸の町が描かれます。現存作例には、似通った 図様が繰り返し用いられていることも特徴です。覗き眼鏡で観る眼鏡絵の後裔であると云われますが、左右逆描きのものが少ないこと、覗き眼鏡という視覚装置 自体がそれほど普及していたとは思えないこと、そして多くのものが眼鏡で観るには大きすぎるサイズであることなどを考え併せると、江戸泥絵には眼鏡絵の要 素はほとんどなかったのではないかと考えます。
 制作時期に関しては、確たる証拠がないので、推定するしかありません。プルシアン・ブルーが容易に入手で きるようになった一八二〇年代を上限と推定する佐々木静一の意見がもっとも妥当であろうと思われます。その終焉に関しては、一九世紀終わり頃まで細々と続 いていたとの証言もありますが、管見の限りでは、開化の東京を描いた作例は見あたりません。ゆえに明治にはいると急速に衰えたのではないかと思われます。 最大級のコレクションは、横浜の故渡辺紳一郎氏(一九〇七〜七八)のそれであり、三百点程所蔵されてます。



泥絵主要参考文献

  • 漆山天童『異本日本繪類考』巻二、藝苑叢書、一九二〇年
  • 大熊喜邦「泥絵と大名屋敷」1〜3『東洋建築』1-1〜3、一九三七年
  • 恩賜京都博物館編『明治以前洋画類集』平安精華社、一九二五年
  • 小野忠重『泥絵とガラス絵:日本の民画』アソカ書房、一九五四年
  • 同『ガラス絵と泥絵:幕末・明治の庶民画考 』河出書房新社、一九九〇年
  • 川上澄生「泥絵・硝子絵・絵馬」『月刊民芸』1−6、一九三七年
  • 『工藝』三七号(吉田小五郎「泥絵の話」、水谷良一「泥絵雑記帖」所収)日本民藝協会、一 九三七年
  • 斎藤徳三郎「泥繪風景畫回想」『アトリエ』四巻八・十一号、一九二七年
  • 佐々木静一『日本近代美術論I』瑠璃書房、一九八八年
  • 佐藤中陵「中陵漫録」『日本随筆大成』3−3、吉川弘文館、一九七六年
  • 『三彩』三三一号(鈴木仁一「民画の美」、小野忠重「泥絵考」、福永重樹「博物館にことよ せて泥絵を語れば」所収)、一九七五年
  • ヘンリー・スミス『ビジュアルブック江戸東京2 浮世絵にみる江戸名所』、岩波書店、一九 九三年
  • 「妹尾コレクション どろ絵ガラス絵展」図録、浮世絵 太田記念美術館、一九八四年
  • 多摩美術大学研究室編『ヨーロッパ油彩画の日本土着過程の研究──泥絵・硝子絵研究 I──』、多摩美術大学、一九七六年
  • 外山卯三郎『徳川時代の洋風美術:日本洋風風景画の成立』全三巻、芸術書房、一九七六年
  • 日本美術館企画協議会編、『渡辺紳一郎氏コレクション〜江戸の泥絵展』(日本美術館企画協 議会、一九七七)。
  • 『日本美術工藝』195 一九五四年十二月号(渡辺紳一郎「泥繪について」、出井朱有「川 原慶賀と泥繪のこと」所収)
  • 藤岡作太郎『近世絵画史』ぺりかん社、一九八三年
  • 三隅貞吉「ビイドロ繪と泥繪の話」『美之国』三−七、一九二七年
  • 柳宗悦、「繪畫論」、『柳宗悦全集 第十三巻』、筑摩書房、一九八二年、三八二頁。初出 『工藝』第三十七号、一九三四年


横浜写真とは?

 〈横浜写真〉とは、一八六〇年代から一九世紀終わりまで、横浜で販売され、主として欧米への土産物 とされた風景・風俗写真を指す用語です。多くは写真を台紙に貼り付け、綴じた写真帖、すなわちアルバムの形態を採ります。平均的なものは、蒔絵の表紙付 き、写真の点数としては五十点くらいで、その内五分の四程度が風景写真(View)、五分の一程度が風俗写真(Custom)で構成されます。サイズは四 つ切が多く見られます。一八八〇年代までは、湿式コロディオン・プロセス、いわゆるガラス湿板写真の技法で制作されていました。その後、より簡便なガラス 乾板が普及しはじめてからは、その技法が多く使われたようです。



横浜写真主要参考文献

  • 『アサヒグラフ臨時増刊 寫眞百年祭記念號』東京朝日新聞社、一九二五年
  • 飯沢耕太郎「旅の眼・旅のテクスト――「横浜写真」をめぐって」、『写真の力[増補新 版]』白水社、一九九五年
  • 石黒敬七『写された幕末 : 石黒敬七コレクション』明石書店、一九九〇年
  • 石黒敬章編『限定版 下岡蓮杖写真集』新潮社、一九九九年
  • 小沢健志、酒井修一監修『写真舘のあゆみ:日本営業写真史』日本写真文化協会、一九八九年
  • 小沢健志監修『写真で見る幕末・明治』世界文化社、一九九〇年
  • 小沢健志『日本の写真史――幕末の伝播から明治期まで――』ニッコール・クラブ、一九八六 年(小沢健志『幕末・明治の写真』ちくま学芸文庫、一九九七年として復刻)
  • 小沢健志編『幕末 写真の時代』筑摩書房、一九九七年
  • 金井圓編訳『描かれた幕末明治――イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信 1853-1902』雄松堂書店、一九七三年
  • 木下直之「描かれた〈明治の日本〉」、吉田喜重、山口昌男、木下直之編『映画伝来』岩波書 店、一九九五年
  • 木下直之『写真画論 岩波 近代日本の美術4』岩波書店、一九九六年
  • 後藤和雄、松本逸也編『写真集 甦る幕末――ライデン大学写真コレクションより』朝日新聞社、一九八七年
  • 多木浩二、大島洋編『世界の写真家101』新書館、一九九七年
  • 田中雅夫『写真一三〇年史』ダヴィッド社、一九七〇年
  • 東京都写真美術館編『寫眞渡來のころ』展覧会図録、一九九七年
  • 東京都写真美術館編『幕末・明治の東京』展覧会図録、一九九一年
  • 長野重一、飯沢耕太郎、木下直之編『上野彦馬と幕末の写真家たち』岩波書店、一九九七年
  • 長野重一、飯沢耕太郎、木下直之編『田本研造と明治の写真家たち』岩波書店、一九九九年
  • 長野重一、飯沢耕太郎、木下直之編『日本写真史概説』岩波書店、一九九九年
  • 蜷川親正編『[新訂]観古図説 城郭之部』中央公論美術出版、一九九〇年
  • 姫路市立美術館編『日本の写真1850s〜1945』展覧会図録、一九九九年
  • 『明治洋画史料:懐想篇』中央公論美術出版、一九八五年
  • 『モース・コレクション/写真編:百年前の日本』小学館、一九八三年
  • 横浜開港資料館編『彩色アルバム 明治の日本:《横浜写真》の世界』有隣堂、一九九〇年
  • 横浜開港資料館編『図説 横浜外国人居留地』有隣堂、一九九八年
  • 横浜開港資料館編『幕末日本風景と人びと――フェリックス・ベアト写真集』明石書店、一九 八七年
  • 横浜開港資料館編『100年前の横浜・神奈川――絵葉書でみる風景』有隣堂、一九九九年
  • 横浜美術館編『幕末・明治の横浜展――新しい視覚と表現』展覧会図録、二〇〇〇年
  • Hugh Cortazzi and Terry Bennet. Japan: Caught in Time. New York and Tokyo; Weatherhill, 1995
  • Felice Beato et l'Ecole de Yokohama [Photo Poche 57]. Paris; le Centre National de la Photographie, 1994.
  • Michel Frizot, ed. A New History of Photography. Koln; Konemann, 1998.
  • Naomi Rosenblum. A World History of Photography (Third Edition). New York, London and Paris; Abbeville Publishers, 1997.
(*アクセント類は省略)


『増訂武江年表』に見る写真の黎明期

 『武江年表』は、江戸に関連した様々の事々を編年体で述した年表で、徳川家康の江戸入府の年、一五 九〇(天正十八)年から一八四八(嘉永元)年までを正編八巻(一八四九年発行)とし、一八四九(嘉永二)年からその死の年一八七三(明治六)年までを続編 四巻(一八七三年脱稿、公刊されず)としたものである。著者の斎藤月岑(一八〇四〜七八)は、江戸末期の著述家で名は幸成といった。家は代々江戸神田雉子 町の草創名主であり、彼はその九代目にあたる。和漢の学を修め、博覧強記で、『武江年表』『東都歳事記』『声曲類纂』『増補浮世絵類考』など著述が多い。 『江戸名所図会』は祖父幸雄が撰し、父幸孝が補修、月岑が校刊した。
 以下に『武江年表』に見られる写真関係の記事を挙げる。

 

斎藤月岑『増訂武江年表2(東洋文庫118)』(金子光晴校訂、平凡 社、一九六八年)より引用。
訳、註は佐藤による。


安政元年甲寅七月閏   
○西洋写真鏡の技術は天保の頃(一八三〇〜四四)西班牙の某舎密の術に長じけるが、海浜の蜃気楼に拠りて思 ふ所あり、深く其の理を攻窮して工夫を凝らし、終に此の術なりしとか(1)。然れども本邦には更に知るものなかりしが、今茲甲寅の春、亜墨利加の聘舶本邦 へ航通せし時、茲州の官吏応接の序、彼の国人より官吏の容貌を模して贈り越しけるを見て(2)、各感嘆し、其の方術を乞ふて伝習せられしより、自ら衆庶に 及ぼし、武州久良郡横浜港に於いて場をひらき、其の技を施しける輩あり(3)。始は男女の容姿を専として、山川台〓(木偏に射)万象に至らず。写せる所も 鮮明ならず。適依稀たる疎影を得て珍重する人もありしが、次第に串熟せるもの出来、玉川三次、信夫何某、大鐘隆慶(4)なんどいへるもの、江戸に於いて弘 めんとしける頃、肥州長崎より内田九一といふもの、夙齢の頃よりこの地に覊寓しれこれを学び、奮励して其の術を得てより、東武浅草旅籠町に住し、専ら此の 技を弘め、門葉日を重ねて蔓延し、声誉一時に噪し。写す所の山川の秀美、神祠梵刹の輪奐、貴賤屋宇の鱗差、蝸舎蓬戸に至り、又高貴の尊影を始めとし、士庶 人の風姿より柳巷の嬌態、梨園の〓(青偏に見)粧、その他雑技の党に逮ぶ迄、〓(声とルマタの下に缶)模し出さずといふ事なし。其の余草木禽獣の類にいた るまで、真に迫るが故、男女老穉争ふて覓る事になれり。しかれども市中に場を構へ求むる人あれば、即時にその像を写すの家、又万象の模本を排列して、售ふ の肆盛になりしは、明治六年来の事なり。

再び云ふ、内田九一、名は重、長崎万屋町の産なり。幼穉の頃双親を喪ひ、伯父吉雄圭斎と云ふ医師の許 に養はれて人となり、彼の地なる上野某(5)に随ひて写真の術を学び、後武州横浜に来りて熟煉し、東京に弘めたり。先輩あれ共、其の可否をいはずして、九 一をもて本邦創業の人と思ふが多し。後駿河台紅梅町に壮麗なる第舎を営みてこゝに住みしけるが、乙亥の季冬病痾に罹り、惜しむべし享年三十歳六ヶ月にして 丙子二月七日卒せり。其の門人跡を継いでこの技を行へり。又呉服町なる清水東谷も此の技に長じ、其の外横山松三郎、浅草なる北庭筑波、江崎礼二(6)其の 他有名の輩枚挙に遑あらず。写真鏡の方法は、柳川某が編の「写真図録」二巻(7)に委しく載せられたり。
(「巻之九」より)

明治元(一八六八)年己巳
○写真鏡の技は次第に弘まり、所々へ場を構へ客を招ぎ、其の像をうつし、好みによりて紙に写し玻璃漏(8) に写せり。又、山水、台〓、俳優、娼妓の容貌をうつせる物を市店にならべて售ふ事は、明治六、七年の頃より始まり、今はこれのみ商うの家年々に倍せり。 (「巻之十二」より)

【註】
1,間違って伝えられたものであろう。写真の始祖として 挙げられる面々――ニエプス、ダゲール、バヤール、トールボット――のどれもスペイン人はいない。ただこのエピソードは非常に興味深い。
2,ペリー艦隊に同行していた写真家エリファレット・ フォン・ブラウン・Jrが、田中光儀か遠藤又左衛門を写したダゲレオタイプのこと。
3,下岡蓮杖のことか。あるいはフェリックス・ベアトら 外国人写真師のことかも知れない。
4,玉川三次は別名鵜飼玉川ともいい、一八六一年頃、両 国薬研堀に写真館を構えた。信夫某は信夫左津馬。小石川で開業していたこと以外は不明。大鐘隆慶も不明だが、大鐘源太郎と同一人物か?
5,上野彦馬のこと。
6,横山は『旧江戸城写真帖』をはじめさまざまな古物 (今でいう「文化財」)を撮り、また写真油絵、サイアノタイプ、ゴム印画などのさまざまな技術を開発したことで有名。清水はシーボルトに写真を学び、その 器材を譲り受けて開業した。内国博覧会に出品し、写真部門で賞を獲る。北庭は、下岡蓮杖などに師事し東京で開業。内田九一の旧宅を買い入れる。江崎も蓮杖 に学び、一八八三年に乾板による隅田川水雷の写真を撮り、「早撮り写真師」として高名を博す。
7,柳川春三の『写真鏡図説』全二巻(一八六七年)のこ と。柳川は蘭学者、医師。
8,アンブロタイプのことか。


【現代語訳】
一八五四年甲寅七月閏
西洋の写真鏡の技術は、そもそも天保の頃、化学に長けたあるスペイン人が、海の蜃気楼からヒントを得て、そ の原理を探り、工夫を凝らして、遂にこの技術を作り上げたことにはじまるという。当時の日本においては、それを知る者はいなかったが、一八五四(安政元) 年にアメリカの艦隊が日本に来航したとき、応対した日本側の官吏が、その肖像写真をアメリカ人から贈られた。それを見た人々は大いに感嘆し、その魔術を教 えて貰った。それ以来、写真の技術は一般庶民にまで広がり、当時開港したばかりの横浜で写真館を開き、写真を撮る者が現れた。はじめは男女の肖像が中心で あり、風景、建築などさまざまなものを写すことは不可能であったし、その映像も鮮明なものではなかったが、たまたまよく撮れた肖像写真――粗いものでは あったが――を手に入れ、珍重する人もいた。その内、質の良いものも出来るようになり、玉川三次、信夫何某、大鐘隆慶などという人々が江戸の街でその技術 を広めはじめた。その頃、長崎から内田九一というものが浅草旅籠町にやって来た。彼は若い頃から長崎で写真を学び、努力してその技術を会得して江戸に来た のである。江戸で彼は写真を流行させ、その写真館は繁盛し、当時の名声は高いものであった。風景の美しさ、神社仏閣の偉容、豪奢なところから小さな家々に まで至る街並、また高貴な人々の肖像、庶民の風俗、遊郭の艶っぽい生活、役者の美しい化粧姿から、町芸人に至るまで、すべて写し出さないものはなかった。 それ以外にも、草木や動物も撮影し、その全てが余りにも真に迫っていたため、老若男女が争ってそれを買い求めることとなった。とはいえ、町中に、客が来る と即時にその肖像を写す写真館が出来、あるいはさまざまなものを撮った写真を並べて商う写真屋が出来るのは明治六年以来のことであった。

ちなみに、内田九一は、名を重といい、長崎万屋町の生まれである。幼い頃に両親を亡くして、伯父の吉 雄圭斎という人に育てられ成人した。長崎の上野彦馬に就いて写真を学び、その後横浜に来てから修行して、さらに東京に来て写真を広めた。さまざまな先人が いたにもかかわらず、彼らの良い悪いはいわず、ただ九一を、日本で写真をはじめた人であると思っている人々も多い。後、駿河台紅梅町に壮麗な写真館を営ん だ。そこで暮らしていたが、一八七五年陰暦十二月に病を得て、惜しいことに翌年の一八七六年二月七日に没した。死後、門人たちがその技術を受け継いた。そ の他、呉服町の清水東谷、横山松三郎や浅草の北庭筑波、江崎礼二など、写真に長じた人々は、枚挙に暇がない。写真術に関しては、柳川春三の『写真鏡図説』 全二巻に詳しい。

一八六八年己巳
写真術は次第に広まり、さまざまな場所で写真館を開き、客を招き入れその肖像を写し、好みでそれを紙に焼い たり、ガラスに焼いたりした。また、風景、建築、役者、遊女などを写した写真を店頭に並べて売ることは、明治六年から七年くらいにはじまり、現在に至るま で、ますます増え続けている。

4,ピクトリアリズム関連年表



ヨーロッパ・ニューヨーク 北カリフォルニア 南カリフォルニア 日本
1869 ヘンリー・ピーチ・ロビンソン著『写真における絵画的効果』


1884 イギリスで『アマチュア・フォトグラファー』誌創刊


1888 イーストマン社、簡易カメラ「ザ・コダック」を100枚撮り25ドルで発売


1889 ピーター・ヘンリー・エマーソン著『自然主義写真術』。ウィーン・カメラ・クラブ結成

日本写真会(榎本武揚会長)創立。
1892 イギリスでリンクト・リング結成。アルフレッド・スティーグリッツ、アメリカ帰国。 『アメリカン・アマチュア・フォトグラファー』誌編集長に就任。これに影響されてアメリカ各地にカメラ・クラブが続々誕生。


1892
カリフォルニア・カメラ・クラブ創立。プロもメンバーに入る(90年代にはアメリカ最 大のクラブに)。『カメラ・クラフト』誌の前身、『パシフィック・コースト・フォトグラファー』誌創刊。

1893


大日本写真品評会(鹿島清兵衛ら)創立。
1894 パリ・カメラ・クラブ結成

『写真月報』誌(小西本店)創刊。
1895 スティーグリッツ『カメラ・ノーツ』誌創刊


1899

ロサンゼルス・カメラ・クラブ創立。
1900
オスカー・モーラーの主導により、初めてのサンフランシスコ・サロンが開催(悪評)。 プロのアーノルド・ゲンテとローラ・アダムス・アーマー(同年「写真の絵画的可能性」執筆)が受賞。

1901
第二回サロンでアン・ブリッグマンがデビュー。
東京写友会(尾崎紅葉)、横浜写真会(玉村騎兵)創立。
1902 フォト・セセッション結成

東洋写真会(宮内幸太郎)創立。
1903 スティーグリッツ『カメラ・ワーク』誌編集長就任。 フォト・セセッション運動はカリフォルニアにも波及していく。

1904 ニューヨークで第一回アメリカン・サロン開催。

浪華写真倶楽部(桑田正三郎)創立。『写真月報』誌上で「芸術写真論争」。ゆふつゞ社 創立し、「芸術写真の研鑽」を目的に掲げる。
1905
サンフランシスコ大地震。多くの写真家が他都市に移住するなど状況が変化する。

1907

ルイ・フレッケンスタイン、南カリフォルニアに移住。 東京写真研究会創立。
1908


浪華写真倶楽部展開催。
1910


東京写真研究会第一回展覧会(研展)開催。
1912 コダック社、「べス単」発売。


1914

フレッド・アーチャー、エドワード・ウェストン、マーガレット・マザー等、カメラ・ピ クトリアリスツ・オブ・ロサンゼルス結成。
1915
パナマ=太平洋国際展覧会。ヨーロッパのモダニズム写真が紹介される。 ロサンゼルス・カメラ・クラブ解散。南カリフォルニア・カメラ・クラブ創立。アーマー 等のレクチャーが行われる。
1917
第五回にして最後のSFサロンが開催される。この後SFピクトリアリズムは分派化。シ アトリカル派、モダニズム派、ストレート派(イモージェン・カニンガム、アンセル・アダムス)などを生み出す。

1918

カメラ・ピクトリアリスツ・オブ・ロサンゼルス、国際サロンを開催。
1921


福原信三、路草『写真芸術』誌創刊。『カメラ』誌創刊。
1922

南カリフォルニア・カメラ・クラブがサウスウェスト・サロンを開催し始める。アー サー・ケールズがブロモイル印画法で有名に。 淵上白陽『白陽』誌創刊、日本光画芸術協会創立。『芸術写真研究』誌『アマチュアー』 誌創刊。
1924


福原信三、日本写真会創立。『フォトタイムス』誌創刊。
1926


『アサヒカメラ』誌創刊。
1928

南カリフォルニア・カメラ・クラブがロサンゼルス・カメラ・クラブと改称。この頃、 ジャパニーズ・カメラ・ピクトリアリスツ・オブ・カリフォルニアの写真家たちが活躍。
1932
ウェストン、アダムス等、f/64グループを結成。 ウィリアム・モーテンセン、写真学校を設立し、「モーテンセン・システム」を教える (アダムスとのピクトリアリズム論争)。