現代葬式考
吉 田 大 治
坊さんでもある私は当然のことながら人の死というもの、とりわけ葬式に関係する機会が多い。勿論その場合は法衣を着て拝む。いっぽうフリーのアナウンサーでもある私は、司会者として葬式に呼ばれることも多い。その時は黒の礼服を着てマイクを握る。
葬式の司会は結婚披露宴などの司会と較べて楽である。第一に盛り上げなくても良い。ただ淡々と喋ってちょっと悲しいセリフでも織り交ぜればOKである。おまけに一時間で終わるし、打ち合わせも直前に少しだけで済む。しかし司会のプロとしては格調高い演出を心掛け、結構こだわりを持ってやっている。腕の良い司会者であると自負しているので、一度みんなに聞かせたいくらいである。
しかし坊さんとしての腕が良いかどうかとなると、それに評価を下すことは極めて困難である。亡者をきちんと死後の世界へ送り出し、成仏に向けて本当に少しでも役立っているのか、これは誰にもわからない。わからないから坊さんはやってゆけるのであって、わかればお坊さんもまっ青であろう。実際の葬式において、坊さんは死者に対して「引導」というものを渡す。早く言えば亡者を仏門に帰依させて出家剃髪させる儀式を行なうのであるが、しかし如何に腕の良い坊さんが何をやろうと、死んでからではそれは遅い。やはり生きている間が肝心な筈である。だから私は死んでから渡す引導というものを極めて疑問に思っている。しかしこの上は少しでも良い声でお経を上げて本尊様に供養をし、お導きを祈るばかりである。その意味では私は腕の良い坊さんかも知れない。
まず葬式というものは死者と遺された人々との訣別のための儀式にほかならない。私はこのように軽く考えている。そしてよく観察していると遺族たちが一番よく泣くシーンは、出棺前に棺に花を入れて最後の別れをする時と、火葬場の炉の分厚い扉が「ガチャーン」と冷たい音を立てて閉まるあの瞬間である。それが済めば遺族たちも後は案外ケロッとしている。だから或いはこの最後の場面できっぱりと思い切るために、ただそのためだけに長い時間をかけてセレモニーを行うのではないかとも思っている。それゆえに葬式とは、死者にとってより遺族にとっての意義の方が大変に深いと言える。
だいたい生前あまり良いことをしなかった人に、坊さんがお経を上げて長い戒名をつけて拝んだくらいで、すぐさま成仏できると考えるのは大変に烏滸がましい。またそれだけの長い時間と莫大な費用と大勢の弔問とそして坊さんのお経がなければ死後の世界に逝けないとすれば、それは人間だけのことであり、悲しむべき有様と言えよう。
だが決して葬式が無用と言っている訳ではない。生きている者が功徳を積み、それを回向して冥福を祈るのであるから、これは亡者にとってどれほど資するか計り知れない。
しかし死んでからジタバタしてもねェ……。
(1997年「文芸随筆」第35号に掲載)
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