死後は無意識の世界なのか?(前編)
先日、お寺さんの結婚披露宴で司会を頼まれ、無事やり終えた後での
出来事です。タキシードから着替えようとホテルの着替室に入って行く
と、お坊さんと普通の人(別にお坊さんが普通でないというわけではあ
りません)が、意気投合したのか楽しげに話をしていました。楽しそう
だったので私も少し話に加わりましたが、そのあと普通の人がお坊さん
に色々と訊いていました。
「やっぱり人が死んだら極楽浄土っていうところに行くんですか?」
「いやいや、ただ無意識の世界に戻って行くだけだよ。無意識の世界か
ら生まれて来て、無意識の世界に帰る。」
「なるほど!その域に達すると、そんな風に言えるんですね、わかりま
した。それでまた明日から頑張れます。」
宴会の後だったので、二人とも多少はお酒が入っていたのでしょうが
、よく考えてみると何とも不思議な会話で、あらためて考えさせられる
重大な内容を含んでいると感じました。その中で私は、特に次の2点に疑問を抱
きます。
1、このお坊さんは、なぜ死んだあとの世界のことを知っているのか?
2、この普通の人は、なぜ明日から頑張れるのか?
こちらからも突っ込んで訊いてみたかったのですが、おめでたい宴席の
後だし、みんな疲れているのでやめました。
死後の捉え方や死生観について、この点だけに絞ってみても、宗派に
よってお坊さんの考え方は全く違います。発想の根本が異なっていると
言うか、訊ねる相手によって全く違う答えが返ってくると思います。こ
れでも同じ仏教なのかと疑いたくなるほどです。
もしこのときの質問が浄土宗や真宗系統のお坊さんに対して発せられ
ていたならば、こんな回答にはならなかったと思います。浄土宗などで
は、現世の修行でさとりに到ることを否定し、現世では口で唱える念仏
のみをすすめます。それによって死後は阿弥陀仏の本願による救済を受
け極楽浄土に生まれ、その浄土においてさとりに到ることを説きます。
もともと死後の世界を否定しては成り立ちにくい教えなのです。
実際このときのお坊さんは真言宗の人でした。真言宗は現世における
修行によって、三密加持による肉体をもったままの即身の成仏を説きま
す。現在、真言宗のお坊さんの中で極楽浄土を積極的に説く人はあまり
いません。
果たして死後の世界が有るのか無いのか、死後も意識が継続するのか
しないのか、これは人類永遠の謎であると言えましょう。最近でもテレビ
などで、死後の世界はどんなものか、霊とは如何なるものか特集番組が
組まれたりしていますが、結局結論と言えるものは出されたためしがあ
りません。残念ながら現時点で科学では、霊や霊界の存在を証明したり
説明したりできないからなのです。この捉えることのできない不毛の論
議に、我々は幾多の時間を費やしてきたことでしょうか。ですからこの
お坊さんが、なぜ死後のことをあのように断言できるのか私にはとても
不思議でならないのです。本当は誰も知らない筈なのです。それとも本
当にその域に達してしまったのでしょうか。
とは言え、仏教の中にも死後の捉え方は色々あって、このお坊さんの
回答も立派な一つの考え方であることは間違いありません。しかし、そ
れが即ち真言宗を代表する考えかたであると言うのは少し早計だと思い
ます。同じ宗派のお坊さんでも、人によってその考え方はまちまちなの
です。真言宗だけでなく、例えば浄土宗のお坊さんの中にも色々な考え
をする人がいて、死後の世界や霊的な世界を非科学的と捉える人もいま
す。いっぽう霊感があると称するお坊さんもいます。そんな人は勿論霊
界の存在を説きます。あるいは俗に言う「おがみ屋」と混同されるのを
嫌って霊界を否定する人もいます。正しく千差万別、百人いれば百様の
考えがあるでしょう。しかしその何れをとっても、間違いだと断言する
ことは今の時点では誰にもできないことなのです。
では、なぜ同じ仏教の中に様々な見解が生まれるに到ったのでしょう。
そもそも仏教を創始されたお釈迦様は、死後のことや霊的なものの議論
について一切口を開かれなかったと言われます。宗教的真理にかかわる
形而上学的な問題は、頭の中で理論的に考えて理解されるものではなく、
深い禅定などの修行によって会得されるべきものであります。すなわち
それがさとりです。さとりを開いた人にはさまざまな神通力が備わると
言われています。もちろん死後の世界の様子なども知ることができるわ
けです。しかしお釈迦様は死後の世界の存在について決して語ることは
ありませんでした。なぜなら説明や証明に使う言語自体も、私たちが今
存在する物質的世界の次元のもので、頭の中での理論的理解の域を超え
ていないからです。さとりの内容は言語によって伝えることはできませ
ん。もしさとりの内容について言葉で説明しようとするならば、それは
全部間違って伝わるのだという結論に到るのです。お釈迦様の教
えは、すべて方便の教えと言われる所以です。
お釈迦様は死後の世界や霊的なものについては語りませんでしたから、
仏教では固定的な見解がもともと存在しません。それゆえに後世のお坊
さんたちは悩んだあげく色んな考え方を持つようになりました。一般の
人にとってお坊さんというと、葬式や法事のときに現れて、祖霊を供養
するために長々とお経を唱える人、それが主なイメージだと思います。
確かにそのイメージ通りなのが実態かも知れませんが、本来はそうでは
ないのです。仏教は生きた人間のための教えであり、それを自ら究めて
他の人々に説き伝えるのが本当の姿なのです。本来僧侶というものは自
らが求道者なのですが、残念ながら殆どの人がお釈迦様のように深い禅
定を修し真理を会得することはできませんでした。結局机上での哲学的
教理を学び、頭の中で理屈をひねるしか方法が無かったのです。しかし
学んだこと、頭で考えたことを言葉で説き広めること自体は決して悪い
こととは言えません。さとっていない僧侶も人の前に立って仏教の教え
を伝えなければなりません。あるいは先の会話のように、一般の人から
色々と訊ねられることも多いのです。
人が死んだらどうなるのかということは、とりもなおさず人は何のた
めに生まれてくるのかという問題と直結します。「生」と「死」の問題
は宗教にとって最大の課題なのです。お釈迦様はさとりを開いた人で、
後世の人に大きな影響を残しました。もし霊とか死後について言葉で語
っていたなら、それは後世の人に重大な誤解を生じさせたでしょう。そ
れは責任重大です。しかし私たちは凡僧ですから誰もさとった人とは思
ってくれませんので、その責任は極めて軽微なものです。私に言わせれ
ば、その議論から逃れたり非科学的だと片づけてお終いにする方がよっ
ぽど無責任だと思うのです。そんな非科学的と称するものを相手にお経
をあげてお金を受け取り、その揚げ句その矛盾を突かれても色んな詭弁
を弄して居直ってしまう。そんなずるいお坊さんも時々見かけます。
皆さんも周囲におられるお坊さんに、この重大な謎についてどんどん
質問を投げかけて戴きたいと思います。百人百様の答えが返ってくるか
も知れません。即答できない人や、お釈迦様にならって最初から答えな
い人もいるかも知れません。しかし訊いてみる価値はあります。お坊さ
んにとっても大変な刺激になると思います。
この一言放談の中でも、死後のことについて結論を出し証明することは
できません。しかし私なりの考え方をお聞かせすることは可能です。分
からないけども放置できない重要な問題だからです。そして二番目の疑
問、ここに登場した普通の人は、死後は無意識の世界と聞いてなぜ明日
から頑張れると言ったのでしょうか。このことも含めて続きの後編で考
えてみたいと思います。
後編も是非ご覧ください。---------------------------------[つづく]
(2005.11.10)
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