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一言放談
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死後は無意識の世界なのか?(後編)

 死後の世界が有るという考え方と、無いという考え方があるとします。 昔から問答にあるような「有るようで無く、無いようで有る」というよ うな有耶無耶な話はやめておきます。そして私たちの存在を物質と精神 との二つに分けて考えます。この際、物質的なものも精神的なものも 「存在」という言葉で表現できるとします。
 この前提で、先ず死後の世界を有るものだとして考えてみます。死後 の世界は物質的な存在なのか、それとも精神的な存在なのでしょうか。 普通は精神や心の領域で考えるのが自然です。もし物質的な死後の世界を想 定するならば、私たちはその存在を捉えることができ証明することも容 易そうです。しかし死後の世界を見た人はいません。霊感があるという 人には霊が見えると言いますが、では捕まえてここに出して見よと言っ てもそれは叶わぬ相談なのです。浄土経典では遙か西方に阿弥陀仏の極 楽浄土があると説きますが、地球上を西へ西へと進んだらまた再び戻っ てくるだけでしょう。そもそも宇宙空間では方角という概念は存在しま せん。あるのはただ天球座標や距離などの概念です。ですから死後の世 界がもし有るとするならば、それは精神や心のはたらきの世界に違いあ りません。極楽浄土も有るとするならきっと物質的な束縛を完全に離れ た世界です。だからこそ安楽なのです。
 もしどうしても物質的な世界にこだわり、宇宙の彼方にある星を想定 したとしても、人の肉体がその星に向かって移動するさまを見た人はい ません。死んだら肉体は腐ってゆくというのがあるがままの姿なのです。 肉体を捨ててしか行くことができないのなら、無理に物質的存在にこだ わる理由が見つからないのです。
 今の物理学では物質の質量をエネルギーと関連づけて考えます。質量 はエネルギーに変えることができます。そこで霊的世界をエネルギーと 関連づけて考えるとどうなるでしょうか。もしそうならこの場合もその 存在を捉えて証明することができそうです。しかし現在のところそれは 実現していません。もしかしたら将来には新しい物理理論が発見されて、 霊界の存在を証明できる日が来るかも知れませんが、やはりそれは物質 やエネルギーなどの次元を超えた何かで、精神的なはたらきをするもの だと考えるほうが理に適います。そしてその精神的はたらきの主体とな るものこそが「意識」というものだと考えられるのです。
 では逆に死後の世界は無いものだと考えてみることにします。人が死 んだら何も残らないのです。肉体は滅び意識もすべて無に帰します。生 まれてからの記憶も、死後の認識もありません。残るものはやがては朽 ちゆく遺骸と、生前の行為が残した物質的影響だけです。もし精神的な もので残るものがあるとすれば、他の人の心に影響を残すことだけでり、 その人の持っていた実体ではありません。
 どんな人でも「意識」というものの存在は疑わないでしょう。しかし それを肉体の一部である脳の機能として捉えるわけですから、コンピュ ーターが壊れてすべての機能が失われるのと同様、人が死んだら途端に 精神的なものの全くが消えて無くなるということになります。
 前編に取り上げたお坊さんは「無意識の世界に帰る」と言いました。 仮に死後の世界の存在を認めるなら、それは精神的な意識というものが 存在する世界です。その意識が無いということは、すなわち死後の世界 が存在しないと言っていることに等しくなるわけです。しかしここでは 「無意識の世界」と表現しているくらいですから、もしかしたらそんな 世界の存在を主張しているのかも知れません。しかし、やはりこれは死後の世 界の否定と受け取るべきでしょう。なぜなら意識の無い死後の世界が存 在したところで、私たちにとって何の意味も無いからです。
 そしてさらにそのとき驚いたことは、お坊さんの「無意識の世界に帰 る」という回答を聞いた一般の人の反応が「また明日から頑張れます」 と言ったことです。それが二つ目の疑問点です。その人が死んだら無意 識の状態となると聞いて喜んでいるようなのです。
 人は死ぬとものを言わなくなります。呼んでも答えず、叩いても切っ ても痛がらず、火葬場で火にあぶられても熱がりません。あたかも全て の心的機能が停止したかのようです。太古の昔からその様を見て人は死 を恐れるようになりました。もう愛する者と語り合うこともできない、 快楽を享受することもできない、何も分からなくなるということはとて も怖いことなのです。自分が死ぬのも怖いし、愛する人が死ぬことも怖 い。しかし死後の世界を信じ、意識の永続性を信じる人はその恐怖から 逃れることができました。
 しかしここに登場した人は、死んで無意識となることを喜んでいます。 よほどのニヒリストなのでしょうか。仏教諸派の中には既成の価値基準 を否定してこの現実世界からの逃避をもとめる立場もあります。しかし この人はその領域に属しているとは思えません。なぜならこの世界が無 意味なものならば何も頑張る必要が無いからです。
 あるいはキリスト教系のごく一部の教派では、人が死んだ後はすべて の意識が無くなり、神の記憶の中にのみ残され、やがては復活して戻っ てくると説く団体があります。やがて復活する者も、それまでは無意識 状態に置かれるというのです。色んな考え方があっていいと思いますが、 ここで注目すべきなのは、神の心にかなう者には復活という救いが用意 されていることです。すなわち復活した後の世界が存在するわけです。 しかしこの人はそんな教団に属しているような様子はありませんでした。
 これはあくまで私の想像ですが、この人は本質的に強くて純粋な宗教 心の持ち主で、欲望や世俗のことに翻弄される自分を常に卑下し、さら にこの人の仏教理解においては、死後に良い世界に生まれ変わることが 仏教の目的であり、それができない自分であることをいつも嘆いていた のではないか、そこでこのお坊さんから「死後は無意識の世界に帰る」 と聞かされて何らかの安心感を得たのではないかと思うのです。色々と 想像を膨らませては見るのですが、本当のところはご本人に訊かなけれ ば何もわかりません。
 死後の世界の存在、死後の意識の継続を説くことは、それが真実かど うかは別におくとしても、宗教の大きな役割だと思います。あるいはお 釈迦様のように積極的に説かないまでも、それを否定しないのが宗教だ と思います。仏教が成立する以前から、インドの思想界では輪廻転生が 常識でした。生きとし生けるものは、生まれかわり死にかわりして、延 々と継続するというのが輪廻思想です。仏教も勿論それを出発点として います。決して否定したわけではなく、そこから解脱する道を説き示し た教えです。たとえば前編でも取り上げた真言宗では、今生でこの身こ のままの即身成仏を説きます。もし死後の継続性を否定する立場ならば、 今の人生で成仏しようがしまいがその時だけの問題であって、どうでも 良いという考え方になってしまいます。仏教は輪廻転生を否定しては存 在し得ません。死んだらそれでお終いというような考え方は決して採ら ないのです。
 では輪廻の主体は何かといえば、それはやはり意識です。輪廻からの 解脱は、すなわち自我を形成するべき意識が壊滅することに他なりませ ん。しかしその意識も、もともと宇宙の根本的な働きから生じたもので すから、自我意識の根底には宇宙全体に繋がる大いなる意識が横たわっ ていると考えられます。そこが神と繋がる部分であり、宗教の説く至福 の世界に他ならないのではないでしょうか。先に挙げた「神の記憶」と いうこ言葉も、どうもそこに結びつくように思えてなりません。神の意 識も人間の意識も別々に離れては存在しないのです。
 この輪廻思想は何も仏教だけに限らずキリスト教などあらゆる宗教の 中にも存在します。人の命の永続性と生前の行為いかんによる果報の存 在、例えば死後の状態を天国や地獄という世界にたとえ、さらに再びこ の世に生ま出るときには社会的階層や貧富の差、人生の幸不幸などの差 別を背負ってくるという、世に言う輪廻転生やカルマの法則などは正し く宗教思想の根幹と言うべきなのです。
 このような宗教があって、もしくは人間が本質的に宗教性を持ってい たからこそ、人は罪の意識に目覚め行ないを正し、心を清らかに保とう と努めるようになりました。刹那的快楽主義から人類を守り、世界が無 法状態に陥るのをギリギリの線でくい止めてくれているのが宗教なのです。
 しかし、ここであらためて考えておきたいことがあります。それは、宗教が万 能ではなかったという事実です。例えば霊の存在ひとつにとっても、宗 教は全ての人々に対して完全に証明したり説得することはできませんで した。科学にあっても同様です。多くの科学者達がこの謎に挑み続けて いますが未だ達成していません。
 そこで二つの極端な場合を想定してみましょう。一つ目は、もし全人 類にいささかの宗教性も無く、この世限りの人生だと理解していた場合 です。先に述べたように快楽主義が横行し無法状態となるばかりか、と っくの昔に核戦争か何かが起きて地球は滅んでいたに違いありません。 では次にその反対、宗教が完璧で、誰もが霊性の存在を知っていて疑 わなかったとしたらどうでしょうか。この世の全ての人が行ないと心を ただし、戦争も犯罪も無く、愛と叡智に満ち溢れた平和で調和のとれた 世界が誕生していたことでしょう。
 この両極端のいずれの場合によっても、地球の歴史は全く違ったもの となっていたでしょう。しかしそうはならなかった、宗教はあくまでも完 璧なはたらきを為しませんでした。私には、宗教がみずからその中庸を 選ぶように最初から仕組まれていたと思われてならないのです。
 宗教や科学が死後の世界を明確に証明しない限り、私たちにはまだま だ迷いが続きます。そこにこの世の存在と、地球の歴史的意義を見いだ すことができます。物質的次元で束縛の多いこの世の中は、魂の修行の 場であるとするのが多くの宗教の教えるところです。戦争も犯罪も無知 も迷いもある困難で不自由な世界だからこそ、苦労をして乗り越えて行 くことの高い価値が認められるのです。ですから宗教も科学もすべてを 明確に証明することがあってはいけないのかも知れません。
 私はこれでも一応仏教徒ですから輪廻を信じます。そして死後の世界 について問われたら、やはり死後における意識の継続性と、死後はその 人の心の状態にふさわしい世界に生まれ変わるという考えを示します。 また極楽浄土について訊かれたら、極楽浄土を信じてそれを日頃から念 じながら生きた人には、きっとその世界が用意されていると伝えるでし ょう。
 しかし、そんな偉そうなことを言っても、やはりこれは私の頭の中で 考えたことに他ならず、実際に目で見て確かめたことではありません。 これまで長い輪廻を経て今の自分があるのですから、少しくらい過去世 の記憶が残っていても良さそうに思うのですが、それも今の私には全く 思い出せません。迷いの世界にあってこれからも道を求めなければなら ない存在なのです。ですから、もし人から死後の世界の有無について訊 ねられたら、「あると思うんやけどなぁ」と答えるよりほかに仕方ない のです。自信無さそうで申し訳ない限りですが、分からないことをした り顔で述べる程のド厚かましさを、私は持ち合わせていないのです。
 人類にとってこの問題の探究はこれからも続いて行くでしょうが、百 人百様の考えがあって良いと思います。むしろみんなが一緒の考えを持 つことのほうが危険だとも言えます。今ここに私なりの考え方を記しま したが、これも一つの考えだという程度に理解してください。そして皆 さんの考えも是非教えて欲しいと思います。------------------------[おわり]

(2005.11.21)


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