行基について
[ 行基の名が付く言葉]
行基の名が付く言葉は、たくさんあります。これだけでも、行基は途轍もない人物だと言えます。
行基焼(須恵器、ねずみ色の山茶碗)、行基壺、行基窯、行基瓦、行基葺(玉虫厨子・元興寺極楽坊)、
行基鋸、行基風呂(蒸し風呂)、
行基寺、行基堂、行基院、行基庵、
行基山(小塩山)、行基橋、行基庭園、行基池、行基水、行基清水、行基井、行基塚、行基塔、行基岩、
行基滝、行基洞、行基祠、行基杖、行基松、行基杉、
行基菩薩、行基仏教、行基信仰、行基会、行基和讃、行基講式、行基講、行基式目、行基七墓、
行基仏、行基祭り、行基参り、行基鮒、
行基回顧、行基絵伝、行基地図、
[ 行基の歌]
行基にはたくさんの歌があります。僧侶でこれだけの「行基作」の歌があるのは特異なことだと言えます。
・昆陽寺の境内に行基の歌碑がある。成田為三作曲
「山鳥の ほろほろとなく 声きけば 父かとぞ思う 母かとぞ思う」(玉葉)
・雉鶏振レ羽有レ興、有レ感菩薩作歌曰
「春乃野乃に ほろほろとなく きし尾 ちちかとそおもふ 母かとそ於もふ」(行基菩薩縁起図絵詞)
・大僧正行基詠みたまひける
「法華経を我が得しことは薪こり 菜摘み水くみ仕へてぞ得し」(拾遺)
・薪ヲ荷テ廻ル讃嘆ノ詞云、「−」光明皇后ノ説給エルトモイヒ行基菩薩ノ伝給エルトモ云(三宝絵)
「百草に八十草そへて賜ひてし 乳房のむくい今日ぞ我がする」(拾遺)
「百石に八十石そへて賜ひてし (以下同文)」(宝物集巻1)
・南天竺より東大寺供養にあひに、菩提がなぎさに来つきたりける時よめる
「霊山の釈迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつるかな」(拾遺)
・難波の御津寺にて、蘆の葉のそよぐを聞きて
「葦そよぐ塩瀬の浪のいつまでか 憂き世の中に浮かびわたらむ」(新古今)
・生駒の山のふもとにて、をはりとり侍りけるに
「法の月ひさしくもがなと思へども小夜更にけり光かくしつ」(新勅撰)
・行基は「越の大徳神融禅師」が白山に於いて修行されておられることを聞かれ度々遭いにこられた。
また行基は文殊山を仰ぎ
「越にては富士とはいわん角原の文殊岳の雪のあけぼの」とうたわれた。
・天平廿一年、生駒の山のふもとにて、をはりとり侍りける遺誡歌
「かりそめの宿かる我ぞ今更に物なおもひそ仏とをなれ」(続後撰)
・弟子信厳の死にあたり、
「烏といふ大をそ鳥の言をのみ共にといひて先だち去ぬる」(霊異記)
・天皇に奉る歌(和歌付勅使献天皇云云)
「止不久留未 和禮仁多末部利以加仁東毛諸共 尓古曽於久利和多佐女」(行基年譜)
・行基菩薩の中有のありさまのたまふにも(中有=中陰=四十九日)
「屍はのこりて墓のほとりにありといえども、魂はさりて、中有にありて苦をうくる」(宝物集巻2)
・行基菩薩
「人みなを みのりの歌に泣かせけん 君ケ聲こそ聞かまほしけれ」(詠中抄)
・行基遺誡
「浄土ニアラスヨリンハ何ノ處カ心ニ叶トコロ有ン
聖衆ニアラスヨリンハ誰カ思ニ随フ人有ン」ト ノタマエヘリ(康物宝物集上)
・極楽
「極楽へ行く人の乗る紫の雲の色なるあじさいの花」(遠江・極楽寺)
・開基行基菩薩が多聞山にて詠む
「六つの道おちこち通うはらからも 我が父ぞかし 母ぞかし」(奈良・草鞋山西方寺)
・行基法師
「ここにしも わきて出けん石清水 神の心をくみて知らばや」(八幡町誌・実際は増基作)
遺著に『国府記』および真偽未詳の『行基式目』がある。(『日本百科大事典』小学館より)
◎全国各地の行基伝承
・全国に約1,400箇所の行基ゆかりの寺院がある。
行基創設の寺院、行基彫刻の仏像、行基像・行基の墓
・行基の墓 近畿を中心に二十四箇所あり、それ以外に生駒往生院、雲仙にもある。
・行基像は36箇所、唐招提寺、昆陽寺、奈良駅前、九品寺、往生院、有馬、家原寺、鶴林寺、
東・西大寺、安楽寺(橿原市)、国分寺
・『続日本紀』には畿内に「四十九院」が造られ、諸国にも往々にしてあるとされる。
・「霊異神験類に触れて多し」とされ、『日本霊異記』には、最も多く描かれる人物、
透視眼など超人力、神通力を持つ。
・何よりも聖徳太子と並び称され、聖武天皇など東大寺四聖の一人とされる。
・謎が多い人物
・民の救済・カリスマ性
[ 行基ノート]
1.行基
奈良時代の僧 天智天皇7年(668)〜天平勝宝元年(749) 生駒山に葬す。
82歳入滅(各説あり、『続日本紀』には「薨」が用いられる。)
父 高志貞智(才智)、王仁の後、西文氏の分派、自宅を家原寺とす。知恵の文殊
母 蜂田薬師古(古爾比売)、河内国大鳥郡蜂田郷、蜂田寺(華林寺)
社会活動 寺院四十九院(僧院34、尼院15、現存8)、交通施設、灌漑施設、福祉施設など
池15、溝7、堀4、樋3、直道1、船息2、布施屋9、D(堤塘)20、大井堰1など
Dは塚または墓か
2.行基の尊称等
伝記) 今昔物語など聖徳太子に次いで二番目に書かれる。
続紀)小僧、法師、菩薩、大僧正(天平17年1月)、薬師寺僧
瓶記)「最も信頼できる資料、託宣により発見」法諱「法行」
行状記)自然顕菩薩、文殊の化身、日域無双の和尚、大聖の権化
霊異記)変化の聖人、沙弥、菩薩、大僧正(天平16年11月)、隠身の聖、化身の聖、文殊師利菩薩の反化、
その他)大徳(天平10年ころ)、大士
3.行基年譜 1175年 泉高父宿禰
「年代記」・「天平13年記」延暦23年所司記 その他
池の築造15所 溝7所(実際は6所)
4.伊丹の池 「昆陽上池 同下池 院前池 中布施尾池、
長江池 己上並五所河辺郡山本里」
昆陽寺鐘名(1326年再鋳)14所、 昆陽寺縁起 12所
◎伊丹の池は、実は、もう1箇所多く、6箇所の池が作られたか。
5.昆陽施院、布施屋、為名寺給狐独園
昆陽施院は、現昆陽寺説・伊丹廃寺説の二説あるが、私見は第三説を取る。
鐘名四至 「伊丹坂、武庫川、後通墓、笠池(籠池の略字)」
『昆陽組邑鑑』(1756〜1769)
・川辺郡千僧村の項 安楽院 49院の一つ
「右安楽院義は和銅6年 行基菩薩 開基・・・
天正7年(1579)荒木摂津守 兵乱のため、安楽院1寺のみ残して移転」
・川辺郡寺本村の項 現昆陽寺
「右堂社15箇所、天平年中行基菩薩開基に而往古七堂伽藍之所、
天正年中 荒木摂津守 兵乱に焼仕、其後再興仕候」
行基堂村、慶長10年(1605)
◎塔頭、前16寺、後25寺のうち3寺が同名あり。安楽院は布施屋の後身となる古代昆陽院の一院か。
6.行基地図
都(山城)からの道路が基軸、団子状の日本国の全国図がある。
・行基海道図 750年ころ
・京都仁和寺蔵図 1305年
・大日本図(拾介抄) 1548年
7.行基に仮託する思想
・仏教の教え 福田思想、安楽国、死後の世界、転生輪廻
・神仏習合・神仏混交の思想
・菩薩 利他の心、民衆に対する思いやり、弱者の救済(布施屋・給弧独園)
・不老不死、蘇生(再生)の思想
・護国の思想 龍となって日本国を護る
・偉人を神として崇める思想→行基は見えない。
・行基遺誡 口虎害身
参考書
千田稔『天平の僧行基』(中公新書)
井上薫『行基』吉川弘文館・人物叢書24
吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館
速水侑編『民衆の導者行基』吉川弘文館・日本の名僧2
根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書院