万葉集読解

1 万葉集6-937 しきる白波 2 万葉集16-3889「葉非左思所念」 3 万葉集16-3817「可流羽須波」 4 万葉集1-9「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」 5 万葉集6-970「指進之栗」 6 万葉集10-1817「云子鹿丹」 7 万葉集10-2033「定而神競者磨待無」 8 万葉集10-2113「手寸十名相」 9 万葉集12-3046「安□(斬の下に足の字)」 10 万葉集13-3221「汗瑞能振」 11 万葉集16-3791 竹取翁 12 万葉集17-3898「歌乞」 13 万葉集6-935/937 名寸隅 14 万葉集2-145「鳥翔成」 15 万葉集2-156「已具耳矣自得見監乍共」 16 万葉集2-160「智男雲」 17 万葉集3-249「舟公宣奴嶋尓」 18 万葉集13-3223「日香」 19 万葉集14-3419「奈可中次下」 20 万葉集15-3754「多我子尓毛」
 万葉集は、鎌倉時代の学僧仙覚が『万葉集註釈』に「ヨロヅノコトノハノ義なり」(1) とするように、いろいろな言葉に多様な表記がされている。気にかかる部分を読み解く。 1 しきる白波  万葉集6-937 に 「往き廻り(ゆきめぐり)見とも飽(あ)かめやも名寸隅(なきすみ)の船瀬の濱にしきる白波」 名寸隅は魚隅の誤りと考える。  原文は、「往廻 雖見将飽八 名寸隅乃 船瀬乃濱尓 四寸流 思良名美」 「しきる白波」は「後から後から寄せる白波。シキルはたび重なる意。「重、カサナル、 シキル」(名義抄)。『日本霊異記』にも、シキリニという語がある。…  ヨスルと読めそうだが、「寸」は…これをスの音仮名と認めることは困難。」(2) と解釈され、「四寸流」を「しきる」と訓むべきとするが、「しきる」は今日の日常で使う ことはなく違和感がある。  現実にない「名寸隅」の地名と同様に、「四寸流」に使うことがない「しきる」を充てる ことは如何であろうか。 確かに、「四」を「し」とするのは、万6-934に「船二四有良信(ふねにしあるらし)」とあり、 「寸」を「き」とするのは、万3-409「玉之手二巻難寸(たまのてにまきかたき)」、万6-931 /934「朝名寸二(あさなぎに)」、万6-1057「寸鳴響為(きなきとよもす)」など例は多い。  『名義抄』に「重、カサナル、シキル」とあるが、『名義抄』の「シキル」も万葉集の「四寸 流」を「しきる」と読み継いだのでなかったか。  『霊異記』の「しきりに[未確認]」は現代でも副詞として用いるが、 「頻りに:副詞、@しげく。ひき続いて。しばしば。Aひどく。むやみに。:広辞苑」とあるが、 「しきる」とは同列とは見做せない言葉であろう。  『霊異記』は「ともがら・ともから」に「類・儻(党)・流・儔・儕・同属」が使われる。  万葉集なども「かな」に多様な漢字を充てている。  「白波・波」の名詞に使われる基本的な動詞は、「よす・よせ・よする・よそる」で、現代 的用法では「寄る・寄せる」であろう。 そこに、「来る」が付加されて「きよる・きよする・よせく(る)」が派生する。
読み方例示備考
よす五百重波因邊津波之(3-931)夕菜寸二五百重波因 (よす)
よせ千重浪縁(3-931)朝名寸二千重浪縁(よせ)
よする縁流白浪(3-288)荒磯尓縁五百重浪(4-568) 因流浪(4-600)
縁浪(7-1388)奥浪依流荒磯7-1395)
よそる之良奈美乃与曾流(20-4379)
きよする白浪之千重来縁流(3-932)来依留濱(7-1158)
きよる来依白浪(7-1389/1391)
よせくる因来浪 (7-1151)縁来浪(7-1159)
よせける波者縁家留香 (7-1237)縁来浪(7-1159)
よせく奥津波…依来十方(7-1206)
よらむ立浪之将依思有(7-1201) 立浪之将依念有(7-1239)
以上の用法を見ると、「しきる」という読みは、万葉集では他にみえない。 多様な表記 る:留・流・類・  …流は「る」と読む。 略音(韻尾:ん)  「雲う(ん)・閑か・巾き・散さ・信し・寸す・難な・盤は・萬ま・万ま・満ま・聞も・年ね」は 「ん」を略して読む。特に、「寸」は、かたかなの「す」になった文字である。  万11-2364に 「玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根(たまだれの をすのすけきに いりかよひこね)」 と「寸=す」と訓ずる実例があるので、多様な表記があることを想定してはいかがか。 数の読み方  数字を1から10まで数えるときには、 「いち に さん し ご ろく しち はち きゅう じゅう」と数えるが、 10から1の逆読みでは、「じゅう きゅう はち なな ろく ご よん さん に いち」となる。 古代では、 「ひい・ふう・みい・よう・いつ・むう・なな・やあ・ここ・とお」 あるいは、  「ひー、ふー、みー、よー、いー、むー、なー、やー、こー、とー」と数えた。 また、個数を数えるときには 「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお」 のように「つ」を付ける。  万葉集では、二に・三み・四し・六む・八や と数字に一文字が当てられるが、「六・八」 に「む・や」が充てられるなら、「四」に「よ」の読み方もあり得ると思われる。 すると、「四寸流」は「よする」と読め、それが一般的に理解できる読み方である。  文学者以外では、吉田東伍(3)や土口泰行(4)も「四寸流」を「よする」と読む。  万葉集6-937 を正せば 「往き廻り見とも飽かめやも 魚隅(魚住)の船瀬の濱に 寄する 白波」となる。 2 「葉非左思所念」  万葉集16-3889  「人魂乃佐青有公之但独 相有之雨夜乃葉非左思所念」 訓読 人魂(ひとだま)のさ青(お)なる君がただひとり 逢(あ)へりし雨夜(あまよ)の葉非左し思ほゆ 意訳 人魂のようなまっ青な君がひとりきりで現れた雨夜の葉非左が思われる。   「葉非左」は未詳とする。 (5)  「葉非左」をどう読むか。私案「はひま」と訓ずる。 万葉集の個々の歌は一人が作ったものでなく、また、転写の間に多様な表記、改訂がなされたかもしれない。  「葉」は「は」と読む。「山葉従(やまのはゆ):16-3803」「久受葉我多(くずはかた):14-3412」の例が ある。 「非」は「ひ」。「左」は、「左右」が「まで」と読む例(9-1789)があるから、「左」の一字は「ま」を充 てられる。  「はひま」を漢字に充てると「駅馬・駅」ができる。  広辞苑に「駅・駅馬 はいま(ハヤウマ(早馬)の約 ハユマの転)」とある。  万葉集で、「駅馬・駅」に充てるものに、「はゆま」がある。 「波由麻(14-3439・18-4110・18-4130)」と表記される。  『日本書紀』には、「駅(はいま)に乗りて:岩波文庫4巻352頁。」「駅馬(はいま)に乗りて:同左188頁。」 「馳駅(はいま)して:同左202頁。」は、注13に「早馬を馳せて」くらいの意とある。  現代風の「はいま」は、「はゆま」と「はひま」から音が変化したものと思われる。  「ゆ」と「い」の音変化は、「行く・往く」、的(いくは=ゆくは)に見られる。 万葉集には、接頭語の「い」も多く用いられた。なお、神聖の意を有した接頭語の「ゆ(斎)」の音転語と思わ れる「い」があり、…「斎垣」「斎串」「斎杭」をはじめ、この時代の文献には多く見られる。(6)  「ひ」と「い」の音変化は、川合(かわひ:播磨風土記、東洋文庫90頁。)、坂合部(さかひべ:日本書紀4巻、 岩波文庫344頁。)、問菟(塗?宇とひう:同左350頁。)、使(つかひ:同左30・36頁。)、丹治井(たじひ:摂津 名所図会大成巻之一、20頁。)、阿為神社、阿比或は阿井と書り。(摂陽郡談,第11、神社の部221頁。)、 堺(さかひ)、念(おもひ)など歴史的仮名遣いに例が多い。  私案の解釈は、 「人魂に出会って(人魂のように)まっ青になった君がただひとりで雨夜を行くのは怕(おそろ)しく、早馬が あれば一刻も早くこの場所を駈け去りたいと思う(念じる)だろうよ。」 3 「可流羽須波」  (万葉集16-3817) 可流羽須田廬乃毛等尓 吾兄子者 二布夫尓咲而 立麻為所見 (田廬者多夫世[反]) 訓読 かる臼(うす)は田廬(たぶせ)の本(もと)に吾が背子(せこ)はにふぶに笑(ゑ)みて立ちま せり見ゆ (田廬は「たぶせ」の反) 意訳 唐臼(からうす)は田廬(たぶせ)のもとにあり、あの人は にっこり笑ってお立ちにな っているのが見える。(田廬はたぶせと読む)   「可流羽須」は「唐臼(からうす)」とし、「カラウス(3886)の約カルスを再び四音節の形 に延ばしたもの」とする。 「田廬」は「田の中の仮小屋。フセはフセヤ・フセイホのフセであろう。」(7)  別には、「初句原文の「可流羽須波」は未詳。諸本の訓「かるはすは」を、代匠記(初稿本) は「かるうす(軽碓)は」と改訓し、万葉考は「唐臼なり」と注釈した。仮にそれらの訓みに 従う。しかし…「刈る」に関係する意味未詳の枕詞「かるはすは」と見て、田廬のそばに 収穫を終えた夫がにこにこと笑っているさまを詠うものと理解することも可能であろう。 」(8) とあることも物足りない解釈である。  万葉集16巻は、冒頭に「有由縁并雑歌」の標目があり、物語歌・戯笑歌・歌謡・怕ろしき物の 歌など(9)、すこし傾向の変わった歌が集められているように窺える。  訓読・意訳を読んでも、歌を詠んだ状景が浮かぶことがない。 なぜ、吾が背子が「にふぶに笑(ゑ)みて立ち」何を見ているのであろうか。唐臼が仮小屋の 傍にあっても、吾が背子(夫)がにっこり笑うことと繋がらない。 この歌と関連する歌を探すと、「万葉集16-3856」と「万葉集14-3521」がある。 「万葉集16-3856」は、婆羅門僧正の作れる小田を喫(は)む烏の歌である。 (万葉集16-3856)  婆羅門乃 作有流小田乎 喫烏 瞼腫而 幡幢尓居 訓読 婆羅門(ばらもん)の作れる小田(おだ)を食(は)む烏 瞼(まなぶた)腫(はれ)て幡幢(はたほこ)    にをり 意訳 婆羅門僧正が作っている田を食む烏は、瞼を腫らして幡幢に止まって居る。(9)  この歌では、瞼の腫れたカラスを戯歌の材にしているのである。 もう一つの「万葉集14-3521」は、烏を「おほをそ鳥」とする歌がある。(10) (万葉集14-3521)  可良須等布 於保乎曽杼里能 麻左弖尓毛 伎麻左奴伎美乎 許呂久等曽奈久 訓読 烏(からす)とふ大(おほ)をそ鳥(どり)のまさで[真実]にも来(き)まさぬ君をころくとそ鳴く 意訳 烏という軽率な鳥が、本当はお出でにならないあなたなのに、コロク(自分から来る)と鳴く    よ。 (11)  以上二つの歌と、「可流羽須」の文字のイメージから、「カラス」が連想される。  内容的にも、たわけものと仏罰、軽率と、鳥を戯笑の題材にしているのが類似している。 「可流羽須」は、軽い羽根を持つス=鳥(スはカケス・ウグイス・ホトトギス)である。 「カルウス」を何度も繰り返し読むと、「カルス」→「カラス」となる。  田廬(たぶせ)は田にザルを伏せたような鳥を捕らえる仕掛けで、中に餌が仕込まれている のであろう。そのような田廬のもとに「たわけもの(本当は利口な動物であるが、餌につられる。)」 のカラスが近寄ってきたので、罠を仕掛けた吾背子(夫)がにんまりとしている状況を詠ったのでは ないか。烏滸(をこ)とは、おろかでものわらいになることである。(角川新字源) 註 (1)『万葉集』1巻、岩波書店、1999年、4頁。 (2)『万葉集』2巻、小学館、1972年、142頁。 (3)吉田東伍『大日本地名辞書』、冨山房、19年、851頁。 (4) 土口泰行『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年。 (5)『万葉集』4巻、小学館、1975年、156頁。 (6)『万葉集』4巻、岩波書店、2003年、8頁。 (7)『万葉集』4巻、小学館、1975年、124頁注。 (8)『万葉集』4巻、岩波書店、2003年、32-33頁。 (9)『万葉集』4巻、小学館、1972年、17-18頁。 (10)『万葉集』4巻、岩波書店、2003年、52頁。 (11)『万葉集』4巻、岩波書店、2003年、52頁。 (12)『万葉集』3巻、岩波書店、2002年、364頁。
万葉集読解2(2022/3/27)
難読で定まった読みが無い箇所について、読みを付す作業を試みる。
4 万葉集1-9「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」 [題詞]幸于紀温泉之時額田王作歌 [原文]莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本 [訓読]紀の温泉(いでゆ)に幸(いでま)す時に、額田王の作る歌  莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立せりけむ厳橿(いつかし)が本(もと) 「莫囂圓隣之│大相七兄爪謁氣」は、 「なきえりの おそなえつけき」と読む。 [私読]無き襟の御備え著けき わが背子がい立せりけむ厳橿が本 [意訳]出湯(蒸し風呂)から出てきた君が、上半身裸で、犢鼻(たふさぎ)を著けて大きな樫の樹下に 悠々と立たれて涼んでおられるよ。常の装いはなくても雄大な方です。 5 万葉集6-970「指進乃栗」 [題詞](三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首) [原文]指進乃 栗栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六 [訓読]はなむけの栗栖の小野の萩の花 散らむ時にし行きて手向けむ 「指進の」語は「栗」にかかる枕詞と考える。 「指進」は、指し進めるから、「さしすぎ」「さしすぐ」「さしずめ」などと読むのはいずれも 面白くない。「指進の栗」を「さすしん=刺す針の栗」と読めなくはないが面白くない。 「指」の漢字の意味は、@ゆび。Aさす。ゆびさす。アさししめす。イさしずする。Bこころもち。 Cむね。おもむき。わけ。とある。(角川新字源) 「進」の漢字の意味は、@すすむ。Aすすめる。Bはなむけ。おくりもの。「進物」Cつくす。と ある。(同上) 「萩の花」と「手向けむ」の言葉から、「指進」は「心からのはなむけ」と解し、「指進の」は 「はなむけの」と読む。「指進」を戯文的に解くならば、「指」を「手・旨」に分解して、「旨手 (馬で)進む」から「(馬の)鼻向け=餞」が導かれるか。 6 万葉集10-1817「云子鹿丹」 [原文]今朝去而 明日者来牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏□(□文字は雨冠に下は微) [訓読]今朝去(ゆ)きて明日には来むと云ふ背鹿に 朝妻山に霞たなびく 「云子鹿丹」は「いふしかに=云ふ鹿に」、「鹿」は「背鹿=夫」の転。(三省堂新解明古語辞典) 7 万葉集10-2033「定而神競者磨待無」 [原文]天漢 安川原 定而神競者磨待無 [訓読]天の川 安の川原に 定めてし 競わば 伽待ち無くて 「定而神競者磨待無」は、「定而神│競者│磨待無」と区切り、 「さだめてし きそわば とぎまちなくて=定めてし 競わば 伽待ち無くて」と読む。 [意訳]天空の川では年に一度の逢瀬ですが、私達は逢う場所をこの地上に定めたならば、川で 隔たれていても急ぎのときはすぐ会えますよ。 8 万葉集10-2113「手寸十名相」 [原文]手寸十名相 殖之名知久 出見者 屋前之早芽子 咲尓家類香聞 [訓読]手隙なし 植ゑしな著(しる)く 出で見れば 屋前の初萩 咲きにけるかも  鹿持雅澄『萬葉集古義』に相聞を「したしみうた」と訓じている。「相」は「しょう」の二音 省略でもあり、「し」と読む。「したしみうた」の「たしみ」に鑑み、「十」は「ハ」を加える と「木」ができる。「十」は「木」の二画略、「十相」には「一十し=いそし=勤し」の文字が 含まれる。「手寸十名相」を「てすきなし=手隙なし」と読む。 [意訳]手隙なしで植えた甲斐があって、出て見ると、家の庭の初萩が咲いています。 9 万葉集12-3046「安□(斬の下に足の字)」 [題詞]寄物陳思 [原文]左佐浪之 波越安□仁 落小雨 間文置而 吾不念國 [訓読]楽浪の波越す〇〇(あし)に降る小雨 間も置きて我が思はなくに 〇〇は「あざ」とするものがあるが、意味不明である。 □字の用例には、万葉集13-3256に「□文吾者(しましくもあは)」とあり、「□=しましく」と 読まれる。 「安□」は、「□=しましく」の下略で、「あし」と読む。 「あし」は、具体的には、葦牙(あしかび)で葦の若芽のことである。 季節は春四月二十日ころ、葦辺に葦が芽吹くのである。穀雨の初め、葦始めて生ずの候で ある。(七十二候:葦始生)  葦が伸びるたびに節ができる。後段の文意は、葦に節ができるように、お会いしてから時間が あいていますが、葦のように悪しくは思いませんよ。 小雨(こさめ)に芽(くさめ)が掛かる。 読解に参考となる類歌がある。  万葉集4-0617 葦辺より 満ち来る潮のいや増しに 思へか君が忘れかねつる  新古今和歌集26に藤原秀能の歌がある。 夕月夜 しお満ち来らし難波江の あしの若葉を越えるしらなみ この歌は、謡曲「蘆刈」にも使われる。 10 万葉集13-3221「汗瑞能振」 [原文] 冬木成 春去来者 朝尓波 白露置 夕尓波 霞多奈妣久 汗瑞能振 樹奴礼我之多尓 鴬鳴母 [訓読]冬こもり 春さり来れば 朝には白露置き 夕には霞たなびく 風の振る 木末が下に鴬鳴くも 「汗瑞能振」は「かぜのふる」と読む。 「風が震える緑の高原」というフレーズがある。風は見えないが、草花やこず枝が揺れるのを見て、風が 吹いていることを知る。ここでは、隠れて見えない鶯が風に震えるこず枝が揺れて鳴いてゐるのが見えるよ、 というような意味か。 この訓読はちょうど、岩波本三巻の「あめのふる」「かぜのふく」(大匠記、『全注釈』『私注』、佐佐木『評釈』 古典文学大系)の一部を切り貼りしたものとなる。 11 万葉集16-3791 竹取翁 [題詞]昔有老翁 号曰竹取翁也 此翁季春之月登丘遠望 忽値煮羮之九箇女子也 百嬌無儔花容無止 于時 娘子等呼老翁嗤曰 叔父来乎 吹此燭火也 於是翁曰唯々 漸?徐行著接座上 良久娘子等皆共含咲相推 譲之曰 阿誰呼此翁哉尓乃竹取翁謝之曰 非慮之外偶逢神仙 迷惑之心無敢所禁 近狎之罪希贖以歌 即作 歌一首[并短歌] [原文]緑子之 若子蚊見庭 垂乳為 母所懐 □(衣篇に差の字)襁 平生蚊見庭 結經方衣 氷津裏丹縫服 頚著之 童子蚊見庭 結幡 袂著衣 服我矣 丹因 子等何四千庭 三名之綿 蚊黒為髪尾 信櫛持 於是蚊寸垂 取束 擧而裳纒見 解乱 童兒丹成見 羅丹津蚊經 色丹名著来 紫之 大綾之衣 墨江之 遠里小野之 真榛持 丹穂之為衣丹 狛錦 紐丹縫著 刺部重部 波累服 打十八為 麻續兒等 蟻衣之 寶之子等蚊 打栲者 經而織布 日曝之 朝手作尾 信巾裳成者之寸丹取為支屋所經 稲寸丁女蚊 妻問迹 我丹所来為 彼方之 二綾裏沓 飛鳥 飛鳥壮蚊 霖禁 縫為黒沓 刺佩而 庭立住 退莫立 禁尾迹女蚊 髣髴聞而 我丹所来為 水縹 絹帶尾 引帶成 韓帶丹取為 海神之 殿盖丹 飛翔 為軽如来 腰細丹 取餝氷 真十鏡 取雙懸而 己蚊果 還氷見乍 春避而 野邊尾廻者 面白見 我矣思經蚊 狭野津鳥 来鳴翔經 秋僻而 山邊尾徃者 名津蚊為迹 我矣思經蚊 天雲裳 行田菜引 還立 路尾所来者 打氷刺 宮尾見名 刺竹之 舎人壮裳 忍經等氷 還等氷見乍 誰子其迹哉 所思而在 如是所為故為 古部 狭々寸為我哉 端寸八為 今日八方子等丹 五十狭邇迹哉 所思而在 如是所為故為 古部之 賢人藻 後之世之 堅監将為迹 老人矣 送為車 持還来 持還来 [訓読]みどり子の 若子髪には たらちし 母に抱かえ ひむつきの はふこが髪には 木綿肩衣 ひつらに縫ひ着 頚つきの 童髪には 結ひ幡の 袖付け衣 着し我れを にほひよる 児らがよちには 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛もち ここにかき垂れ 取り束ね 上げても巻きみ 解き乱り 童になしみ さ丹つかふ 色になつかしき 紫の 大綾の衣 住吉の 遠里小野の ま榛もち にほほし衣に 高麗錦 紐に縫ひ付け 刺部重部 なみ重ね着て 打麻やし 麻績の子ら あり衣の 宝の子らが 打つたへは 綜て織る布 日ざらしの 麻手作りを 信巾裳成者之寸丹取為支屋所経 稲置娘子が 妻問ふと 我れにおこせし 彼方の 二綾裏沓 飛ぶ鳥の 明日香壮士が 長雨忌み 縫ひし黒沓 刺し履きて 庭にたたずめ 罷りな立ちと 障ふる娘子が ほの聞きて 我れにおこせし 水縹の 絹の帯を 引き帯なす 韓帯に取らせ わたつみの 殿の甍に 飛び翔る すがるのごとき 腰細に 取り飾らひ まそ鏡 取り並め掛けて 己が顔 かへらひ見つつ 春さりて 野辺を巡れば おもしろみ 我れを思へか さ野つ鳥 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば なつかしと 我れを思へか 天雲も 行きたなびく かへり立ち 道を来れば うちひさす 宮女 さす竹の 舎人壮士も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰が子そとや 思はえてある 如是所為故為 古 ささきし我れや はしきやし 今日やも子らに いさにとや 思はえてある 如是所為故為 古の 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり 「刺部重部」は「さしへかさねへ」と読む。何度も刺し重ねることか。 「信巾裳成者之寸丹取為支屋所経」は「信巾裳成│者之寸丹取為│支屋所経」と区切り、「しきもなす│はしきにとらせ」で一文節。 「しやそふ(る)」は「稲置娘子」に係る言葉とみる。 「しきもなす│はしきにとらせ」は、「敷き裳(=しとね)成す。愛きに取らせ」。 「しやそふ(る)稲置娘子」は、「し(羊蹄:ギシギシ(=野草の名)の古名)家=草(葺き)家を所有する稲置娘子」か。 「如是所為故為」は「かくなすゆえに」。 12 万葉集17-3898「歌乞」 [題詞](天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言 [兼帥如舊]上京之時{従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首) [原文]大船乃 宇倍尓之居婆 安麻久毛乃 多度伎毛思良受 歌乞和我世 [訓読]大船の上にし居れば天雲のたどき(=方便、たより、手段)も知らず歌(うた)乞ふ我が背 「歌乞」は「うたこふ=歌乞ふ」と読む。 13 名寸隅[2020/7/27] 名寸隅の地名 万葉集6-935/937 に「名寸隅乃船瀬」が現われる。 船瀬は、船息・泊・津・港・湊などと同様の施設であろうが、「名寸隅」の地名は見えない。 万葉集6-935の歌は、「名寸隅乃船瀬ゆ見ゆる淡路島」とある。 題目に「(神亀)三年丙寅秋九月十五日幸二於播磨國印南野一時笠朝巨金村作歌一首丼短歌」とあるから、 奈良の都から播磨国印南野までの道中の地名で淡路島が見える場所に位置すると思われる。  瀬戸内にある港・浜の地名を探る。
地名内容備考
播磨風土記明石浦、阿閉津、?[木編に射]津、印南浦、継潮、飾磨津、 宇頭川の泊、宇須伎津、御津、室原泊、林の潮松原弘宣99頁表10ほか。
日本書紀水児船瀬、務古水門(神功摂政紀)武庫水門(応神紀)松原弘宣98頁表9ほか。
万葉集明大門・門(254/255)、 明湖(1239)、藤井乃浦(938)、藤江乃浦(939)、名寸隅船瀬(935/937)、室乃浦(3164)、居名之湖 (1189)、武庫能浦(3578)、大和太乃濱(1067)、御立為之(178/180/181/188)、敏馬乃埼(389)三犬女乃浦(946) 見宿女乃浦(1066)、縄乃浦(354) 縄浦(357)、可古能湖(253)松原弘宣98頁表9ほか。
住吉大社記魚次(なすき)濱、阿閇津浜、阿閉魚住二邑松原弘宣98頁表9。
行基五泊播磨の?[木編に聖]生、韓、魚住、摂津の大輪田泊、河尻三善清行『意見封事十二箇条』延喜十四年(914)
魚住魚住泊(重源作善集:なすみ)、魚住船瀬(類聚三代格)、魚住庄(住吉年領紀)、いをすみ庄 (肥塚文書)、伊保角(兵庫北関入船納帳)、播磨国印南野魚住、
その他赤穂大津(東大寺文書)、韓泊(東大寺文書:加良止麻利)、大物浜(平安遺文)、務古水門(同左)、大輪田船瀬(日本後紀/三代格)、江崎[江井島] (和漢三才図会)松原弘宣98頁表9/136頁表16。ほか。
 船瀬「名寸隅」の地名は万葉集の笠朝巨金村作歌等の歌の世界以外には見えない地名である。(1) 「名寸隅」と「魚住」  『類聚三代格』天長九年(832)官符に「魚住」、貞観九年(867)官符に「明石郡魚住船瀬」が見える。  延喜十四年(914) 三善清行『意見封事十二箇条』に「魚住泊」が見える。年月未詳の住吉年領紀(続左丞抄)に 「神功皇后御宇被奉寄所々」として「魚住庄」とあり、摂津住吉社領であった。 (2)  摂播五泊については 三善清行が延喜十四年(914) に奏上した『意見封事十二箇条』 (3)に、播磨の?生、韓、 魚住、摂津の大輪田泊、河尻までの五泊(港)は、行基が一曰間の行程(航程)を測り、設置した重要な港として記 されている。  「播磨のいなみ野の魚住の泊りは、行基が「このあひだ遠し。舟とまりの便りよからす」とて造りたり。」(4) とある。  「魚住泊跡」は現在の明石市江井ヶ島港のことである。(5)    「名寸隅」とは「魚住」のことである。    「名寸」は「魚」の草体を誤って二文字で伝えたものであるという説と、「なきすみ→なすみ→うおずみ」と    地名表記の音の変化を考える説がある。(6)  『大日本地名辞書』は、「魚住うおすみ」を「初め名寸隅と曰へるを、また、魚住なすみに作り、何の世よりか其文字 により宇袁須美と呼ふことゝ為る、…」(7)とする。  「魚住船瀬は現明石市魚住町に位置し、『万葉集』にみえる「名寸隅乃船瀬」のことで、遅くとも八世紀前半には船 瀬として存在していた。…『住吉大社神代記』魚次濱は歌見(現二見町か)と大久保の間と考えられ、名寸隅は魚次・ 魚住と考えることは妥当である。」(8)  「魚住泊所を公認されたのは天平年間からであった。その以前は名寸隅と称していた。隅は海隅のことで、際限の ない海に一角に、一所の際目の所があるをいうのである。 名寸は凪で、凪たる海隅をいうたのである。魚住は名寸 隅の名が魚のナで、隅が住であるというが確かでない。」(9)というように、名寸隅は魚住であっても「名寸隅なきすみ 」から「魚住なすみ・うおすみ」の変化は理解しがたい。  同じく、『住吉大社神代記』に「魚次M(ナスキノハマ)」がある。(10)  神社の名にも「魚次神社」があり、『新抄格勅符』に「奈須岐」に作る(11)から、「魚次(なすき)」=「魚住(なすみ・うお すみ)」とすることは確信が持てない。(12)  「魚次」に似る地名に「宇須伎津(播磨風土記)」「名次神社(大日本地名辞書2)」「名次(なつぎ)山(万葉集3-279)」(13)、 現在の地名にも「魚崎(神戸市東灘区)」がある。  長坂寺の縁起に、推古天皇五年、聖徳太子が百済の王子阿佐太子が来朝し、帰国の際、明石郡魚住泊まで見送っ た(14) とあるから、天平年間以前にも、魚住泊があった可能性がある。行基は、神亀三年以前に播磨を巡行していた。(15)  先に示した誤字説、「名寸」は「魚」の草体を誤って二文字で伝えたものであるという説は、以前、ある史料で読んだ ことがあり、的を得た見解と思った。  魚の俗字は、ヨツアシの部分を大と書く。魚の上部分を「名」とし、大は「寸」と読み間違うことはあり得るし、「名寸隅」は 歌の世界でしか見えないのである。  神功皇后、聖徳太子の時代から魚住泊を経由した伝承が残る。 してみると、「名寸隅」は「魚隅」の誤字であると思われる。(16) 註 (1)藤原光俊(1203-1276)の歌に、「なきすみの船瀬を過ぎて今見れば背(そむ)きに霞む淡路島山」がある。 『宝治二年(1248)百首』『夫木和歌抄』に収載される。 (2)『兵庫県の地名』2、平凡社、122頁。 (3)竹内利三校注「意見十二箇条」『古代政治社会思想』日本思想大系、岩波書店、1972年。/ 群書類従第27輯巻474、129-130頁。/ 第十二条、重ねて請ふらくは、播磨国魚住泊を修復すべき事として、 「一、重請復播磨国魚住泊一事  右臣伏見、山陽西海南海三道、舟船海行之程、自?[木編に聖]生泊 韓泊一日行、自韓泊魚住泊一日行、自魚住泊一至大輪田泊一日行、自大輪田泊河尻一日行。 此皆行基菩薩計程所建置也。延喜十四年四月廿八日 従四位上行式部大輔臣三善清行上」 (『本朝文粋』巻第二、新日本古典文学大系27、1992年、岩波書店) (5)『明石市史』60頁。/『稲美町史』110頁。/『えいがしま歴史まちあるき』、/ 『和漢三才図会』「江崎[江井島] 」(平凡社東洋文庫505)/ (6)明石市魚住にある住吉神社案内板の解説 (7) 吉田東伍『大日本地名辞書』、冨山房、19年、851頁。 (8)松原弘宣『古代国家と瀬戸内海交通』吉川弘文館、2004年、101頁。・146頁。 (9)土口泰行編『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年、143頁。 (10)「魚次M:他見なし。四至より推せば魚住なるべし」(『住吉大社神代記』刊行会編、1951年51頁下注5。) (11)『大日本地名辞書』第二巻、冨山房、1970年595頁。 (12)万葉集の「名寸隅」は古代には魚住を「名隅」「魚次(なすき)」と呼んでいたことからおそらく「魚掬き」 つまり魚を掬うの意味であろう。(『えいがしま歴史まちあるき』江井ケ島文化遺産冊子作成委員会、年、8頁。) (13)名次山は、広田大社の西の岡を云ふ。西宮市名次町の丘陵(『万葉集』1、岩波書店、地名一覧30頁。) (14) 土口泰行152頁。 (15)『峯相記』「印南郡法花山、神亀三年十月、行基僧正仙跡ヲ尋ネテ参詣ス。」(『大日本仏教全書』117、276頁。) 神亀二年には、聖武天皇の勅により行基が清水寺(加東市平井)の大講堂を建立した伝承がある。(『兵庫県の歴史散歩』 下、山川出版社、2006年、62頁。) (16)「魚住の地名は、『万葉集』に『名寸隅の船瀬』とでてきますが、これは『魚隅』の誤記とみてよいでしょう。」 (『明石の古代』(2013年11月、発掘された明石の歴史展実行委員会発行)同書8ページ) [参考] 松原弘宣『古代国家と瀬戸内海交通』吉川弘文館、2004年。 土口泰行編『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年。 吉田東伍『大日本地名辞書』第三巻「播磨(兵庫)印南郡」冨山房、1970年。 『地名大辞典』「兵庫県の地名」T・U、平凡社、1999年。 『えいがしま歴史まちあるき』江井ヶ島文化遺産冊子作成委員会編、2018年。
万葉集読解3(2022/8/31)
14 万葉集2-145「鳥翔成」 [題詞]山上臣憶良追和歌一首 [原文]鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武 [左注]右件歌等、雖不挽柩之時所作、准擬歌意 故以載于挽歌類焉。 [訓読]鳥めぐり あり通ひつつ見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ  「鳥翔成」は「あまがけり」と読むものがある。「天駆り」であろう。 小学館万葉集第一巻は「鳥翔成」を「翼なす」と読む。「…死んだ有間皇子の霊魂が鳥のように空中を飛翔することを言うのであろう。」 とある。 岩波本も賀茂真淵『万葉考』の「つばさなす」説を引いて「鳥翔」は「ツバサ」と訓むのが最も穏当であるとする。意訳は、「鳥のように 御霊は空を行き来しながら、見ていらしゃるだろうが、人には分からないだけで、松は知っているだろう」とする。 鳥を霊と捉える見方は肯首できる。しかしながら、賀茂真淵翁の訓ずる「つばさ」を主役とするのではなく、「鳥(御霊)」を主役としたい。  「翔」は、@かける(かく)。とびめぐる。「飛翔」A略 Bめぐる(旋)。ふりかえる。などと注釈されている。〔角川新字源〕  左注に柩を挽く時に作りし所にあらずと説明されているが、鳥の眼から俯瞰すれば、後世の熊野路の蟻通いのように、多くの人々が蟻の ように動く様が見え、鳥(とり)と蟻(あり)を縁語として、「鳥翔成」は、「とりめぐり」または「とりめぐる」と訓じてはどうか。  蛇足ながら、人が知らなくて、松が知っていることは、「大津皇子が帰路に結び松を見たかどうか。」であろうと考える。 15 万葉集2-156「已具耳矣自得見監乍共」 [題詞]明日香清御原宮御宇天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] / 十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首 [原文]三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多 [訓読]みもろの神の 神(魂)過ぎいくの身を得て 見監(みも)りつつとも 寝ねぬ夜ぞ多き [意訳]十市皇女はみもろの神に守られ魂が去った身体になられたので喪が明けるまで見守っていますが、私は眠れない夜が多く続いています。 16 万葉集2-160「智男雲」 [題詞]一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首 [原文]燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八面 智男雲 [訓読]燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずやも 物知り無くも  角川新字源によると、「智」の意味は、@ちえ。頭のはたらき。物事を知り分ける能力。「才智」Aさとい。かしこい。Bものしり。知恵の ある人。かしこいひと。Cしる。さとる。Dはかりごと。たくらみ。「智謀」とある。 結句七音とすると、「ものしり」を選択できる。  四句「澄」字は、岩波本は「燈」に改める。「登」を用いることも可能とする。 17 万葉集3-249「舟公宣奴嶋尓」 [題詞]柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首 [原文]三津埼 浪矣恐 隠江乃 舟公宣奴嶋尓 [訓読]御津の崎波を畏み隠江の舟こぎぬ嶋に(珠藻刈る)  本歌には誤字・脱漏の可能性がある。 「舟公宣奴嶋尓」の「宣」は「宜」の誤りではないか。 そして、最終句が欠落、例えば3-250の頭句「珠藻刈る」等が脱漏しているのでないかと考える。 2-23珠藻刈ます、2-24玉藻苅食む、2-41玉藻刈らむ、2-121玉藻苅てな、 18 万葉集13-3223「日香」 [原文]霹靂之 日香天之 九月乃 鍾礼乃落者 鴈音文 未来鳴 甘南備乃 清三田屋乃 垣津田乃 池之堤之 百不足 五十槻枝丹 水枝指 秋赤葉 真割持 小鈴文由良尓 手弱女尓 吾者有友 引攀而 峯文十遠仁 たふ(手偏に求の字)手折 吾者持而徃 公之頭刺荷 [訓読]かむとけ(かみとけ)の 光れる空の 九月の しぐれの降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ …(後略)  岩波本万葉集は、「日香天之」を「阿香天之」と正し、「はたたく空の」と訓ずる。 「日香天」は、「日香」に送り仮名を補足すれば、「光れる天(空)」となる。  霹靂(かむとけ)は、落雷のことである。[神明解古語辞典:かみとけ神解け] 19 万葉集14-3419「奈可中次下」 [原文]伊可保世欲 奈可中次下 於毛比度路 久麻許曽之都等 和須礼西奈布母 [訓読]伊香保背よ なかなかつぐ(告げ)しも 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも [意訳] 遠方に旅立つ伊香保の背よ 心の内をなかなか告げてくれませんが、私の思いは、神に 無事を祈りながら帰りをお待ちしていますので、忘れないでくださいね。   「奈可中次下」は「なかなかつぐ(つげ)しも=なかなか告げしも」と読む。 「くましね」は、「しね」は稲の意、神仏にささげる白米。洗い米。とある。(新明解国語辞典) それから類推すると、「くま」は「神」の意味になり、「こそ」は「社」か。 「くまこそしつ」とは、神あるいは神社に祈ることと考える。 20 万葉集15-3754「多我子尓毛」 [題詞](中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌) [原文]過所奈之尓 世伎等婢古由流 保等登藝須 多我子尓毛 夜麻受可欲波牟 [訓読]過所なしに 関飛び越ゆる霍公鳥 多きが峯(ね)にも 止まず通はむ
[参考] 塙書房『万葉集』補訂版本文編、平成10年。 小学館『万葉集』全4巻 岩波書房『万葉集』全4巻 三省堂『古語辞典』第2版、1979年 角川書店『角川新字源』1968年  
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