行基と摂播五泊


目次
1 摂播五泊について (1)摂播五泊の比定 (2)五泊以東
2 行基五泊制定の否定論 (1)喜田貞吉の論 (2)千田稔の論 (3)松原弘宣の論
3 五泊の位置づけ (1)瀬戸内航路 (2)三国川開削 (3)猪名川河口の「居名の湊」 (4)河尻と楊津院
4 行基年譜と意見封事   (1)「行基年譜」の信頼性 (2)「意見封事」の信憑性 (3) 「意見封事」の背景
5 行基の活動 (1)摂播五泊の設置時期 (2)活動圏の広がり 
6 行基と官との関わり (1)泊の設置及び管理 (2)行程を決める官の役割 (3)行基と官との関係

はじめに
摂播五泊については 三善清行が延喜十四年(914) に奏上した『意見封事十二箇条(以下『意 見封事』とする。)(1)』に、播磨の室生(室の元字は「木篇に聖」であるが、以下「室生」とする。)、 韓、魚住、摂津の大輪田泊、河尻までの五泊(港)は、行基が一曰間の行程(航程)を測り、築造し たことが記されている。  延喜十四年(914)に書かれた三善清行の『意見封事』における行基建置の五泊はあまり重要視され ていない。境野黄洋は、五泊が行基の事蹟に含まれないことを「諸書之を除いて居るのは、如何な る理由であるか知らない(2)」とする。これは何故であろうかと自分なりに考えてみると、その大き な理由の一つは、『行基年譜』の記事と異なることに起因するものであろうか。  『行基年譜』には摂津国の大輪田船息と和泉国の神前船息の二箇所しか記載されていないため、 それと異なる「意見十二箇条」の行基の摂播五泊が無視されているものと思われる。  長山泰孝は、「『行基年譜』に「大輪田舩息 在摂津国兎原郡宇治」とあるが、他の泊について記 述はみえず、行基が五泊すべてに関係したかは明らかでない。(3)」とする。  また、千田稔は、「『意見封事十二箇条』には、「行基菩薩が建置する」と記されている。しかし大 輪田泊以外については『年譜』にその名をあげないので、実際行基によって五泊がつくられたかど うかは疑わしい。『意見封事十二箇条』によると、五泊は船によるほぼ一日行程の間隔をもって設置 されたもので、瀬戸内の東部を航海する船にとって重要な停泊地であった。五泊の一つ大輪田泊は、 少なくとも行基によって設けられたことが『年譜』から知られるので、五泊の建造に すべて行基が 関わったという伝承が生まれたのかもしれない。(4)」とする。  次に、『行基年譜』は、行基の活動が畿内に限られることから、行基は畿内から出なかったものと する論がある(5)。  更には、五泊の行程を定め、泊を築造することは、むしろ官の役割であって、僧の活動としては、 手に余ることと判断されたものではないかと憶測する。  ここでは、摂播五泊が行基の事蹟に挙げられるべきものかを検証していく。併せて、五泊の行程 を定め、泊を築造・管理することが官の役割であると考えることは、僧である行基の事蹟とは異な る部分があり、その場合は行基と官の関係を検討しなければならない課題となろう。
1 摂播五泊について (1)摂播五泊の比定 下表1のとおり比定されている。 表1 五泊の比定
論者室生魚住大輪田河尻
松原源太郎室生(室津)加古川のあたり大久保兵庫あたり淀川河尻
千田 稔揖保郡御津町室津姫路市的形明石市江井島旧湊川河口部尼崎市今福
松原弘宣御津町室津姫路市的形魚住町神戸市新開地通尼崎市今福
加古川市史揖保郡御津町
室津
姫路市的形明石市大久保町江井島神戸市兵庫尼崎市杭瀬
岩波思想体系揖保郡御津町
室津
加古川市福泊
の説あり
明石市魚住現在の神戸港大阪市淀川区
大日本地名辞書など大日本地名辞書
福泊の旧名なるべし
吉田靖雄
兵庫区和田崎町付近
西本昌弘
尼崎市神崎・西川付近
長山泰孝千田稔と同じ姫路市的形福泊千田稔と同じ和田岬より西方難波の河尻
その他室原泊(風土記)室之浦
(万3164)
加良止麻利山
(法隆寺資材帳)
圓方之湊
(万1162)
名寸隅船瀬
(万935)
魚次浜(住吉記)
大和田の濱
(万1067)大輪田船息
(『行基年譜』)
居名イナの湊(万1189)
注)その他欄の(万3164)は、万葉集の三一六四番である。巻番号は省略した。
○室生(むろふ)の泊  室生泊は 兵庫県揖保郡御津町室津に所在する室津港に比定されており、異論はない。  室津港は、『万葉集』では、「室之浦」とされている。『播磨国風土記』では「室原津」とされ、「こ の泊、風を防ぐこと、室のごとし」と記されているように、古くから自然の良港として知られてい た。中世の『高倉院厳嶋御幸記』や『法然上人絵伝』などにも見られる。(6) 図1 室津絵図(室津民俗館発行パンフレットより[略]) ○ 韓泊 比定地は的形とする説と、福泊とする両説がある。(7)   現在の両地名は、的形川流域の南北2キロの近接の地であり、福泊は、姫路市になる。  大日本地名辞書は、「福泊の旧名なるべし、此地々形江井島の魚住泊と相類似し、且福泊築島の事 峯相記に見え、旧史に?生魚住の間と為すより推測するも、状勢相合ふ。」とする。(8)  天平十九年(七四七)の『法隆寺伽藍縁起丼流記資財帳』に、播磨国印南郡錺磨郡内嶋林十六地 の一つに「加良止麻利山」とある。これは韓泊山であり、的形字麓にある行基が建立したという伝 承をもつ海嶽(岳)寺のうら奥山の泊り山という説がある。(9)   的形川右岸の海へ延びた岬の先端は 的形字行基鼻という字名をもつ。海嶽寺の北を流れる的形川 の北岸にある地という集落には、このあたりで行基が製塩の方法を教えたという口碑が残されてい る。的形町的形が行基関係の事物や伝承を多く残している。福泊村の福円寺は行基の開基という。 ○魚住泊 魚住泊は、明石市大久保町江井島にある江井島港あたりとされている。神亀三年笠金村 の作詞の題がある。『万葉集』935にみえる「名寸隅乃船瀬」のことで遅くとも八世紀前半には船瀬 として存在していたとされる。  江井島港の先端に、行基築造の伝承をもつ突堤「しようにんさんのはと」が存在した。  明石市江井ヶ崎にある長楽寺、加古川市鶴林寺に行基像あり。  鎌倉時代の重源『作善集』に「魚住泊、彼の島は昔行基菩薩人を助けんがためにこの泊を築く。… 仍って菩薩の聖跡を遂って旧儀に復せんと欲ふ。(10)」とある。  なお、名寸隅船瀬という名は、万葉集(6-935・937)だけにしか見えない。…落合重信氏は、 名寸隅は魚・隅の誤写であろうとの説を立てている。(雑誌「六甲」第1104号「名寸隅は魚隅(住) の誤写か」)(11) ○大輪田泊 『万葉集』1067「神世より千船の湊つる大和太の濱」とある。  表2のとおり、『行基年譜』天平十三年記は、「大輪田船息」とある。神戸市兵庫区の湊川の河口 付近に比定される。長山泰孝は、「湊川下流に位置し、両方から突き出た和田岬によって潮流と風 から守られ、また難波の河尻から一日航程の碇泊地として重んじられた。(12)」 とする。 ○河尻 河尻が三国川(現神崎川)の下流と淀川河口に分かれているが、三善清行の時代の河尻は、  淀川河口でなく、三国川の下流の河尻と思われる。しかしながら、河尻は、「神崎川河口部にあり、 延暦四年(785)に淀川と三国川(神崎川)をつなぐ水路が開かれたことから都と西国を結ぶ要津とし て発達した。…当地は河川交通と海上交通の結節地であった。(13)」とされ、後述するように長岡遷 都後の水路開設は、行基の事蹟としては疑問を呈される。  松原弘宣は、「河尻の場所については、「高倉院厳島御幸記」の「さるの時に川じりのてら江とい うところにつかせ給ふ」との記事や、「山塊記」の「今日、御河尻寺所に着く可し、前大納言邦綱卿 山庄は件の所に在り」との記事が参考になる。吉井良秀氏の指摘によると、神埼川と左門殿川との 分岐点付近に、無数の石が沈没していたことと、その地点を「テンショ」・「ゴジョウダイ」と称し ていることより、その場所である尼崎市今福が河尻であったと考えられている。(14)」 とするよう に、尼崎市今福付近に比定されているが、西本昌弘は、今福の北、神崎川と猪名川の分岐点・西川 を比定する。 (2)五泊以東  古代の船便は、泊まり泊まりをつないでいく沿岸航法をとったであろう。(15) すると、行基が五泊のみを限定的に造ったとするのではなく、瀬戸内航路に位置する五泊を含めた 泊まりを建置したと考えるべきかもしれない。  河尻以東に難波の船津がある。『行基年譜』には記されないが、『霊異記』中2・30、『今昔物語集』 11-2・7−37に行基が難波に船津を造ることが記されている。『霊異記』は、長屋王を長屋親王と記 していたが、その銘がある木簡が発見されたこと、また、道照の弟子知調の名を「智調」とする木 簡が出土した(16)ことにより、『霊異記』は信頼のある部分を含んでいるから、行基が五泊以東の難 波泊を築造乃至は改修したことが、想定されるが、『行基年譜』は触れていない。 表2 『行基年譜』十三年記
舩息二所
  大輪田舩息 在摂津国兎原郡宇治
  神前舩息 在和泉国日根郡日根里、近木郷内申候
 反面、『行基年譜』には、舩息は二箇所あり、大輪田舩息のほかに、和泉国日根郡日根里近木郷に 神前舩息があるが、行基の活動範囲からは少し離れた場所であり、存在が確認されていないので『行 基年譜』は記載があるからといって直ちに信頼できない例であると思われる。  
2 行基五泊制定の否定論 (1)喜田貞吉の論  古くは、喜田貞吉が、五泊の制定は行基の事業にあらずとして自説を展開する。「…果してこれら の五泊の制が、そのいうごとく天平年間僧行基によりて設定せられたるものなりや否やの点にあり。 行基が布教のかたわら種々の土木工事を興し、世人の便益を謀りたることの少からざるは疑いなか るべし。したがってこれらの諸碇泊場が、行基によりて修築せられたりとのことは必ずしも否定す るの要なかるべし。しかれどもここに川尻をもって出発点とする平安朝時代の五泊の制が、行基の 時に成れりや否やについては疑いなきにあらざるなり。…川尻が特に重要の津泊となりしものは、 三国川が淀川の本流となり、舟行常にこれによるに至りし後のことならざるべからず。しかるに淀 川が三国川に通ずるに至りしは、延暦四年[785年]の工事以後のことなり。…川尻をもって五泊 の起点とし、内海航行の要津となすことは少くとも延暦四年以後のことならざるべからず。余輩が 五泊をもって天平年間行基制定の津泊なりとする清行『意見封事』の説を疑うの理由ここにあり。(17)」 として、行基の定め置いた五泊を、平安時代の制度の問題として否定している。  しかしながら、三善清行は、行基が建置した泊を?生から順に河尻まで列挙するも、数を五泊と限 定しているのではなく、五泊の基点を川尻ともしていないのである。そして、喜田貞吉は、川尻を 起点とする五泊を平安時代の制度であるとするが、これは制度の問題ではなく、実態としての五 泊が存在するか否かの問題である。三善清行が、旧記によって行基が奈良時代に定め置かれた 五泊のうち、魚住泊が修理されず放置されていることを指摘しているという大前提が欠如している。 (2)千田稔の論  はじめに述べたとおり、『行基年譜』と異なることを論ずるもの等がある。そして、千田稔の否定 論は、『行基年譜』と『意見封事』の史料の先後から疑問がある。  三善清行の「意見封事」は、延喜十四年(914) に奏上したものであり、『行基年譜』は、それより 後の安元元年(1175)に編纂されたものである。書かれた史料としては、『行基年譜』より、三善清行 の「意見封事」の方が約二百六十年以上も古いのである。後に書かれた史料に記されていないこと をもって、先の史料に記されたことを理由無く否定することは合理的でないと考える。  泉高父より少し遅れる東大寺重源(1121-1206)は、『作善集』の中で、行基の遺跡に触れ(18)、 魚住泊、大輪田泊、狭山池等の改修を行う。  重源の修築申請を許可する建久七年(1196)6月3日の『太政官(案)』には「魚住泊者、天平之昔 行基菩薩所建立也」(『鎌倉遺文』847号)とある。  ついで、伏見天皇正応2年(1289)には、性海上人が行基五泊の整備が必要と奏上して作成された 宣旨案に、「摂津・播磨両州之際、行基菩薩逢泊之疇始、計一日之行程、定置五ケ之要所、室、韓、 魚住、輪田、尼崎等是也…(19)」とあり、三善清行の「意見封事」を引き継いでいるが、五泊の川尻 は尼崎とされている。  『行基年譜』の作者泉高父は、『意見封事』の内容を知らなかったか、或は採用しなかった可能性 がある。和泉高父が行基の事蹟として難波泊を記さないのも不審である。 (3)松原弘宣の論  松原弘宣は、「大輪田船瀬を除くと、五泊と行基集団との関連を確認することはできない。ただし、 一日ごとの航行地点に泊を設置して航路を整備したのが行基集団に始まる可能性は高い。(20)」と「行 基集団」を名指すがその理由は示されていない。もちろん、五泊の整備は、行基ひとりでなせる業 ではないから「行基集団に始まる」とするのは分からないでもないが、行基集団の性格が明確でな いまま、単に「行基集団に始まる」とするのは安易過ぎるのではないだろうか。三善清行は、「行基 が建置」とするだけで、行基集団に触れないので、松原弘宣が展開する明確な論拠にはならないと 思われる。
3 五泊の位置づけ (1)瀬戸内航路  『延喜式』(主税上)では、大宰府海路は、博多津から難波津までと規定されているが(21)、奈良時 代の瀬戸内航路は難波を基点としている。後述するとおり、その航路の途中に現尼崎市内に比定さ れる港が延暦9年以前に存在しなかったわけではない。  『日本書紀』にも記されるとおり、奈良時代以前においても、瀬戸内航路は機能しており、難波 ―大宰府―朝鮮半島を経由して遣隋使、遣唐使を派遣している。  『続日本紀』に「天平五年夏四月己亥(3日)遣唐の四船、難波津より進発す。」とあるから、奈 良時代は、川尻(尼崎)が出発点ではなく、難波津が機能していた。      図2 五泊の位置 (加古川市史第一巻266頁。[略])  江戸時代の地図に、瀬戸内海四国図がある。(22)   安芸の宮島から、大阪までの航路が記される。宮島から室津25里、高砂30里、明石35里、兵 庫40里、[尼崎:筆者挿入]、大阪50里と航路と距離を示す。これは、兵庫40里、大阪50里の間に、 尼崎を入れると、三善清行の「意見封事」の五泊とおおむね一致する。  また、正徳五年頃(1715)成立した『和漢三才図絵』(23)の西国海路には、大坂より西国海路として 詳しく「摂州大坂より〔三里で〕尼崎〔今津鳴尾。二里で〕西宮〔御影・大石。五里で〕兵庫〔三 里で〕須磨〔一里で〕島崎〔二里で〕播州明石〔鳩崎沖に窟がある。二里で〕江崎(江井島)〔三里 で〕高砂〔福泊。三里で] 亀島〔二里で〕 鞍掛〔飾磨・網干。五里で〕 室津[三里で〕…]とあり、  大坂より西国大湊に至る里程大略として、「摂州兵庫へ〔十里〕 播磨明石へ〔十六里] 姫路〔二 十四里〕 室津[三十一里〕…」とあるから、行基より時代を経ても同様に利用されてきた航路であ ろう。  (2)三国川開削  上遠野浩一は、五泊の伝承について「行基が三国川−淀川舟運の先鞭をつけ、神崎川から淀川(神 崎川)舟運を開いたという確かな史料は見いだしえないが、吹田堀川が上記位置に比定できるなら、 この伝承は一つの裏づけとなる。…清行は、「旧記」を参照しているのであるから、あながち作り話 とは思われない。…特に、吹田堀川コースについては、政府は延暦四(785)年以降の三国川航路の先 行形態として把握したのではないか。(24)」と行基の吹田 [行基年譜は次田] 堀川を比定する中で、 行基の先見性を示唆する見方を披露している。  同じく、舟ケ崎正孝は、行基の五泊の意義を「延暦4年(785)に三国川を開通した意図が明らかに なる。この川筋みちと海筋みちを河尻で接続し、新京と山陽・南海・西海三道諸国との貫通水路を 形成する、というのがそれである(25)」とするから、行基が瀬戸内海航路の結節点に当たる場所であ る河尻を位置付けたことは、船舶を利用する大量輸送の交通網整備に先鞭をつけたことになる。 (3)猪名川河口の「居名の湊」  三国川河口の河尻は、確かに平安時代の三国川開削後に発展した泊であるが、それ以前に泊がな かったわけではない。猪名川河口の「居名の湊」は、藤原房前作とされる万葉集7-1189に、「居名 の湖尓舟泊左右手」がみえ、奈良時代の大宰府と都を繋ぐ海の官道の中継地の一つとなった港であ る。猪名川右岸の伊丹の地名は、古代に川西市栄根まで細い入海となっており、糸海が詰まったと いう説がある。(26) 猪名川河口の入海に居名湊があったと思われる。  『加古川市史』は、河尻泊と稲名湊は同一とするが、(27) 厳密にいうならば、行基の置いた河尻 と三善清行がいう三国川開削後の河尻泊は、全く同じというのでなく、猪名川の下流域において、 場所を移しながら利用された泊と考えられる。(28) (4)河尻と楊津院  西本昌弘は、「三善清行の「意見十二箇条」の記載は、信頼すべきものであるとし、五泊のうちの 河尻は神崎・西川付近であった可能性が高いとし、楊津院は尼崎市域に存在した河尻に設けられた 院であった(29)」と結論することは、大輪田泊と併せて船息院を建立していることから賛同できる。
4『行基年譜』と『意見封事』 (1)『行基年譜』の信頼性  行基の事蹟については、『行基年譜』に詳細に記されている。特に、行基の社会活動をまとめた「天 平十三年記」が公的な史料として、信憑性の高いものとされる。(30)  更には、『行基年譜』の行基の事蹟は畿内に限られるから、行基の畿外での活動は否定され、行基 が畿内以外には行っていないことを主張する論がある。(31)   しかしながら、『行基年譜』に記されていないから、その事実はなかったと認識することは正しい 判断とは思えない。『行基年譜』に記される行基の功績は和泉出身者とされる泉高父が収集可能であ った畿内を中心とした地域に関するものとして、収集・認識能力に限界があったものと考える。(32)  信頼のおける史料とされる「天平十三年記」には、行基の全ての事業が網羅されているのではな く、例えば、行基の功績に「行基四十九院」が挙げられるが、同記の中に寺院はひとつも挙げられ ていないのである。  また、「天平十三年記」における社会事業の施設は、任意に選択・配置されており(後の改変かも しれない)、川辺郡に所在する長江池溝を摂津国西城郡とする(33)など施設を任意の場所に移動させ ている例など、『行基年譜』は記載の誤りを多く指摘することができるので、「天平十三年記」の部 分といえども『行基年譜』は全面的に信頼がおける資料ではない。  行基の畿外の活動については、『続日本紀』天平勝宝元年二月丁酉(二日)条にも「留止る処には皆 道場を建つ。その畿内には凡そ四十九処、諸道にも亦往々に在り」とある。  井上正は、「行基はほとんど畿内を出ることはなかったとする説は、伝承と実物史料とを完全に棄 て去った、きわめて不充分な説といわざるを得ない。(34)」とするのは同感できるところである。 (2)「意見封事」の信憑性  作者三善清行については、所 功が詳しく人物像を描きだしている。(35) まず、作者が実在する人物であり、しかも文人として、また官人として著名な人物であり、『意見封 事』の上奏が事実として確認できる。意見を上奏した当時、三善清行は六十八歳であり、「従四位上 行式部大輔臣」という重い身分を持つ官人であった。簡単に、三善清行の経歴をみる。  寛平年間に備中守から帰京すると、昌泰3年に文章博士、その後、大学頭、式部少輔の三儒職を 兼任し、最終的には、従四位上参議、宮内卿になった官人である。経史、詩文その他諸道に優れた 文人でもある。『善家秘記』等著書多数あり。延喜十八年(918)七十二歳で没した。そのような人物 が、死ぬことになる四年前の六十八歳のときに、天皇へ上奏した「意見封事」に事実でないこと、 また、偽りであることを記載するとは考えられないことである。文章博士という立場からは、諸書 に触れることが可能であったであろう。 表3 三善清行の経歴(847-918)
年月内容
寛平年間備中守
昌泰3年(900文章博士に任ず。
昌泰4年(901)大学頭を兼ぬ。2月22日「紀伝(革命)勘文」上申。
延喜元年(901) 7月15日改元成る。この年意見封事上奏(魚住泊修復等)。
延喜3年(903)式部少輔を兼ぬ。(三職兼任)
延喜5年(905)1月11日式部少輔より権大輔となる。兼備中守
同8月延喜格式の編纂員を命じられる。
同14年2月意見封事の徴召の詔
同14年4月式部大輔に任ず。
同4月29日意見封事上奏
同15年正月7日従四位上に叙す
同17年正月29日参議に任ず
同5月20日宮内卿を兼ぬ
同18年(918)播磨守任官(権守) 卒
 また、所 功は、三善清行の人物像として、「『十訓抄』中第七、『今昔物語』巻24の第25話、『江 談抄』などの説話から、「延喜当時の人物としては、むしろ清行こそ合理性を重んずる人であったと いえそうである。(36)」とする人物像からも、決して行基の功績を過大評価したのではなく、三善清 行が事実と信じうる何らかの史料に基づいたものと考える。三善清行は、「意見封事」の第十一条で、 諸国僧徒の濫悪を禁ずべきことをあげているので、行基ら僧侶そのものを褒めているのではなく、 行基の行為を表に出しながら、自分の主張を述べたものと思われる。  第二番目に、「意見封事」の史料としての性格である。この『本朝文粋』に記される「意見封事」 は、延喜十四年二月に醍醐天皇に上奏されたものである。「意見封事」について、公式令第六五の規 定は、官人の意見は封して上げられ、少納言が開看せずに奏聞するものとされている。(37)   天皇という最高権力者に奏上する「意見封事」に、事実と異なる内容をしたためる上奏は有り得 ないと考えるのが常識的な理解であろう。  三善清行は、なぜ行基の名を著したのか。現時点で、三善清行と行基の利害及び人的な関係は窺 い知ることができないが、行基を称賛する意図もあったのではないか。  三善清行が「臣伏して旧記を勘ふるに、この泊は天平年中に建立せるところなり。…(38)」と、旧 記に拠り、行基の五泊の修復の経過を記し、播磨、備前の国の正税を充て修復する提言は、行基の 名を出すことによって三善清行が利益を受ける問題ではないから、行基が五泊の行程を測り、泊を 築造した旧記の存在に基づく「意見封事」は信じられるものではないだろうか。ましてや、延喜元 年に上奏した意見封事の再度の上奏である。そして、三善清行は、昌泰四年(901年)に「紀伝勘文」 を上書、改元を主張し、この建議により「延喜」と改元されたのである。(39) (3) 「意見封事」の背景  『三善清行』を著した、所 功は、「…清行の『意見十二箇条』を内容的に三分し、…その全体的な 特色は、次の二点に要約できると思う。?問題の素材は、ほとんど三十年余の中級官人としての生 活体験(特に寛平年間の備中赴任と延喜初年の文人活動)、?従って、主張の立場も、国衙「官長」 を擁護し、文人官吏の不満を代弁し、上流貴族の奢侈を批判することに意が注がれている。(40)」と する。第十二条そのものについては、「…第十二条は、山陽沿いの五泊のうち、政府が大輪田泊にの み力を入れて魚住泊を長らく放っておいたために、毎年漂没事故が起こり、官物の損失も巨万にの ぼっている。よって、直ちに播磨・備前両国の正税を充て、速かに修復すべきことを要求したもの である。しかも清行は、「すでに「延喜元年に献ぜし所の意見」のなかで これと同じ趣旨を詳しく 提案したことがあるという。他の箇条に較べて問題が地域的すぎるにも拘わらず、これを二度まで も採り上げているのは、一見不均衡である。しかし、おそらく備中への往還にこの魚住泊を通過し て、自ら身に危険を感じたであろう清行にとっては、その修復問題も看過しえない関心事だったの であろう。(41)」とするように、自ら、備中守として赴任した実体験に基づき意見具申をしたとの考 えを示しているので、故意に行基の功績を強調する目的があったものではなく、五泊は、清行が読 み得ることができた旧記に基づき行基が建置したことを述べたものと思われる。
5 行基の活動 (1)摂播五泊の設置時期  行基が摂播五泊の行程を定めた時期は、何時であろうか。『明石市史』は、「韓泊や大輪田泊は天 平十八(746)年には、すでに存在していたと考えられる。江井島長楽寺の寺伝によると、行基が 魚住の泊を開くために祈ったのを天平十六(七四四)年六月初の丑の日としているが、これより先、 聖武天皇が邑美頓宮に行幸せられた神亀三(726)年には、すでにできていたと考えられる。(42)」 とする。この神亀三年という時期は、聖武天皇が即位した二年後である。また、聖武天皇は、難波 に最も関係が深い天皇として、『続日本紀』に多くの難波行幸の記載がされている。 畑井出は、「難波宮の整備と西海航路の整備は一体的に考えても良いことであろう。(43)」とされ ている。  また、『続日本紀』神亀三年(726)年八月三十日条の太政官処分によると、大宰府ならびに西海道 諸国の六位以下の新任国司は、便に従って船を利用すべきこととされた。それ以外の一般官人の往 来にも船が利用されたようである。(44)  この頃には、難波から西海道に至る海路が設けられていたのである。  『行基年譜』に記されている摂津の大輪田泊だけが行基によって、単独で造られたとするより摂 播五泊がひとつの計画の下に造られたものの一部とするほうが、当時の政策に合致するように思わ れる。  そして、神亀三年十月、聖武天皇が播磨行幸時、行基は印南郡法花山に参拝(『峯相記』)しており、 行基は聖武天皇に随行したか、先行役を務めた可能性がある。 (2)活動圏の広がり  表4 のとおり、三善清行の「意見封事」が記しただけでなく、播磨の韓泊や魚住泊及び摂播地 方、さらに以西についても行基に係わる伝承が数多く残されている。 九州にも伝承は多い。(45)  特に、注目すべきことは、瀬戸内の神島自性院、生口島御寺光明三昧院と長崎県雲仙温泉山の伝 承である。また、播磨、瀬戸内の神島が養老年間の伝承であるが、長崎県雲仙温泉山開山伝承は大 宝元年(701)と最も古い時代のものである。つまり、行基の足跡は九州から始まっているといえる。  元亨元年(1321)に成立した「覚源禅師年譜略」[続群類236]は、「行基菩薩建立之堂」の所在が挿 入されているが、行基との関係は不明であるが、覚源の故郷であるところの記事は、肥前国での行 基の足跡を示しているものと思われる。行基菩薩「縁の寺院」の中では、大宰府、豊前国分寺や和 銅年間建立の佐賀県内の寺院や佐賀県三養基郡基山町の大興善寺が注目される。  佐賀県神埼市護国寺(地蔵院)、大興善寺は、大宰府防衛の基肄城の南西に位置する寺院である。 もともと、寺院は官庁を意味する建物であるから、官に関わる護国の建物でもあったであろう。  行基が畿内から出たことはないとされるが、僧侶が国内を旅行することが記録に残る。(46) 天平十年十一月三日、僧法義と童子三人が伝使として、太宰府から京に向かう。法義は、行基の 弟子にも同名の法義がおり、鑑真を迎えた法義、十禅師の法義、いずれも同一人ではないか。  また、同年十二月一日、国師僧算泰ら八名が下伝使として、筑紫国に向かうことが記される。 このように僧侶、沙弥らが京−九州を旅行する事例があることは、行基の身分に関わらず、行基 の畿内以外への旅行を否定することにはならない。 表4  行基伝承地
史料内容備考
探訪古代の道第三巻・菅野文則 [行基開基伝承寺院]姫路市随願寺・明石市観音寺・加古川市法蔵寺、加西市酒見寺、稲美町円光寺、御津町円融寺、摂保川町宝積寺、赤穂郡白水寺
播磨第35号・松原源太郎 赤穂郡妙見寺・常楽寺・長楽寺・?眼寺・正福寺・富満寺満勝院・白水寺・西蓮寺・松雲寺・宗慶寺・験行寺、摂保郡円融寺・小宅寺・願成寺・宝積寺[赤穂郡誌・摂保郡誌]
行基伝承を歩く・根本誠二行基像:赤穂市長楽寺・加古川市鶴林寺・諫早市和銅寺[長崎県郷土誌] 肥前七観音・肥前川副七薬師[東川副村誌]・雲仙温泉山・周防国分寺[防府史料]伊佐早・和銅寺[和銅寺記、和銅元年開山] 肥前七観音[肥前奇跡集]
福橋茂樹西代(斎田)・蓮華寺(船息尼院の跡)
自性院由来記養老年、岡山市笠岡神島自性院行基来訪神島天平八年遣新羅使停泊地
生口島御寺光明三昧院由来安芸国瀬戸田光明坊行基菩薩之開地忍性伝、十三重塔建立
山岳修験第30号、長崎県史雲仙温泉山満明寺一乗院温泉山縁起/大宝元年行基開基
肥前國高来郡嶋原温泉山之図大宝元年辛己ノ春二月十五日行基菩薩勅テ仏法興隆大願ヲ企テ寺堂ガランヲ造立温泉神社、四面宮、九州鎮護の神、行基の墓がある。
興福寺略年代記 [続群類857]行基菩薩播磨七仏薬師ヲ建立養老2年
峯相記[続群類816]法花山(播磨印南郡)、船越山(佐用郡南光町)神亀3年10月行基僧正仙跡ヲ尋テ参詣ス
播磨清水寺文書聖武勅命により諸尊を刻して大講堂に安置
重源南無阿弥陀仏作善集魚住泊彼嶋者昔行基菩薩為助人築此泊
備前国船坂山の道路整備
建久7年(1196)太政官符集
肥前名跡記下巻肥御崎日通山観音寺行基菩薩墓七浦観音像
覚源禅師年譜略[続群類236] 九州肥前阿那之在所、爰有行基菩薩建立之堂元亨元年(1321)成立
行基菩薩ゆかりの寺院福岡県17寺、佐賀県9寺、長崎県7寺、熊本県5寺、大分県3寺、宮崎県3寺行基菩薩1200年御遠忌記念誌、平成10年
 また、行基菩薩ゆかりの寺院は、上4表のとおり、福岡県を中心に九州各地に広がっている。年 代的には和銅・養老の年間の伝承が多い特徴がある。大宰府から雲仙までたぐってみると、行基の伝 承がある寺院は、表5のとおり、古代西海道の推定路(47)に沿って点在しているといえる。また、行 基の足跡は、西海道の武雄市(旧杵島郡北方町)から諫早市(旧北高来郡高来町)までは、大村湾沿いで なく、有明海沿いの道を巡行する経路にもある。雲仙〜島原から湾を越えた東岸は熊本県であり、 伝承寺院は4寺ある。 表5  大宰府から雲仙まで行基の伝承がある寺院
寺院所在備考
福岡県A国分寺太宰府市国分天平9年
佐賀県B大興善寺三養基郡基山町園部元無量壽院、養老元年開創
C河上山 神通密寺 実相院佐賀市(旧佐賀郡)大和町川上
D桐野山 妙覚寺多久市南多久町桐野天平13年
E専称寺 多久市多久町天平13年
F大聖寺武雄市(旧杵島郡北方町大字)大崎和銅2年
G常在寺嬉野市(旧藤津郡塩田町)馬場下甲下野辺田
H生蓮寺嬉野市(旧藤津郡塩田町)
I竹崎観世音寺藤津郡太良町大浦竹崎248
長崎県J菩提寺諫早市(旧北高来郡高来町)湯江和銅2年
K和銅寺諫早市高来町行基像あり
L御手水観音諫早市御手水町
M温泉山大乗院 満明寺雲仙市(旧南高来郡小浜町)雲仙(一乗院 釈迦堂)

6 行基と官との関わり (1)泊の設置及び管理  泊の設置及び管理は、官の支配が及ぶ分野である。  大輪田泊は、摂津国に属する。  そして、奈良時代の大輪田泊の管理の実態は不明であるが、平安時代以後の大輪田泊について、 吉田靖男は、「弘仁七年十月二十一日の官符(『三代格』)には、「大輪田船瀬」を造るため、「造船瀬 使」が任命されたことを記している。この大輪田船瀬は、『年譜』の「大輪田船息」、「意見十二箇条」 の「大輪田泊」と同一のものと見られ、弘仁七年(816)には、国家がその運営に当たっていたことが 確かめられる。(48)」とするから、行基の没後のことであるが、摂津国昆陽寺の施入田も同様に官が 管理に関与することは、行基が官と密接な関係にあることを意味するものと考える。 (2)行程を決める官の役割  『続日本紀』天平勝宝六年二月丙戌(二十日)条に、「大宰府に勅して曰く、去る天平七年南嶋に牌 を樹てしむ。嶋の名、泊処、水処、去就する国の行程を顕わし、遥かに嶋の名を見て、漂着の船を して帰向する所を知らしむべし」とされている。  この勅は、漂流船が南の嶋々に着いたときに所在が分かるよう、嶋の名や泊処、水の補給地、立 ち寄る国までの行程を書いた牌を修復したもので、その内容は、延喜式雑式に継承されているほど、 航路の行程は重要なものであり、当然のこととして官が関わるべきものと思われる。  また、延喜式には、内膳司の項目で「凡そ諸国の御厨の御贅を貢進する決番は…件の日に当たる 毎に、次によりて貢進せよ。預め行程を計り、闕台致すことなかれ…」として、天皇に供する御贅 を貢進する当番に当たる諸国は、それぞれの地域に応じて陸路海路の行程を計り遅滞等のないよう にすべしと、ここでも運輸の行程を計ることが定められている。(49)  天平元年、毎年一定量の綿を大宰府より京進する制度が確立した。そこには、大宰府より京都ま で海路30日とされる。(50)例えば、行基はこのような行程の構想或いは具体化に参画したのであろ うか。  このように、運輸の行程を決めることは国家の運営に当たっての必須の事項であろう。摂津播磨 の五泊の行程を定め、泊を置いた行基の事蹟は、まさに官の本来業務にあたるといえよう。 (3)行基と官との関係  摂播五泊の設置が官の本来業務ならば、一介の僧及び集団が国家の政策的な実務を行うことはあ りえず、ましてや、『続日本紀』に記されるとおり僧尼令違反で弾圧されていた行基及び行基集団が 国家事業を代行することは理解しがたい。それらを無視し、五泊の設置を行基及び行基集団の事蹟 とするならば、行基なる人物像の見直しを図らなければならない。  それは、行基を社会活動を行う単なる僧侶と考えるのではなく、官と密接に結びついた人物像と して把握しなければならない。  鶴岡静夫は、「行基を仏教信仰の人とのみとらえている。純粋に仏教のみの人とする考え方が支配 的である。しかし、それは無理な考え方である。」として、行基の思想を仏教ととらえるのではなく、 神仏習合思想の立場にあったと考える(51)論もあるから、行基は仏教の思想を超えた拡がりをもつ人 物と捉えられる。  そして、福岡猛志は、「社会事業家という把握こそが通念的行基像である。(52)」とするが、更に 拡がりをもって、行基の人物像を捉え直してもよいだろう。  千田稔は、行基の社会活動について、「これらの交通関係施設と耕地関係施設が、奈良時代におい て、国家事業としてではなく、行基という一僧侶の手になる事業に帰せられるのは、如何なる理由 によるのだろうか。(53)」と疑問を呈する。また、「彼(行基)がなした開発や救済の事業は決して体制 を否定するものでなく、むしろ体制の欠陥を補う役割を果たしてきた。(54)」とすることは、行基を 宗教者あるいは社会事業者として固定的に捉えることから生じている。  また、長山泰孝は、「行基の社会事業なるものは民間の一遊行僧による個人的恣意的な事業の域 をこえて国家的事業に匹敵するスケールと計画性とを備えていたことになるが…(55)」とする。このよ うに、行基が行う社会事業が国家の事業に匹敵するものとみなされていることは、行基と官の密接 な結びつきを示唆するものといえよう。ここに、行基の人物像を宗教者より官と結びついた実務家 という新しい見方が必要であろう。(56) それは、官の立場にある者と一致するかも知れない。 例えば、官人が出家する場合は多々あるが、養老五年、元明上皇の不予の際、病気平癒のため、 右大弁従四位上笠朝臣麻呂が出家し、僧満誓として、同七年、大宰府の観世音寺建造に尽力した場 合が例示として挙げられるのではないか。
結びに 西海からの航路に位置づけされる摂播五泊の建置を行基の功績として認める意義は、行基の人物 像に新しい視点を付け加えることであり、また、行基の活動が畿外に及ぶ証左となることである。   々の行基伝承に示されるとおり、行基の活動圏は、播磨以西の九州にまで至る伝承が残る。 瀬戸内海は、内海であるけれども、陸地・島の形状、海流と風の流れ、気候条件により、往路・ 復路で停泊地が異なる場合があり、時代によって泊が変遷するものと考えられる。  そして、注目すべきことは、清行によると、行基が程を計り建て置く泊は、室生、韓、魚住、大 輪田泊、河尻までと、瀬戸内航路の西側から東に向かう航路に従い、泊を定めたことを記すことで ある。  先学は、喜田貞吉の論に代表される河尻を基点とする航路を考えている場合が多いが、三善清行 は、そうでなく、瀬戸内海西側の室生から始めているのであり、そして、室生泊は瀬戸内にあって、 風除けの避難港としての役割が大きかったとされる。とすれば、室生泊はここから始まる出発点で はなく、瀬戸内海航路の途中に位置する泊であることは自明の理である。  そして、より広い視野からは、播磨国室生の彼方、西方には、大宰府がある。同様に、五泊の河 尻の東方には難波津がある。奈良時代の瀬戸内航路は、難波−大宰府を結ぶ航路であり、五泊はそ の一部であることを確認しなければならない。  この摂播五泊の建置を行基の功績と認めるならば、行基は陸路でなく、実際に船を利用したこと になろう。それも行基は小船でない内航船に乗る機会が何度かあって、播磨以西から摂津難波まで 旅行する経験があったことを想定しなければならない。そうでなければ、五泊の行程を計ることが できないだろう。これは、一介の僧侶それも畿外から出たことの無い行基には、なせる業ではない。  これを可能とする論拠としては、行基は官と深い関係を持つ人物と考えなければならない。そして、 行基の人物像を単なる宗教者とするより、官と密接に関係する実務家とするならば、僧満誓と同様 な出家者乃至は官の立場に立つ者かも知れない。行基の歩みは、九州に多くある。行基は肥前国に おいて護国寺や基肄城のある基山に連なる契山の麓に大興善寺を建立している。そして、大宰府か ら西海道をたどり、雲仙から熊本まで足跡を残す。  あまり注目されない行基像に、行基は鎮護国家の僧とされるものがある。(57) それが一番明確に 示す事例は、九州における対外的な他国からの侵略を防ぐ役割、つまり護国の活動を意味するかも しれない。  大胆な想像をするならば、土木工事を行う行基集団は、大宰府の山城・水城を築いた帰化人等の 子孫、或いは修理に従事した帰化人等の技術者を行基とされた人物が引率して、瀬戸内を経て、畿 内に移ってきた人々が核となったのではなかろうか。(58) 『昆陽寺縁起』には、「菩薩引率の三十六 客の氏族二十二郷に分処して庄司村主とし…」(59)とあり、外来氏族を分散移住させ、村主(すぐり) (60) とするのが、その構想を裏付ける伝承である。  そして、職員令第六九条によると、帰化を職掌とする地方行政官の役職は大宰府の帥である。(61)  ここからも、帰化を許された外国人及びその子孫が九州から近畿に移動する必然性が認められる。 『続日本紀』養老三年(719)正月庚寅条に「以二舶二艘、独底船十艘一、充二太宰府一」とあり、大 宰府が客船を管理したことが見えるので、行基は、あるいはこの客船を利用したかも知れない。  行基は、畿内から出なかったのではなく、むしろ、九州から畿内への旅をした経験を持つ実務家 官人が本来の姿であったと憶測する。  『行基年譜』『霊異記』等の史料では、行基は、摂津国の難波で橋や津、道の整備を行っているな ど、畿内特に摂津に集中させられる人物である。次の課題として、行基は摂津職と関係する官人で ある可能性の是非を検討していきたい。 註 (1) 竹内利三校注「意見十二箇条」『古代政治社会思想』日本思想大系、岩波書店,1972年。/ 群書類従第27輯巻474、129-130頁。 第十二条、重ねて請ふらくは、播磨国魚住泊を修復すべき事として、「一、重請レ修二復播磨国魚  住泊一事  右臣伏見、山陽西海南海三道、舟船海行之程、自?生泊至韓泊一日行、自韓  泊至魚住泊一日行、自魚住泊至大輪田泊一日行、自大輪田泊至河尻一日行。此  皆行基菩薩計程所建置也。延喜十四年四月廿八日 従四位上行式部大輔臣三善清行上」  (『本朝文粋』巻第二、新日本古典文学大系27、1992年、岩波書店) (2) 境野黄洋『日本仏教史講話』森江書店、1931年、408頁。 (3)『日本国史大辞典』2巻、吉川弘文館、1979年、687頁。「五泊」長山泰孝 (4) 千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、135頁。 (5) 井上薫の論は注27を参照。 米田雄介は、「今日、知りうる史料からは、彼(行基)の活動範囲が畿外に及ばないことを注意して  おきたい。」とするが、行基の畿外の活動を示唆する史料は、『続日本紀』のほか、『行基菩薩縁起  図絵詞』第二十九「六十余州聖化及ばざることなし」、『興福寺略年代記』に行基の事蹟として「養  老二年播磨七仏薬師建立」などが見られる。表2参照。 (6) 『兵庫県の地名』U、平凡社、1999年、624頁。 (7) 『兵庫県の地名』T、平凡社、1999年、549頁。 (8) 吉田東伍『大日本地名辞書』3巻、冨山房、1970年、118頁。「韓泊」 (9) 『兵庫探検』歴史・風土篇、神戸新聞社、1975年、227頁。 (10) 磯部隆『東大寺大仏と日本思想史』大学教育出版、2010年。122 頁。 (11) 『明石市史上巻』明石市、1960年、34頁。 (12) 『日本国史大辞典』2巻、吉川弘文館、1979年、724頁。「五泊」 (13) 『兵庫県の地名』T、平凡社、1999年、460頁。 (14) 松原弘宣『古代国家と瀬戸内海交通』吉川弘文館、2004年、141 頁。 (15)『加古川市史』第1巻、平成元年、266頁。 (16) 市大樹『飛鳥の木簡』中公文庫、2012年、141頁。 (17) 喜田貞吉著作集第4巻、歴史地理研究「五泊考」平凡社、1982年、220-221頁。 (18) 磯部隆『東大寺大仏と日本思想史』大学教育出版、2010年。141 頁。 (19) 『尼崎市史』4巻、1973年、100頁。 (20) 松原弘宣『古代国家と瀬戸内海交通』吉川弘文館、2004年、165頁。 (21) 戸田芳実『中世の神仏と古道』吉川弘文館、1995年、76頁。 (22) 山下和正『地図で読む江戸時代』柏書房、1998年。 「瀬戸内海・四国図」としたが、「象頭山参詣紀州加田ヨリ讃岐廻并播磨名勝附」と題される    大屋書房発行の古地図による。 (23) 寺島良安『和漢三才図絵』第13巻、東洋文庫505、平凡社、1989年、125-127頁。 (24) 上遠野浩一「淀川河口部における行基の活動について」『日本書紀研究』第二十六冊、塙書房、    2005年、162-167頁。 (25) 舟ケ崎正孝『須磨の歴史』神戸女子大学私学研究室、1990年、88頁。 (26) 土口泰行『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年、25-26頁。 (27) 『加古川市史』第1巻、1989年、266頁。 (28) 「川尻の発達」『ふるさと-神崎川と小田-』『ふるさと』発刊実行委員会(尼崎市)、平成7年、10-11頁。 (29) 西本昌弘「行基設置の楊津院と河尻」『地域史研究』第三七巻第一号、平成十九年九月通巻    第百四号、尼崎市地域史研究資料館。『真如堂縁起』に「摂津国柳津庄橘御園河尻之内」とあり、    中世の柳津庄が河尻にあったことを示している。(続群書類従第27輯上、釈家部455頁。巻) (30) 井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『行基 鑑真』所収、吉川弘文館、昭和58年、    170頁。 (31) 井上薫『行基』吉川弘文館、1959年、96頁。 井上は、「彼(行基)の活動範囲を『年譜』の四十九院や社会事業施設の場所から推せば、大和・    河内・和泉・摂津・山背の五ヶ国で、『霊異記』では、大和・和泉・摂津・山城で説法したり、    社会事業を営んだ話がのせられている。この点からも彼が全国を歩きまわったというのは、無理    な話で、…」と行基の畿外の外遊を否定するが、両史料には、当然のこととして選択が行われて    いるので、書かれていないことをもつて、その事実がなかったとはすべきでないと考える。 (32) 「著者が泉の姓を氏の名としている点からみて、和泉と関連の深い、おそらくは和泉出身の人    ではなかったかと考えられることである。…筆者自身が和泉で探訪したと考えられる行基遺跡    関係の一括資料のあることでも察しられる。」(井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研    究」『行基 鑑真』所収、吉川弘文館、1983年、133頁。) (33) 岩井敏明は、「摂津国西城郡の長江溝も長江池に対応してこの地域に含める。」とする。    (岩井敏明「摂河泉における僧尼の動向」『大阪の歴史と文化』和泉書店、1994年、81頁。) (34) 井上正『大法輪』第六十五巻第十一号、平成十年、115-116頁。 (35) 所 功『三善清行』人物叢書、吉川弘文館、1970年。 (36) 所 功、註(35) 203頁。 (37) 『続日本紀』第三巻、岩波書店、323頁。注7 (38)  竹内利三校注「意見十二箇条」『古代政治社会思想』日本思想大系8、岩波書店,1972、P101」。 (39) 「清行革命改元」ともいう。 (40) 所 功、註(35)174頁。 (41) 所 功、註(35)66頁。 (42) 『明石市史上巻』明石市、1960年、59-60頁。 (43) 畑井出「摂河泉における僧尼の動向」『大阪の歴史と文化』和泉書院、1994年、86頁。 (44) 新任国司の船利用和田萃『古代の道』(河内みち・行基みち)上田正昭編、法蔵館、147頁。 (45) 菅谷文則「行基開基伝承の寺院」『古代の道』(河内みち・行基みち)上田正昭編、法蔵館、236頁。 (46) 「周防国正税帳(正倉院文書) 天平十年十一月三日、従太宰府京傳使僧法義童子三人合四人四回食稲五束二把酒四升塩三合二夕 同年十二月一日、下伝使筑紫国師僧算泰、侍従二人沙弥二人案子三人合八名」 (竹内理三編『寧楽遺文』下巻、東京堂出版、1962年、256頁。) (47) 木下「西海道の古代官道について」図6 九州北部における古代官道の復元推定図、 『大宰府古文化論叢』上、九州歴史資料館編、吉川弘文館、1983年、559頁。 (48) 吉田靖雄 『行基と律令国家』吉川弘文館、1987年、196頁。 (49) 栄原永遠男「茅渟県と日野県」『歴史の中の和泉』和泉書院、1995年、21頁。 (50) 平野邦雄「大宰府の徴税機構」『律令国家と貴族社会』吉川弘文館、1965年、323頁。 (51) 鶴岡静夫『古代中世寺と仏教』渓水社、1991年、120-121頁。 (52) 福岡猛志『日本福祉大学研究紀要』38・39合併号、1979年、195頁。 (53) 千田稔「行基の事業と地理的場」『古代の道』法蔵館、1988年、203-204頁。 (54) 千田稔、註(53) 、230頁。 (55) 長山泰孝「行基の布教と豪族」『律令負担体系の研究』塙書房、1976年、30頁。 (56) 行基の実務家としての具体的な像は、各種の行基伝から、寺院・仏像建立、道・池・橋・堀川    の築造だけでなく「土地の広狭を計る、人口の計測、五穀の栽培法、果樹の植栽、瓦・蒸し風    呂の築造、地図の作成、墓地の設置」などに推し量ることができる。 (57) 行基大菩薩行状記『続群書類従』第八輯下伝部、442-451頁。 (58) 行基が行った河内の狭山池、和泉の久米田池の築造工法は、大宰府の水城などの技術と同種    のものが採用されている。近藤康司『行基と知識集団の考古学』清文堂、2014年、82頁。 (59) 福橋茂樹の菩薩像は、「行基菩薩は、(川尻に港をこしらえて)…昆陽野の開拓をせられて…帰    化人三十六部落を引き連れて、日本に帰化したところの人間を御使役になつて、あの広大なる    開拓事業といふものをなさった、池を堀り、溝を作り、橋を架け、その他五穀の栽培法を教へ    たり、さうして剰ったところの物資は港に依って、船便に依って過不及なくこの社会に、満遍    なくこれを送るといふような、いろいろの理想をお描きになつた次第である。」『摂播に於ける    行基菩薩の事蹟』1930年。 (60) 村主(すぐり)とは、「(古代朝鮮語で村長の意という)姓の一、主として渡来系の諸氏が称した    もの」[広辞苑]とする。「『坂上系図』が引用する『新撰姓氏録』の逸文には、東漢氏[古代の    渡来系氏族]の支配の及んだ村主姓の30氏が列挙されており…」市大樹『飛鳥の木簡−古代史    の新たな解明』中公新書2168、2012年、131頁。 (61) 「職員令69条」『律令』『古代政治社会思想』日本思想大系3、岩波書店,1976、190-192頁。 「太宰府帥一人。掌。…蕃客・帰化、饗嚥事。…」とある。 帰化「化外人」(戸令16)・『蕃人』(戸式70)が王化に帰すること→(戸令補16b) [参考文献] 『行基事典』井上薫編、国書刊行会、1997年。 『大日本地名辞書』第三巻「播磨(兵庫)印南郡」冨山房、1970年。 『地名大辞典』「兵庫県の地名」T・U、平凡社、1999年。 『日本国史大辞典』13巻、吉川弘文館、539頁、「三善清行」。 『兵庫探検』歴史・風土篇、神戸新聞社、1975年、「韓泊」。 引野亨輔「偽書の地域性/偽証の歴史性」『福山大学人間文化学部紀要』第5巻、2005年。 松原源太郎『播磨』35号、西播史談会、1956年。 根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書店、2005年。 磯部隆『東大寺大仏と日本思想史』大学教育出版、2010年。 『神戸と阪神間の古代史』坂江渉編著、神戸新聞総合出版センター、のじぎく文庫、2011年。 『須磨の歴史』舟ケ崎正孝、神戸女子大学史学研究室、1990年。 『歴史と神戸』神戸史学会。 『美術研究』第30号所収。重源「南無阿弥陀仏作善集」。 山下俊郎「摂播五泊について」『古代探求』中央公論社、1998年。 林銑吉編『島原半島史』上巻、長崎県南高来郡市教育会、1954年。 土口泰行『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年。 「峯相記」『続群書類従』 第28輯上釈家部、『大日本仏教全書』117巻、寺誌叢書所収。

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