目次
1 行基と忍性の墓誌との比較
2 忍性記の構文について
3 行基記の構文について
4 行基記の時代の新規性
5 現物資料の考察
(1)行基記と墓誌残欠 (2)行基の火葬の特異性 (3)墓の装置
『行基の伊丹における活動を巡っての一考察』
一、伊丹における行基の活動について(省略)
二、『大僧上舍利瓶記』の信憑性について
1 行基と忍性の墓誌との比較 『大僧上舍利瓶記(以下「行基記」とする。)』は、行基関係資料で最も信頼できる最古の資 料(注84) とするが、吉田一彦は、「発見されたという物品の信憑性については、慎重な資料批 判が必要となるだろう」とし、行基記は、「写された銘文をみる限りは、天平二十一年の文章 として一応は矛盾なく、当面、行基研究の資料の一つとしておくべきであろうが、なお、継続 して検討すべきものと判断される。」と指摘する。(注85) 墓誌の普遍的な要件として、様式、正確さ、客観性を挙げると、行基記は失敗作と考える。 紀年が不統一であり、誤字がある、具体的な経歴が少なく、景静という第三者名を挙げて、物 語にしていることである。 紀年の不統一は、「○○王朝○○之歳」「天平十七年」「廿一年」「天平廿一年歳次」のとおり、 「天平十七年」には歳次がなく、「廿一年」には「天平または同」がないため、「寿八十二廿一年」 と数字が連続して読みづらくなっている。 きちんと様式を整えるべきものであろう。 日付については、「二月二日丁酉」と「二月八日」の干支の有無がある。 誤字は、「大僧上」の「上」が正しくは「正」である。墓誌の性格上誤字は許されず、肩書きの 誤りは、特に許されない重大な事柄であろうから、写経のように間違いがあれば、一からのやり 直しが原則であろう。 墓誌には下敷きがある。威奈大村の墓誌は、『文選』その他の漢籍をふまえた語句を多用し ているほか、中国北周の文人庚信が作った墓誌銘を収載した『庚信集』に拠るとされる。(86) 表3に見られるとおり、行基記は、鎌倉中期に活躍した忍性の墓誌『良観上人舍利瓶記(以 下「忍性記」とする。)』(注87) と様式、文章の構造、使用文字の一致などよく似る点が多い。 両者の墓誌が共に信憑性のある資料なら、忍性記は行基記を手本にして構文されたと考える。 忍性記と比較した行基記の特徴は、共通使用文字との比較では無駄なく簡便にまとめられて おり、父母、祖父母三代の家系を記す反面、本人の経歴が少なく、特に月日を記す経歴がない こと、作者の肩書きが簡略であることが挙げられる。 忍性記に多くの文字が仮借されている中で、使用されていない文字がある。 「和上、一号、諱、右脇而臥、正念」などである。 「和上」は、「和尚」と同じ高僧の称で通常同様の意味で使われる(注88) から、「(行基)大僧 上━和上」と「良観上人━和尚」の関係は、行基記から仮借すれば、「和尚」は「和上」を使用す るのではないか。 忍性は別名が良観上人であり、忍性=良観の関係が法行=行基と同様であると考えたなら、 行基記に合わせて「一号」を使うのではないか。表3 忍性記(良観上人)と行基記の比較
A 良観上人舎利瓶記(鎌倉・極楽寺出土)
和尚法諱忍性、西大寺沙門也、俗姓伴氏、厥考伴貞行、厥妣榎氏女、
建保五年丁丑七月十六日、誕於大和国城下郡屏風里、貞永元年七月十
日、十六歳出家帰道、天福元年、於東大寺戒壇院登壇受戒、尓後随順
興正菩薩、仁治元年四月十一日、通受於西大寺受之、寛元三年九月十
四日、「a別受於家原寺、受之逐則専恢興律宗兼弘伝密教智行相備薫修
差積人帰慈悲世仰興隆是以遐方近上尊卑緇素真不恭敬頂礼帰服信向」
況亦●啻東開是帰敬既及上都之尊祟、特奉東大寺大勧進、再補天王寺
別当職、寿八十七令茲七月十二日子尅「b端坐如常着僧伽梨威儀安詳
心住観念手結密印口誦秘明奄終於極楽寺、使其暁更寅尅火葬於寺之西
畔、弟子等再覲永絶攀慕無休只拭悲涙泣?遺骨相分舎利」留置三所、
一分極楽寺、一分竹林寺、一分額安寺、是依遺命也、入銅瓶之中納遺
跡之霊墳氏uc一心之礼●当来之三会」 [●= ]
嘉元元年歳次癸卯十一月 日 付法住持沙門栄真
石塔願主比丘禅意
注)「拭」は「代」を用いず、鎌倉市史による。
B 興正菩薩伝(群書類従第六十九所収)
心住無所不至兮口誦秘明身著僧伽梨衣兮手結秘印心身不動如入禅定奄
然遷化(中略)葬于寺西(中略)在火不萎翌日拾遺骨(中略)臨終之體
C 大僧上舎利瓶記
和上法諱法行、一号行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、厥考諱才智、
字智法君之長子也、本出於百済王子王爾之後焉、厥妣蜂田氏、諱古
爾比売、河内国大鳥郡蜂田首虎身之長女也、近江大津之朝、戊辰之
歳、誕於大鳥郡、至於飛鳥之朝、壬午之歳出家帰道、苦行精勤、誘
化不息、人仰慈悲、世称菩薩、是以天下蒼生、上及人主、莫不望塵、
頂礼奔集如市、遂得 聖朝崇敬、法侶帰服、天平十七年、別授大僧
正之任、竝施百戸之封、于時僧綱已備、特居其上、雖然不以在懐、
勤苦弥氏A寿八十二、廿一年二月二日丁酉之夜、「d右脇而臥、正
念如常、奄終於右京菅原寺、二月八日火葬於大倭国平群郡生馬山之
東陵、是依遣命也、弟子僧景静等、攀号不及、瞻仰無見、唯有砕残
舎利」然尽軽灰、故蔵此器中、以為頂礼之主、界彼山上、以慕多宝
之塔
天平廿一年歳次己比丑三月廿三日 沙門真成
D 船首王後墓誌
惟船氏故 王後首者、是船氏中祖 王智仁首兒、那沛故 首之子也、
生於乎婆陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮治天下 天皇之朝
至於阿須迦宮治天下 (中略)殞亡於阿須迦 天皇之末、歳次辛丑十
二月三日庚寅、故戊辰年十二月、殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀
自 同其墓其兄刀羅古首之墓並作墓也、即為安保萬代之霊基、?固
また、父名の表現を倣うと「厥考伴貞行」から「厥考諱貞行」にしたことだろう。 「右脇而レ臥」は、釈尊の入滅時の姿勢であり(注89)、弘法大師、親鸞、日蓮など多くの高 僧の逝去時の姿勢として伝にある。 忍性が行基に傾倒していたのであれば、死に臨む際には同様の表現「右脇而レ臥、正念如レ常」 を採用したであろう。それらの点について不審が残る。 次に、忍性記と行基記についての紀年を忘れ、仮借文字についての先後を考える。 忍性記は「頂礼帰服」が四字熟語であるが、行基記は、「頂礼」と「帰服」が分かれる。 文字を仮借するときに、四字熟語を分けて使用することは容易であるが、二つの言葉を合体 させ四字熟語とする構文はより困難であろう。 また、忍性記「人帰二慈悲一、世仰二興隆一、是以」と、行基記「人仰二慈悲一、世称二菩薩一、 是以」の構文では、拾字のうち三字(傍点字)が変えてある。忍性記から行基記への組立ては比 較的容易であるが、行基記から「称菩薩」の字を変えるため、「仰」を「帰」に入れ替えて、「仰」 を「興隆」と組み合わせる複雑な構想は出てこないであろう。作成日は、忍性記の日付が空白 である。行基記を手本にすれば当然日付を入れて、空白のまま放置することはないであろう。 以上、共通使用文字の成立の先後を考えると、忍性記は行基記を手本に構文したと言えない 部分が見えてくる。 2 忍性記の構文について 忍性記が行基記を手本にしたのでないなら、何によって構文されたかを当時の文献資料に探 ると、表4―A、表5のとおり、忍性の師である叡尊の卒伝を主にして、梁塵秘抄、行基菩薩講式 その他の文献資料を参考に当時使用されていた語彙を元にして構文したものと考えられる。 経歴の部分、固有名詞を除くと、大半の文字が重なるが、文献に見出しえない語彙も多い。 特に、忍性が鎌倉で活躍したことは独自のものであるから、「東開」前後の部分は他の文献 に寄らない部分と考えられ、探し得ない。 その中で、ひと固まりの仮借が明確な部分は三箇所ある。 表4―Aのaの部分は、行基菩薩講式の中に見られる。同じくbの部分は、興正菩薩伝(群書 類従第六十九所収)、同cの「一心之礼 当来之三会」の短文の語彙は梁塵秘抄に見られる。 特に、忍性記の?「端坐如レ常(中略) 相二分舎利一」の部分は、表3―Bに見られるとおり、 興正菩薩伝の「心住無レ所 (中略)臨終之體」に依拠して構文したと考えられる。 この忍性記のbの部分がちょうど、表3―Cの行基記のd「右脇而レ臥、正念如レ常 (中略)唯 有二砕残舎利一」の部分に重なる。 これは、忍性記が興正菩薩伝等に併せて、行基記からも借りたと考えるより、行基記の「右脇 而レ臥、正念」を模倣していないことから、行基記を全く使用しなかった と考える方が妥当である。 更に、忍性記には葬送に関して遺骨を三箇所に分骨するという行基記にない独自性を持つ。
A 良観上人舎利瓶記(鎌倉・極楽寺出土) 和尚法諱忍性、西大寺沙門也、俗姓伴氏、厥考伴貞行、厥妣榎氏女、 建保五年丁丑七月十六日、誕於大和国城下郡屏風里、貞永元年七月十 日、十六歳出家帰道、天福元年、於東大寺戒壇院登壇受戒、尓後随順 興正菩薩、仁治元年四月十一日、通受於西大寺受之、寛元三年九月十 四日、「?別受於家原寺、受之逐則専恢興律宗兼弘伝密教智行相備薫修 差積人帰慈悲世仰興隆是以遐方近上尊卑緇素真不恭敬頂礼帰服信向」 況亦?啻東開是帰敬既及上都之尊祟、特奉東大寺大勧進、再補天王寺 別当職、寿八十七令茲七月十二日子尅「?端坐如常着僧伽梨威儀安詳 心住観念手結密印口誦秘明奄終於極楽寺、使其暁更寅尅火葬於寺之西 畔、弟子等再覲永絶攀慕無休只拭悲涙泣?遺骨相分舎利」留置三所、 一分極楽寺、一分竹林寺、一分額安寺、是依遺命也、入銅瓶之中納遺 跡之霊墳氏u?一心之礼●当来之三会」 [●= ] 嘉元元年歳次癸卯十一月 日 付法住持沙門栄真 石塔願主比丘禅意 B 興正菩薩伝(群書類従第六十九所収) 心住無所不至兮口誦秘明身著僧伽梨衣兮手結秘印心身不動如入禅定奄 然遷化(中略)葬于寺西(中略)在火不萎翌日拾遺骨(中略)臨終之體 |
C 大僧上舎利瓶記 和上法諱法行、一号行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、厥考諱才智、 字智法君之長子也、本出於百済王子王爾之後焉、厥妣蜂田氏、諱古 爾比売、河内国大鳥郡蜂田首虎身之長女也、近江大津之朝、戊辰之 歳、誕於大鳥郡、至於飛鳥之朝、壬午之歳出家帰道、苦行精勤、誘 化不息、人仰慈悲、世称菩薩、是以天下蒼生、上及人主、莫不望塵、 頂礼奔集如市、遂得 聖朝崇敬、法侶帰服、天平十七年、別授大僧 正之任、竝施百戸之封、于時僧綱已備、特居其上、雖然不以在懐、 勤苦弥氏A寿八十二、廿一年二月二日丁酉之夜、「?右脇而臥、正 念如常、奄終於右京菅原寺、二月八日火葬於大倭国平群郡生馬山之 東陵、是依遣命也、弟子僧景静等、攀号不及、瞻仰無見、唯有砕残 舎利」然尽軽灰、故蔵此器中、以為頂礼之主、界彼山上、以慕多宝 之塔 天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成 E 良観上人舎利瓶記(大和郡山・額安寺出土) 和上、秘密之灌頂専律宗之弘通、世?、近土、 [ 和尚、則専恢興律宗兼弘伝密教、世仰、近上、 頂×帰服、莫不、匪啻、□茲、便其、□悲、 [ 頂礼帰服、真不、?啻、令茲、使其、拭悲、 納置銅瓶□専□一心之礼安彼霊崛□緬□三会之暁 |
史料 | 忍性記 | 行基記 |
---|---|---|
叡山大師伝・群書類従第205(弘仁13年882卒) | 緇素、出家、舎利,恭敬、恋慕、啼泣、興隆、沙門、永永不絶、智行兼備、受戒、 | 聖朝、精勤修行、在懐、瞻仰無絶、和上、蒼生、見彼山、多宝塔、国王子、僧綱、右脇臥入、号 |
聖光上人伝(追記弘安10年1287) | 上人、法、諱、誕生、登壇受戒、補、智行兼備、勧進、端座、道俗帰者、信仰(向)、一分、薫修、暁、逐則、墳墓、禅門、比丘、極楽、石塔 | 諱、号、右脇而臥、多宝塔、勤行 |
光明寺開山御伝(永仁元年1293) | 俗姓、伴氏、出家、登壇、菩薩、智行兼備、勧進、威儀、端座、剋、伝密教、竹林寺、比丘、遺跡 | 瞻仰尊顔、左脇而臥、 号、諱[瓔珞] |
泉涌寺不可棄法師伝(寛元2年1244) | 寺別当、顕密兼学、智行兼備、禅、願、端座、比丘、伝密教、律宗、住持、緇素、舎利,出家、受戒、勧進、弘伝、慈悲、沙門、 | 諱、字、号、門前成市、勤苦、彼山空中、莫不、右脇而臥、瞻仰、法侶、苦行 |
叡尊A元亨釈書(卒年正応3年1290) | 通受、受戒、家原寺、別受、密教、興律宗、興正菩薩、授、終 | 望塵、南京西大寺 |
叡尊B群書類従第69(正安2年1300) | 興正菩薩、密教、登壇受戒、東大寺戒壇、威儀、通受、出家、帰命、薫修、別受、拾遺骨、 別途表4―B参照 | 崇敬、号 |
三輪上人行状(建長7年1255) | 慈悲、遺跡、恭敬、薫修、勧進、暁、悲泣、緇素 | 正念,灰中炳然[華瓶壇上舎利出現形如水精碎] |
梁塵秘抄(12世紀後半) | 帰命頂礼、三会暁、一心敬礼、恭敬礼拝、舎利、当来弥勒、瞻仰緇素、受戒、寺別当、威儀、 | 瞻仰緇素、宝塔品 [瓔珞] |
行基菩薩講式 (1235-1301) | 尊卑、恭敬、信仰(向)、恢弘(興)、備智行、慈悲、興隆、家原、霊告、留身骨、舎利、遺跡、専、深積、真実之道、三会、薫修 | 舎利 |
行基年譜 (安元元年1175) | 生駒山東陵、右脇而臥 | |
懐風藻(751年) | 百済、王仁、辰爾 | |
船首王後墓誌(卒年668年) | 之子也、天下、 之朝、故、戊辰年、山上、為、安保萬代之霊基、?固永劫之宝地 |
被葬者 | 卒日 | 火葬日 | 葬(埋)送日 |
---|---|---|---|
船首王後 | 辛丑12月3日庚寅 | 戊辰12月 | |
威奈真人大村 | 慶雲4年4月24日 | 同年11月21日 | |
伊福部徳足比売 | 和銅元年7月1日 | 同年10月 | 同年11月13日 |
太安万侶 | 養老7年7月6日 | 同年12月15日 | |
美努岡萬 | 神亀5年10月20日 | 天平2年10月 | |
行基 | 天平21年2月2日丁酉 | 同年2月8日 | 同年3月23日 |
石川年足 | 天平宝字6年9月30日 | 同年12月28日 | |
持統天皇 | 大宝2年12月22日 | 同3年12月17日 | |
聖徳太子 | 推古30年2月22日 | ||
文武天皇 | 慶雲4年6月15日 | 同年11月12日 | |
藤原不比等 | 養老4年8月3日 | 同年10月8日 | |
元明天皇 | 養老5年12月7日 | 同年12月13日 | |
元正天皇 | 天平20年4月21日 | 同年4月28日 | |
聖武天皇 | 天平勝宝8歳5月2日 | (5月8日初七) | 同歳5月19日 |
光明皇太后 | 天平宝字4年6月7日 | 同年7月16日 |
史料名 | 紀年 | 卒時の記 |
---|---|---|
大僧上舍利瓶記 | 天平勝宝元年(749) | 寿八十二 |
続日本記 | 延暦十六年(797) | 薨時年八十 |
日本霊異記 | 弘仁十三年(822) | − |
日本往生極楽記 | 寛和元年(985) | 唱滅時八十 |
日本略記 | [〜長元九年(1036)] | 遷化時年八十 |
濫觴抄 | 春秋八十者 | |
扶桑略記 | [1094以後] | 遷化春秋八十歳 |
東大寺要録 | 長承三年(1134) | 入滅生年八十 |
七大寺年表 | 永万元年(1165) | @遷化八十二 A入滅年八十八 |
僧綱補任抄出上 | 七大寺年表とほぼ同じ | 入滅年八十八 |
行基年譜 | 安元元年(1175) | 行年八十二歳 |
竹林寺略録 | 嘉元三年(1305) | 春秋八十有二 |
行基絵伝」(家原寺蔵) | 正和五年(1316) | 行年八十二 |
元亨釈書 | 元亨二年(1322) | 年八十二 |
帝王編年記 | [貞治三年(1364)〜:康暦二年(1380)] | 入滅春秋八十二 |
歓喜光律寺略縁起 | 慶長十七年(1612) | 春秋八十又二 |
一代要記 | [1673-81写書写] | 入滅年八十 |
東国高僧伝 | 貞亨四年(1687) | 春秋八十有二 |
史料名 | 紀年 | 卒時の記 |
---|---|---|
続日本記 | 延暦十六年(797) | 物化、遷化時年七十有七 |
鑑真和上三異事 | 天長八年(831) | 春秋七十有八 |
三宝絵 | 永観二年(984) | 春秋七十七矣 |
日本高僧伝要文抄 | 建長三年(1251) | 春秋七十有七 |
元亨釈書 | 元亨二年(1322) | 寿七十七 |
人名 | 史料名 | 卒時等の記 |
---|---|---|
道昭 | 続日本記・文武天皇四年(700) | 物化、時七十有二 |
威奈大村 | 墓誌・慶雲四年(707) | 年四十六 |
元明太上天皇 | 続日本記・養老五年(721) | 崩時春秋六十一 |
美努岡万 | 墓誌・天平二年(730) | 春秋六十有七 |
道慈 | 続日本記・天平十六年(744) | 卒時、年七十有余 |
元正太上天皇 | 続日本記・天平二十年(748) | 崩春秋六十有九 |
行基 | 続日本記・天平勝宝元年(749) | 遷化、薨時年八十 |
光明皇太后 | 続日本記・天平宝字四年(760) | 崩時春秋六十 |
石川年足 | 続日本記・天平宝字六年(762) | 薨時年七十五 |
石川年足 | 墓誌・天平宝字六年(762) | 春秋七十有五 |
菩提僊那 | 碑并序・慶雲四年(770) | 春秋五十七 |
文徳天皇 | 文徳実録・天安二年(858) | 春秋三十有二 |
清和天皇 | 三代実録・元慶四年(880) | 春秋三十一 |
光孝天皇 | 扶桑略記・仁和三年(887) | 春秋五十八 |
源信 | 続本朝往生伝・寛仁元年(1017) | 春秋七十有六矣 |
亀山天皇 | 百錬抄・正元元年(1259) | 御即位也春秋十一 |
叡尊 | 興正菩薩伝・正応三年(1290) | 春秋満九十 |
史料名 | 紀年 | 表記 |
---|---|---|
日本書紀・天武14年 | 養老4年720 | 「是僧寿百歳」 |
大傅法院本願上人御伝 (続群書類従巻215) | 長承3年(1134) | 「龍猛菩薩寿三百歳」 「龍智菩薩寿七百歳」 |
千光法師祠堂記 (同225) | 健保3年(1215) | 栄西没「寿七十五。臘六十二」 |
一遍上人年譜略 (同223) | 正応2年(1289) | 一遍没「如入禅定寂化、寿五十一歳」 |
道元禅師行録(同225) | 建長5年(1254) | 道元没「世寿五十有四。僧臘四十有一」 |
永平寺三祖行業記 (同225) | 建長5年(1254) | 道元没「俗寿五十有四。僧臘三十有七」 |
良観上人舎利瓶記 | 嘉元元年(1303) | 「寿八十七令[齢の略字か]」 |
A 唐招提寺所蔵本(三百九字)井上薫復元 1 大僧上舎利瓶記 2 和上法諱法行一号行基薬師寺沙門也俗姓高志 3 氏厥考諱才智字智法君之長子也本出於百済王 4 子王爾之後焉厥妣蜂田氏諱古爾比売河内国大 5 鳥郡蜂田首虎身之長女也近江大津之朝戊辰之 6 歳誕於大鳥郡至於飛鳥之朝壬午之歳出家帰道 7 苦行精勤誘化不息人仰慈悲世称菩薩是以天下 8 蒼生上及人主莫不望塵頂礼奔集如市遂得 聖 9 朝崇敬法侶帰服天平十七年別授大僧上之任竝 10 施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在 11 懐勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜 12 右脇而臥正念如常奄終於右京菅原寺二月八日 13 火葬於大倭国平群郡生馬山之東陵是依遣命也 14 弟子僧景静等攀号不及瞻仰無見唯有砕残舎利 15 然尽軽灰故蔵此器中以為頂礼之主界彼山上以 16 慕多宝之塔 17 天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成 B 唐招提寺所蔵本(三百九字)石田茂作復元 10 施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在懐 11 勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜 |
C 唐招提寺所蔵本(三百九字)藤沢一夫復元 11 懐勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜右 12 脇而臥正念如常奄終於右京菅原寺二月八日火 16 多宝之塔 D 宮内庁書陵部所蔵本(三百六字) 1 大僧正舎利記 2 和上法諱法行一号行基薬師寺沙門也俗姓高志 3 氏也厥考諱才智字智法君之長子也本出於百済 4 王子王爾之後焉厥妣蜂田氏諱古爾比売河内国 5 大鳥郡蜂田首虎身之長女也近江大津之朝戊辰 6 之歳誕於大鳥郡至於飛鳥之朝壬午之歳出家帰 7 道苦行精勤誘化不息人仰慈悲世称菩薩是以天 8 下蒼生及人主莫不望塵頂礼奔集如市遂得 聖 9 朝崇敬法侶帰服天平十七年別授大僧正之任竝 10 施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在 11 懐勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜 12 右脇而臥正念如常奄終於右京菅原寺二月八日 13 火葬於大倭国平郡生馬山之東陵是依遣命也弟 14 子僧景静等攀号不及膽仰無見唯有砕残舎利然 15 尽軽灰故蔵此器中以為頂礼之主彼山上以慕多 16 宝之塔 17 天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成 |
忍海野烏那羅論文集 |
行基論文集 |