『大僧上舍利瓶記』の信憑性について


目次
1 行基と忍性の墓誌との比較
2 忍性記の構文について
3 行基記の構文について
4 行基記の時代の新規性
5 現物資料の考察
(1)行基記と墓誌残欠  (2)行基の火葬の特異性  (3)墓の装置

『行基の伊丹における活動を巡っての一考察』 
                          一、伊丹における行基の活動について(省略)
  二、『大僧上舍利瓶記』の信憑性について
1 行基と忍性の墓誌との比較  『大僧上舍利瓶記(以下「行基記」とする。)』は、行基関係資料で最も信頼できる最古の資 料(注84) とするが、吉田一彦は、「発見されたという物品の信憑性については、慎重な資料批 判が必要となるだろう」とし、行基記は、「写された銘文をみる限りは、天平二十一年の文章 として一応は矛盾なく、当面、行基研究の資料の一つとしておくべきであろうが、なお、継続 して検討すべきものと判断される。」と指摘する。(注85)  墓誌の普遍的な要件として、様式、正確さ、客観性を挙げると、行基記は失敗作と考える。 紀年が不統一であり、誤字がある、具体的な経歴が少なく、景静という第三者名を挙げて、物 語にしていることである。 紀年の不統一は、「○○王朝○○之歳」「天平十七年」「廿一年」「天平廿一年歳次」のとおり、 「天平十七年」には歳次がなく、「廿一年」には「天平または同」がないため、「寿八十二廿一年」 と数字が連続して読みづらくなっている。  きちんと様式を整えるべきものであろう。  日付については、「二月二日丁酉」と「二月八日」の干支の有無がある。  誤字は、「大僧上」の「上」が正しくは「正」である。墓誌の性格上誤字は許されず、肩書きの 誤りは、特に許されない重大な事柄であろうから、写経のように間違いがあれば、一からのやり 直しが原則であろう。  墓誌には下敷きがある。威奈大村の墓誌は、『文選』その他の漢籍をふまえた語句を多用し ているほか、中国北周の文人庚信が作った墓誌銘を収載した『庚信集』に拠るとされる。(86)  表3に見られるとおり、行基記は、鎌倉中期に活躍した忍性の墓誌『良観上人舍利瓶記(以 下「忍性記」とする。)』(注87) と様式、文章の構造、使用文字の一致などよく似る点が多い。  両者の墓誌が共に信憑性のある資料なら、忍性記は行基記を手本にして構文されたと考える。     忍性記と比較した行基記の特徴は、共通使用文字との比較では無駄なく簡便にまとめられて おり、父母、祖父母三代の家系を記す反面、本人の経歴が少なく、特に月日を記す経歴がない こと、作者の肩書きが簡略であることが挙げられる。  忍性記に多くの文字が仮借されている中で、使用されていない文字がある。  「和上、一号、諱、右脇而臥、正念」などである。  「和上」は、「和尚」と同じ高僧の称で通常同様の意味で使われる(注88) から、「(行基)大僧 上━和上」と「良観上人━和尚」の関係は、行基記から仮借すれば、「和尚」は「和上」を使用す るのではないか。  忍性は別名が良観上人であり、忍性=良観の関係が法行=行基と同様であると考えたなら、 行基記に合わせて「一号」を使うのではないか。
表3 忍性記(良観上人)と行基記の比較
A 良観上人舎利瓶記(鎌倉・極楽寺出土)
和尚法諱忍性、西大寺沙門也、俗姓伴氏、厥考伴貞行、厥妣榎氏女、
建保五年丁丑七月十六日、誕於大和国城下郡屏風里、貞永元年七月十
日、十六歳出家帰道、天福元年、於東大寺戒壇院登壇受戒、尓後随順
興正菩薩、仁治元年四月十一日、通受於西大寺受之、寛元三年九月十
四日、「a別受於家原寺、受之逐則専恢興律宗兼弘伝密教智行相備薫修
差積人帰慈悲世仰興隆是以遐方近上尊卑緇素真不恭敬頂礼帰服信向」
況亦●啻東開是帰敬既及上都之尊祟、特奉東大寺大勧進、再補天王寺
別当職、寿八十七令茲七月十二日子尅「b端坐如常着僧伽梨威儀安詳
心住観念手結密印口誦秘明奄終於極楽寺、使其暁更寅尅火葬於寺之西
畔、弟子等再覲永絶攀慕無休只拭悲涙泣?遺骨相分舎利」留置三所、
一分極楽寺、一分竹林寺、一分額安寺、是依遺命也、入銅瓶之中納遺
跡之霊墳氏uc一心之礼●当来之三会」  [●=  ]
嘉元元年歳次癸卯十一月 日  付法住持沙門栄真
                石塔願主比丘禅意
 注)「拭」は「代」を用いず、鎌倉市史による。

B 興正菩薩伝(群書類従第六十九所収)
心住無所不至兮口誦秘明身著僧伽梨衣兮手結秘印心身不動如入禅定奄
然遷化(中略)葬于寺西(中略)在火不萎翌日拾遺骨(中略)臨終之體
C 大僧上舎利瓶記

和上法諱法行、一号行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、厥考諱才智、
字智法君之長子也、本出於百済王子王爾之後焉、厥妣蜂田氏、諱古
爾比売、河内国大鳥郡蜂田首虎身之長女也、近江大津之朝、戊辰之
歳、誕於大鳥郡、至於飛鳥之朝、壬午之歳出家帰道、苦行精勤、誘
化不息、人仰慈悲、世称菩薩、是以天下蒼生、上及人主、莫不望塵、
頂礼奔集如市、遂得 聖朝崇敬、法侶帰服、天平十七年、別授大僧
正之任、竝施百戸之封、于時僧綱已備、特居其上、雖然不以在懐、
勤苦弥氏A寿八十二、廿一年二月二日丁酉之夜、「d右脇而臥、正
念如常、奄終於右京菅原寺、二月八日火葬於大倭国平群郡生馬山之
東陵、是依遣命也、弟子僧景静等、攀号不及、瞻仰無見、唯有砕残
舎利」然尽軽灰、故蔵此器中、以為頂礼之主、界彼山上、以慕多宝
之塔
天平廿一年歳次己比丑三月廿三日 沙門真成
D 船首王後墓誌

惟船氏故 王後首者、是船氏中祖 王智仁首兒、那沛故 首之子也、
生於乎婆陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮治天下 天皇之朝
至於阿須迦宮治天下 (中略)殞亡於阿須迦 天皇之末、歳次辛丑十
二月三日庚寅、故戊辰年十二月、殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀
自 同其墓其兄刀羅古首之墓並作墓也、即為安保萬代之霊基、?固
 また、父名の表現を倣うと「厥考伴貞行」から「厥考諱貞行」にしたことだろう。  「右脇而臥」は、釈尊の入滅時の姿勢であり(注89)、弘法大師、親鸞、日蓮など多くの高 僧の逝去時の姿勢として伝にある。  忍性が行基に傾倒していたのであれば、死に臨む際には同様の表現「右脇而臥、正念如常」 を採用したであろう。それらの点について不審が残る。  次に、忍性記と行基記についての紀年を忘れ、仮借文字についての先後を考える。  忍性記は「頂礼帰服」が四字熟語であるが、行基記は、「頂礼」と「帰服」が分かれる。  文字を仮借するときに、四字熟語を分けて使用することは容易であるが、二つの言葉を合体 させ四字熟語とする構文はより困難であろう。  また、忍性記「人帰慈悲、世仰興隆、是以」と、行基記「人仰慈悲、世称菩薩、 是以」の構文では、拾字のうち三字(傍点字)が変えてある。忍性記から行基記への組立ては比 較的容易であるが、行基記から「称菩薩」の字を変えるため、「仰」を「帰」に入れ替えて、「仰」 を「興隆」と組み合わせる複雑な構想は出てこないであろう。作成日は、忍性記の日付が空白 である。行基記を手本にすれば当然日付を入れて、空白のまま放置することはないであろう。 以上、共通使用文字の成立の先後を考えると、忍性記は行基記を手本に構文したと言えない 部分が見えてくる。 2 忍性記の構文について  忍性記が行基記を手本にしたのでないなら、何によって構文されたかを当時の文献資料に探 ると、表4―A、表5のとおり、忍性の師である叡尊の卒伝を主にして、梁塵秘抄、行基菩薩講式 その他の文献資料を参考に当時使用されていた語彙を元にして構文したものと考えられる。  経歴の部分、固有名詞を除くと、大半の文字が重なるが、文献に見出しえない語彙も多い。  特に、忍性が鎌倉で活躍したことは独自のものであるから、「東開」前後の部分は他の文献 に寄らない部分と考えられ、探し得ない。  その中で、ひと固まりの仮借が明確な部分は三箇所ある。  表4―Aのaの部分は、行基菩薩講式の中に見られる。同じくbの部分は、興正菩薩伝(群書 類従第六十九所収)、同cの「一心之礼 当来之三会」の短文の語彙は梁塵秘抄に見られる。  特に、忍性記の?「端坐如常(中略) 相分舎利」の部分は、表3―Bに見られるとおり、 興正菩薩伝の「心住無レ所 (中略)臨終之體」に依拠して構文したと考えられる。  この忍性記のbの部分がちょうど、表3―Cの行基記のd「右脇而臥、正念如常 (中略)唯 有砕残舎利」の部分に重なる。  これは、忍性記が興正菩薩伝等に併せて、行基記からも借りたと考えるより、行基記の「右脇 而臥、正念」を模倣していないことから、行基記を全く使用しなかった と考える方が妥当である。  更に、忍性記には葬送に関して遺骨を三箇所に分骨するという行基記にない独自性を持つ。
表4 当時の文献史料との比較
 A 良観上人舎利瓶記(鎌倉・極楽寺出土)

和尚法諱忍性、西大寺沙門也、俗姓伴氏、厥考伴貞行、厥妣榎氏女、
建保五年丁丑七月十六日、誕於大和国城下郡屏風里、貞永元年七月十
日、十六歳出家帰道、天福元年、於東大寺戒壇院登壇受戒、尓後随順
興正菩薩、仁治元年四月十一日、通受於西大寺受之、寛元三年九月十
四日、「?別受於家原寺、受之逐則専恢興律宗兼弘伝密教智行相備薫修
差積人帰慈悲世仰興隆是以遐方近上尊卑緇素真不恭敬頂礼帰服信向」
況亦?啻東開是帰敬既及上都之尊祟、特奉東大寺大勧進、再補天王寺
別当職、寿八十七令茲七月十二日子尅「?端坐如常着僧伽梨威儀安詳
心住観念手結密印口誦秘明奄終於極楽寺、使其暁更寅尅火葬於寺之西
畔、弟子等再覲永絶攀慕無休只拭悲涙泣?遺骨相分舎利」留置三所、
一分極楽寺、一分竹林寺、一分額安寺、是依遺命也、入銅瓶之中納遺
跡之霊墳氏u?一心之礼●当来之三会」 [●=  ]
嘉元元年歳次癸卯十一月 日
               付法住持沙門栄真
               石塔願主比丘禅意
 B 興正菩薩伝(群書類従第六十九所収)

心住無所不至兮口誦秘明身著僧伽梨衣兮手結秘印心身不動如入禅定奄
然遷化(中略)葬于寺西(中略)在火不萎翌日拾遺骨(中略)臨終之體
 C 大僧上舎利瓶記

和上法諱法行、一号行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、厥考諱才智、
字智法君之長子也、本出於百済王子王爾之後焉、厥妣蜂田氏、諱古
爾比売、河内国大鳥郡蜂田首虎身之長女也、近江大津之朝、戊辰之
歳、誕於大鳥郡、至於飛鳥之朝、壬午之歳出家帰道、苦行精勤、誘
化不息、人仰慈悲、世称菩薩、是以天下蒼生、上及人主、莫不望塵、
頂礼奔集如市、遂得 聖朝崇敬、法侶帰服、天平十七年、別授大僧
正之任、竝施百戸之封、于時僧綱已備、特居其上、雖然不以在懐、
勤苦弥氏A寿八十二、廿一年二月二日丁酉之夜、「?右脇而臥、正
念如常、奄終於右京菅原寺、二月八日火葬於大倭国平群郡生馬山之
東陵、是依遣命也、弟子僧景静等、攀号不及、瞻仰無見、唯有砕残
舎利」然尽軽灰、故蔵此器中、以為頂礼之主、界彼山上、以慕多宝
之塔      天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成

 E 良観上人舎利瓶記(大和郡山・額安寺出土)

和上、秘密之灌頂専律宗之弘通、世?、近土、
[ 和尚、則専恢興律宗兼弘伝密教、世仰、近上、

頂×帰服、莫不、匪啻、□茲、便其、□悲、
[ 頂礼帰服、真不、?啻、令茲、使其、拭悲、

 納置銅瓶□専□一心之礼安彼霊崛□緬□三会之暁
注) Eの右列は額安寺出土、左列は極楽寺出土のものである。 表5 忍性記・行基記の文献資料との比較
史料忍性記行基記
叡山大師伝・群書類従第205(弘仁13年882卒)緇素、出家、舎利,恭敬、恋慕、啼泣、興隆、沙門、永永不絶、智行兼備、受戒、聖朝、精勤修行、在懐、瞻仰無絶、和上、蒼生、見彼山、多宝塔、国王子、僧綱、右脇臥入、号
聖光上人伝(追記弘安10年1287)上人、法、諱、誕生、登壇受戒、補、智行兼備、勧進、端座、道俗帰者、信仰(向)、一分、薫修、暁、逐則、墳墓、禅門、比丘、極楽、石塔諱、号、右脇而臥、多宝塔、勤行
光明寺開山御伝(永仁元年1293)俗姓、伴氏、出家、登壇、菩薩、智行兼備、勧進、威儀、端座、剋、伝密教、竹林寺、比丘、遺跡瞻仰尊顔、左脇而臥、 号、諱[瓔珞]
泉涌寺不可棄法師伝(寛元2年1244) 寺別当、顕密兼学、智行兼備、禅、願、端座、比丘、伝密教、律宗、住持、緇素、舎利,出家、受戒、勧進、弘伝、慈悲、沙門、諱、字、号、門前成市、勤苦、彼山空中、莫不、右脇而臥、瞻仰、法侶、苦行
叡尊A元亨釈書(卒年正応3年1290) 通受、受戒、家原寺、別受、密教、興律宗、興正菩薩、授、終 望塵、南京西大寺
叡尊B群書類従第69(正安2年1300) 興正菩薩、密教、登壇受戒、東大寺戒壇、威儀、通受、出家、帰命、薫修、別受、拾遺骨、 別途表4―B参照 崇敬、号
三輪上人行状(建長7年1255) 慈悲、遺跡、恭敬、薫修、勧進、暁、悲泣、緇素正念,灰中炳然[華瓶壇上舎利出現形如水精碎]
梁塵秘抄(12世紀後半)帰命頂礼、三会暁、一心敬礼、恭敬礼拝、舎利、当来弥勒、瞻仰緇素、受戒、寺別当、威儀、瞻仰緇素、宝塔品 [瓔珞]
行基菩薩講式 (1235-1301)尊卑、恭敬、信仰(向)、恢弘(興)、備智行、慈悲、興隆、家原、霊告、留身骨、舎利、遺跡、専、深積、真実之道、三会、薫修舎利
行基年譜 (安元元年1175)生駒山東陵、右脇而臥
懐風藻(751年)百済、王仁、辰爾
船首王後墓誌(卒年668年)之子也、天下、 之朝、故、戊辰年、山上、為、安保萬代之霊基、?固永劫之宝地
注1)行基菩薩講式の作成年代は、米山孝子が「金沢文庫蔵『諸経要分伽陀集』(正安3年=1301    までに成立)に本講式の和歌伽陀が記載されていることが判明」するので、1235年から1301年    までの成立とする。(米山孝子『行基説話の生成と展開』勉誠社、平成8年) 注2)船首王後の卒年は、戊辰年(668年)であるが、墓誌の作製は、七世紀末から八世紀初め頃とみた方    が理解しやすいとされている。 (東野治之『日本古代金石文の研究』岩波書店、2004年) 3 行基記の構文について   忍性記が行基記を使用しなかったとすると、先後が逆で、行基記は、忍性記に拠ったと考え られる。二つの忍性記についても先後が逆である。  表4―Eに掲げた忍性記の額安寺記文(注90)は、嘉元元年八月の記であり、十一月の極楽 寺記文より早い。  先後が逆の理由として、@忍性は七月十二日に鎌倉で逝去したのであり、初めに極楽寺で 瓶記が作成され、分骨されたと考えられること、A記文については、「付法住持、石塔願主比 丘禅意」がなく、頂礼帰服の「礼」が脱字であること、「則専…密教」が分かりやすくなっている こと等が挙げられる。  結果として、額安寺記文は、行基記により近づく。「和上・莫不」が共通であり、「世?」が「世 称」に近いことから、行基記は額安寺記文に拠るものと推定する。  また、忍性記作成時の文献資料(表5)に行基記で使用する言葉と同一の語彙が使われて いる。「望塵、崇敬、法侶、正念、多宝塔」などである。  それらを加えると、表4―Cのとおり、行基記の大半が構成されるなか、家系の部分などが 別の要素と考える。  奈良時代以前の十六点の墓誌をみる(注91) と、行基記以外に卒日の干支が記載されている のは船首王後墓誌のみである(表6)。両記の構文については、表3―C・Dのとおり、家系の三 代を記す、「故…為」の文章構成が同じであり、「子也、天下、天皇之朝、戊辰年、山上、宝」の 共通文字が使用される。  「頂礼之主、界彼山上、以慕多宝塔」の表現は、画された聖地を主張するという意味 において「安保萬代之霊基、?固永劫之宝地」に相通じるところがある。  また、船首王後は、百済始祖都慕王の後裔である王智仁の孫とする。(注92)   行基記に高志氏が百済王子の後とするのとよく似る。  王爾は、「船史王辰爾を指す。(注93) 辰の字を脱字とする」王爾=王仁同一説(注94)があるが、 懐風藻序(七五一年)には、「王仁、辰爾」の二人の名がある。   それらから発想した『文字』の仮借ではないかと考える。  ここでは、行基の属する高志氏一族が船王後とも同じ百済王の末裔とし、船王後の葬年が戊辰の 年(668年)であり、行基の生誕と同じくする。  行基の前世が船王後であり、行基が船王後の生まれかわりとする仏教の輪廻転生思想と相通じる 形になっている。  船首王後墓誌は、七世紀末から八世紀にかけて製作された可能性が説かれている(注95) ので、 行基記は、家系・出自の部分などに船首王後墓誌を下敷きの一つとして利用したものと考えられる。 表6 卒日等の比較
被葬者卒日火葬日葬(埋)送日
船首王後辛丑12月3日庚寅戊辰12月
威奈真人大村慶雲4年4月24日同年11月21日
伊福部徳足比売和銅元年7月1日同年10月同年11月13日
太安万侶養老7年7月6日同年12月15日
美努岡萬神亀5年10月20日天平2年10月
行基天平21年2月2日丁酉同年2月8日同年3月23日
石川年足天平宝字6年9月30日同年12月28日
持統天皇大宝2年12月22日同3年12月17日
聖徳太子推古30年2月22日
文武天皇慶雲4年6月15日同年11月12日
藤原不比等養老4年8月3日同年10月8日
元明天皇養老5年12月7日同年12月13日
元正天皇天平20年4月21日同年4月28日
聖武天皇天平勝宝8歳5月2日(5月8日初七) 同歳5月19日
光明皇太后天平宝字4年6月7日同年7月16日
注1)船首王後から石川年足までは、墓誌の記である。持統天皇以下は『続日本紀』などによる。 注2)行基の卒日は、字の並びが持統天皇・聖徳太子と似る。 4 行基記の時代の新規性  年齢の表記の「寿」は、表7のとおり、行基の卒伝では唯一舎利瓶記のみに見られる。  鑑真の卒伝を手繰ると、表8のとおり、鎌倉時代の元亨釈書に「寿」が見られる。  奈良時代から平安時代は、表9のとおり、「寿」の字でなく、「春秋」を使っている。  また、年齢の十以下の数字は、「有」を使って表現している場合が多い。  行基の卒年は、「春秋八十有二」とするのが、時代に合った墓誌の適切な表記であろう。  更に、表10 のとおり、群書類従の伝部を見る限り、「春秋」に代わる「寿」が用いられるの は鎌倉時代以後である。従って、「寿八十二」の表現は忍性記の模倣であると考えられる。 表7 行基の卒時の記
史料名紀年卒時の記
大僧上舍利瓶記天平勝宝元年(749)寿八十二
続日本記延暦十六年(797)薨時年八十
日本霊異記弘仁十三年(822)
日本往生極楽記寛和元年(985)唱滅時八十
日本略記[〜長元九年(1036)]遷化時年八十
濫觴抄春秋八十者
扶桑略記[1094以後]遷化春秋八十歳
東大寺要録長承三年(1134)入滅生年八十
七大寺年表永万元年(1165)@遷化八十二 A入滅年八十八
僧綱補任抄出上七大寺年表とほぼ同じ入滅年八十八
行基年譜安元元年(1175)行年八十二歳
竹林寺略録嘉元三年(1305)春秋八十有二
行基絵伝」(家原寺蔵)正和五年(1316)行年八十二
元亨釈書元亨二年(1322)年八十二
帝王編年記[貞治三年(1364)〜:康暦二年(1380)]入滅春秋八十二
歓喜光律寺略縁起慶長十七年(1612)春秋八十又二
一代要記[1673-81写書写]入滅年八十
東国高僧伝貞亨四年(1687)春秋八十有二
注) 行基の卒年は、八十、八十二、八十八の三種類あるが、概ね七大寺年表(1165年)を境にして、    以前は八十、以後は八十二に分かれ、大僧上舍利瓶記の「八十二」は特異である。 表8 鑑真の卒時の記
史料名 紀年卒時の記
続日本記延暦十六年(797)物化、遷化時年七十有七
鑑真和上三異事天長八年(831)春秋七十有八
三宝絵永観二年(984)春秋七十七矣
日本高僧伝要文抄建長三年(1251)春秋七十有七
元亨釈書元亨二年(1322)寿七十七
注) 元亨釈書には、大僧上舍利瓶記と同様の「長女」の表記が見られる。 表9 奈良時代以後における卒時等の記(春秋の表記を中心として)
人名史料名 卒時等の記
道昭続日本記・文武天皇四年(700)物化、時七十有二
威奈大村墓誌・慶雲四年(707)年四十六
元明太上天皇続日本記・養老五年(721)崩時春秋六十一
美努岡万墓誌・天平二年(730)春秋六十有七
道慈続日本記・天平十六年(744)卒時、年七十有余
元正太上天皇続日本記・天平二十年(748)崩春秋六十有九
行基続日本記・天平勝宝元年(749)遷化、薨時年八十
光明皇太后続日本記・天平宝字四年(760)崩時春秋六十
石川年足続日本記・天平宝字六年(762)薨時年七十五
石川年足墓誌・天平宝字六年(762)春秋七十有五
菩提僊那碑并序・慶雲四年(770)春秋五十七
文徳天皇文徳実録・天安二年(858)春秋三十有二
清和天皇三代実録・元慶四年(880)春秋三十一
光孝天皇扶桑略記・仁和三年(887)春秋五十八
源信続本朝往生伝・寛仁元年(1017)春秋七十有六矣
亀山天皇百錬抄・正元元年(1259)御即位也春秋十一
叡尊興正菩薩伝・正応三年(1290)春秋満九十
表10 年齢に「寿」を用いた史料の事例
史料名紀年表記
日本書紀・天武14年養老4年720「是僧寿百歳」
大傅法院本願上人御伝 (続群書類従巻215)長承3年(1134)「龍猛菩薩寿三百歳」 「龍智菩薩寿七百歳」
千光法師祠堂記 (同225)健保3年(1215)栄西没「寿七十五。臘六十二」
一遍上人年譜略 (同223)正応2年(1289)一遍没「如入禅定寂化、寿五十一歳」
道元禅師行録(同225)建長5年(1254)道元没「世寿五十有四。僧臘四十有一」
永平寺三祖行業記 (同225)建長5年(1254)道元没「俗寿五十有四。僧臘三十有七」
良観上人舎利瓶記嘉元元年(1303)「寿八十七令[齢の略字か]」
注1) 大傅法院本願上人御伝以外の紀年は、僧の没年であり、史料の作成年を記したものではない。 注2) 一遍上人については、『一遍聖絵』第十二(正安元年(1299)記・続群類巻222)に「春秋五十    一」、『一遍上人行状』(続群類巻223)に「示寂焉五十一歳」と記されており、『一遍上人年譜    略』の作成年代はそれらより繰り下がるものと思われる。 注3) 鎌倉時代以降、「世寿・俗寿」は、「僧臘・法臘」と共に僧の卒伝に多く使われている。   上の表から、「寿」の用い方を考えるに、初めは、菩薩などの何百歳もの長寿の表現であったが、   鎌倉時代以降、人に対しても「春秋」の代わりとして「世寿・俗寿」(天皇は聖寿)を使用する   ようになり、次いで「世・俗」が省略されるようになったと考えられないか。   なお、千光法師祠堂記の作成年代は不承知であるが、少なくとも道元没後までは時代を繰り   下がるものと思われる。 注4)『日本書紀』天武天皇十四年十月条に「是僧寿百歳」を見いだした。「龍猛菩薩寿三百歳」   と同様に、単なる人の年齢でなく、長寿を示す表現と考える。   しかし、この「寿」は、後世の加筆の可能性が考えられる。 5 現物資料の考察 (1) 行基記と墓誌残欠  奈良国立博物館名品紹介(HP)の行基墓誌残欠は、「行基墓は文暦二年に発掘されたのち、 埋め戻されているので、現在の遺品はその後に再び掘り出されたものである」とされるが、その 盗掘の記録は見いだし得ない。  墓では「行基菩薩遺身舍利之瓶」の銀製札と瓔珞が懸かった蓋のある銀製骨藏瓶(注96) を 在銘金銅製円筒に入れ、さらに鎖と錠前が付いた銅筒に納め、八角石筒内に安置していた。  これらは、行基墓誌残欠を除き、ことごとく消えた。   現物資料として、生駒郡有里出土の鋳銅製の墓誌断片しか残されていないのは不自然といえる。  瓶記と墓誌残欠の照合については、表11―Aのとおり、井上薫が唐招提寺蔵の文書を元の瓶記 に復元している。(注97)   十七行二十字詰に配列すると、残片の四行十八字が一群をなしてあらわれるとする。  一行目の書き出しは七字、第八行は十九字、第十六行は五字、最後の十七行は十八字とする。   石田茂作は、同じく「一行約二十字詰十七行に刻された」とされ、第十行が二十一字、第十一行が 十九字で配列(表11―B)する。(注98)  しかし、図6のとおり墓誌残欠は各行に字数の不統一が見られる中、十一行目は前行より少なくと も一字多い二十一字となるので、前記二例は不可である。  次に吉岡宇一郎氏筆による藤沢一夫の復元図(表11―C)がある。(注99)  十行目は二十字、十一行目は二十一字、十六行目は四字で配列する。  吉田靖雄は、「宮内庁書陵部所蔵の『地底叢書』三十一所収「行基大僧正舎利記」(表11―D)は、 一行二十字詰で、字配りは現物に忠実で、唐招提寺本よりすぐれている」(注100) とするが、 この「行基大僧正舎利記」は、総字数が唐招提寺本より三字少なく、唐招提寺本以後に改作された と考えられる。    本来、墓誌が下書きを元にして誤りなく作成される手法(特に長文の場合に、方眼及び高句麗好 太王碑、写経等の一行同数)を採ると考えたとき、十一行目が二十一字となるのは歪つな形であり、 先に述べた数字が連続するのも不自然である。  また、全ての例について、「聖朝」の前に闕字の礼を採った結果、二文字が切り離され、「聖」の字 が、行の末尾に位置することは「天皇崇拝」の時代背景から考えて有り得ないことではなかろうか。  唐招提寺本は、「聖朝」が行頭に記載されている。(注101)
表11 舎利瓶記と墓誌残欠の比較
A 唐招提寺所蔵本(三百九字)井上薫復元

1  大僧上舎利瓶記
2 和上法諱法行一号行基薬師寺沙門也俗姓高志
3 氏厥考諱才智字智法君之長子也本出於百済王
4 子王爾之後焉厥妣蜂田氏諱古爾比売河内国大
5 鳥郡蜂田首虎身之長女也近江大津之朝戊辰之
6 歳誕於大鳥郡至於飛鳥之朝壬午之歳出家帰道
7 苦行精勤誘化不息人仰慈悲世称菩薩是以天下
8 蒼生上及人主莫不望塵頂礼奔集如市遂得 聖
9 朝崇敬法侶帰服天平十七年別授大僧上之任竝
10 施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在
11 懐勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜
12 右脇而臥正念如常奄終於右京菅原寺二月八日
13 火葬於大倭国平群郡生馬山之東陵是依遣命也
14 弟子僧景静等攀号不及瞻仰無見唯有砕残舎利
15 然尽軽灰故蔵此器中以為頂礼之主界彼山上以
16 慕多宝之塔
17  天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成

B 唐招提寺所蔵本(三百九字)石田茂作復元

10 施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在懐
11 勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜
C 唐招提寺所蔵本(三百九字)藤沢一夫復元

11 懐勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜右
12 脇而臥正念如常奄終於右京菅原寺二月八日火
16 多宝之塔

D 宮内庁書陵部所蔵本(三百六字)

1  大僧正舎利記
2 和上法諱法行一号行基薬師寺沙門也俗姓高志
3 氏也厥考諱才智字智法君之長子也本出於百済
4 王子王爾之後焉厥妣蜂田氏諱古爾比売河内国
5 大鳥郡蜂田首虎身之長女也近江大津之朝戊辰
6 之歳誕於大鳥郡至於飛鳥之朝壬午之歳出家帰
7 道苦行精勤誘化不息人仰慈悲世称菩薩是以天
8 下蒼生及人主莫不望塵頂礼奔集如市遂得 聖
9 朝崇敬法侶帰服天平十七年別授大僧正之任竝
10 施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在
11 懐勤苦弥試八十二廿一年二月二日丁酉之夜
12  右脇而臥正念如常奄終於右京菅原寺二月八日
13 火葬於大倭国平郡生馬山之東陵是依遣命也弟
14 子僧景静等攀号不及膽仰無見唯有砕残舎利然
15 尽軽灰故蔵此器中以為頂礼之主彼山上以慕多
16 宝之塔
17  天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成 
注)C 藤沢一夫「墳墓と墓誌」『日本考古学講座』第六巻、河出書房、昭和三一年、269頁。   11行目は21字であるが、吉岡宇一郎筆により、墓誌残欠の下端は揃う。 (2) 行基の火葬の特異性  行基記では、行基の卒日が天平廿一年二月二日に菅原寺において入滅、二月八日平群郡生馬 山之東陵において火葬されたとする。  埋葬日は、同三月二三日である。奈良時代の墓誌等から当時の葬儀の状況が知れる。遠藤順昭 は、「卒年から三年後に埋葬という例が伊福吉部徳足比売、美努岡萬のように存在している」「卒年 から葬日までが短期間の例として、威奈大村[六月]、太安万呂[六月]、石川年足[三月]の三例を 挙げることができる」(注102) とする。  これに対して行基は七八日である。遺体の腐敗がそれほど進行しない寒い時期であるにも拘わら ず、菅原寺から生馬山まで運んで性急に火葬していることに不自然さが残る。  むしろ、元明天皇以降の歴代の天皇の葬送と似るところがある(表6)。  「唯有二砕残舎利一、然レ尽軽灰」の表現は、火葬骨が残らなかったことを言う。  当時の火力が弱い火葬で、遺骨が残らず燃え尽きて灰になることは有り得ないことであり、『続日 本紀』道昭卒伝にあるつむじ風に吹き飛び失せる灰骨を思い起こさせる。(注103) (3) 墓の装置   『行基菩薩御遺骨出現事』は、墓では「行基菩薩遺身舍利之瓶」の銀製札と瓔珞が懸かった蓋 のある銀製骨藏瓶(図7)を在銘金銅製円筒に入れ、さらに鎖と錠前が付いた銅筒に納め、八角石 筒内に安置していたとされる。  竹林寺で発掘された忍性の墓は、花崗岩製の八角石筒が径54p、高さ75.3pであり、行基の 八角石筒を模倣したとされる(図8〜10)。(注104)   しかし、奈良時代に、八角石筒墓石の造形が存在したであろうか。  宝塚市米谷で奈良時代の火葬墓が発見される。(注105)  石櫃は、凝灰岩製で蓋と身からなる中央を半球型にくりこみ、その中に金銅製の蔵骨器が納め られていたとされる(図11・12)。  つまり、荒削りの石材に骨蔵器を直接入れるために穴を穿っただけの簡単な造作のものである。  藤沢典彦は、  「畿内の石の文化を使用石材の面から見るならば、硬質石材→軟質石材(凝灰岩)→硬質石材(花 崗岩)→軟質石材(砂岩)の展開が見られる」 「この硬質 石材→軟質石材の最初のサイクルを原始から古代と括ることができる。硬質石材の使 用の第二波は鎌倉時代に来る」(注106) とする。  造形を伴う石造製品は、建久七年(1196年)宋人石工たちによる新しい技術の導入後、東大寺中 門獅子、伊賀新大仏寺の仏像基壇、般若寺十三重層塔が造られた。いわゆる鎌倉中期以降に石 造灯籠、供養塔(五輪塔、宝筺印塔)が造られる。斉藤忠は、中世における墓として、「宝筺印塔の ほかに、宝塔、多宝塔の墓塔も発達し、墓塔の形態も複雑になった」(注107)とする。墓としての多 宝塔の存在は、中世鎌倉時代以後に出現するものである。  また、卒塔婆の建立は、平安時代末頃から行われていたとする。(注108)  これに対し、八角形石筒や瓔珞、銀製札など華美な舎利瓶塔の描写も時代にふさわしくない。  考えられることは、忍性の墓の装置を見て、忍性以上に華美・堅固な舎利瓶塔、行基墓の装置を 構想し、『行基菩薩御遺骨出現事』を記したということである。 図6 行基墓誌残欠  (略)    図7 行基舎利瓶塔  (略) (生駒市デジタルミュージアムより転載)        (注(96)史蹟調査報告より転載) 図8 竹林寺忍性骨蔵器八角形外容器  (略)       図9 忍性骨蔵器 (略) (生駒市デジタルミュージアムより転載)        (同左) 図10 竹林寺忍性骨蔵器八角形外容器  (略)     図11 米谷火葬墓の金銅製骨蔵器 (略) (水野正好より転載)                        (宝塚市史第四巻より転載) 図12 米谷火葬墓の石櫃 蓋(左)と身(右) (略)  (宝塚市史第四巻より転載)  行基の墓誌である舎利瓶記は、忍性のように舎利瓶に彫られていない。 舎利瓶を入れた銅筒に彫られているので、正確に言えば舎利瓶記ではない。  唐招提寺蔵以外の行基記が二種類見られ、(注109) そのうちの一つが先に挙げた宮内庁所蔵 の「大僧正舎利記」である。  「記」が舎利瓶に彫られたものではないので、「瓶」の文字を消しているのである。  この意味するところは、行基の舎利瓶記の実体はないままに、忍性記をそのまま模倣し、架空の 行基舎利瓶記を作製したことを物語る。 むすびに  行基舎利瓶記発見の経過が『竹林寺縁起』にあるが、行基入滅後約四八〇年後に行基及び母 の託宣により発見されたことは信用できない。  行基記に景静の名が見られるが、実在者の名があることにより信憑性が増すことがない。  本来、墓誌には第三者名を記さないことが礼儀と考えるが、ここでは景静が登場劇を演じており、 (注110)墓誌を真実らしく見せかけるために、実在した人物名を使用したものと考える。  『大僧上舍利瓶記』の信憑性については、結論として、行基舎利瓶記は、鎌倉時代の忍性舎利 瓶記を元に作製したものと考えられるので信頼できない。  行基の墓所「行基供養塔」は、近畿地方を中心に、二十四箇所あるとされている。(注111)  その中には、輿山の往生院が含まれていない。『竹林寺略録』には、行基の遺体が往生院に 運ばれ、遺骨も納められたとする。行基舎利瓶記もまた、それら数多くの行基崇拝の証の一つ として作られたものではないか。  行基の経歴については、智光のように行基を誹る者は地獄に落ちる話があるが、現実には 行基の名である限り、伝記をどのように書いても、行基の墓所の正当性を主張しても、どこから の咎めもなく、許容されてきた。  米山孝子は、「時代が下るごとに、行基伝にも様々な要素が加わって変容を余儀なくされる。」 とし、行基の祖先を漢高祖、百済王子王仁と結ぶ理由は、「行基が漢王という貴種の流れをくむ 人物であることを知らしめるという一点につきるだろう」とする。(注112)  続日本紀の行基卒伝は、「薨時年八十」と「薨」の字を使用している。(注113)  これは、今まで行基研究者の誰もが注目せず、黙殺ないしは無視してきた観がある。  卒伝の「薨、卒、死」には、明確な区分があり、喪葬令では、「薨」は親王及び三位以上の官位 を有するものに使われる(注114) ので、「行基」はそれに相当する地位の高い人物の一号と考え ることができる。  年譜は、行基の功績の一部を伝える資料であるが、行基の伝記が変容著しいように、年譜も また、後世多くの手が入り、改ざんされながら伝えられてきたと思われる。  年譜が有する性格とは、伊丹における活動の記載にみたとおり、行基に関係する事柄を暗示、 誘導する暗号書の役割を担っていると考える。  そして、年譜の暗号を解くことによって、隠された行基の真実の姿に近づくことができると考える。
(84)『国史大辞典』第12巻、713頁、墓誌別表「古代の墓誌・行基墓誌」中、「行基に    ついては伝説的な内容の資料が多い中にあって、信憑性の高い最古の資料といえる。」 (85) 吉田一彦「行基と霊異神験」『民衆の導者行基』吉川弘文館、2004年、139頁。 (86) 東野治之『日本古代金石文の研究』2004年岩波書店頁36―37頁。 (87) 忍性墓誌の出所は、安藤康一「極楽寺忍性塔納置の骨臓器」(『月刊文化財』昭和52年    9月号・第168号、第一法規出版、19頁)に拠った。『鎌倉市史』(資料編第3、鎌倉市、    吉川弘文館、昭和33年、400―401頁)を参考とした。 (88)『大辞林』わじょう[和尚・和上]は「律宗、法相宗、真言宗で、受戒の師となる僧。    また、修行をつんだ高僧」とある。 (89) 釈尊の涅槃の時を「右脇を下にして足を重ねた禅定に入ったままの安らかな入滅で    あった」とする(『美術にみる釈尊のあゆみ』奈良国立博物館、昭和59年、52頁)。 (90) 安藤康一「額安寺五輪塔納置の骨臓器」『月間文化財』第255号、昭和59年12月    号、第一法規出版。 (91)『特別展発掘された古代の在銘遺宝』奈良国立博物館、1989年、78―96頁に記    載する出品番号、40―55までの十六点。    遠藤順昭注(102)論文、567頁に記載する十六点。 (92) 木崎愛吉『大日本金石文』第1巻3頁。 (93) 藤沢一夫は、「舎利瓶記」の王爾は、船史の祖王辰爾と同一人物であったとする。    (「僧・行基の出自」『古代文化』第9巻第6号・通算第61号、古代学協会京都事務所、     昭和37年、161頁) (94) 梅原末治「王爾と云ふは百済王族たる船史王辰爾を指すにて、記又は其の辰字を脱    せしに非ざるかとも考えらるゝが、…其の王爾と云い、王仁と云ふ恐らく同一人を指せる    ものたるべし」とする(「行基舎利瓶記に見えたる其姓氏と享年に就て」『考古学雑誌』    第5巻第20号、大正4年、910頁)。 (95)東野治之は、「(一)「天皇」の語や船氏一族の人名に闕字の礼をとっていること、   (二)推古朝の冠位を「官位」(官職の等級の意)と呼んでいること、   (三)固有名詞を表記した字音仮名中に、『日本書紀』にしか使用例のない沛(へ)、婆(サ)   があることなど、二、三の新しい要素が認められる」とし、「船首王後墓誌の製作を七世紀   末から八世紀初め頃と見た方が、前記(三)の特徴は理解しやすい。追納などの可能性を、   視野に入れておく必要がある」とす   る(『日本古代金石文の研究』岩波書店、2004年、34―35頁)。 (96) [室町時代に]模蔵した舎利瓶塔が唐招提寺に伝えられている(井上薫『行基』217頁)。    舎利瓶塔の写真は、『奈良県に於ける指定史蹟』(史蹟    調査報告第3集、昭和2年、内務省)の「行基墓」の項に掲載されている(図5)。     舎利瓶が銀製であることは、『阿不幾之山陵記』によると、行基墓の開掘と同じ年の文    暦2年に盗掘された持統天皇の骨壷が銀製であったことから、この記により、「文暦2年、    銀製舎利瓶」が模倣されていると考える。(『日本書紀』第5巻、岩波文庫、243頁。) (97) 井上薫『行基』214頁。 (98)『行基事典』井上薫編、国書刊行会、平成9年、278―279頁。 (99) 藤沢一夫の復元図(表C)「墳墓と墓誌」『日本考古学講座』、河出書房、268―269頁。 (100) 吉田靖雄「宮内庁書陵部所蔵の『地底叢書』31所収「行基大僧正舎利記」(表D)17     ―18頁)。 (101)『国史大辞典』第四巻「行基墓誌」287頁。井上薫『行基』213頁。 (102) 遠藤順昭「上代墓誌に関する一考察」『藤沢一夫先生古希記念古文化論叢』同書刊     行会、1983年、578頁。 (103)『続日本紀』文武天皇4年3月己未(10日)条。 (104) 水野正好「叡尊・忍性の考古学」『叡尊、忍性と律宗系集団』大和古中近研究会、     2000年、5頁。 (105)『宝塚市史』第一巻308頁、第4巻178頁。 (106) 藤沢典彦「律と石」『叡尊、忍性と律宗系集団』大和古中近研究会、2000年、31頁。 (107)「墳墓の考古学」『斉藤忠著作選集』第四巻、雄山閣、1996年、31頁。 (108)「墳墓の考古学」28頁。 (109) 昆陽寺巻物『行基菩薩記文遺式状』の中に延宝3年(1675)の奥書のある写し(307     字)がある(『伊丹市史』第1巻326頁)。     宮内庁所蔵の「大僧正舎利記」との比較では、題字の「瓶有り」、本文中「大僧正」の     「正」が「上」のまま未訂正であるので、宮内庁所蔵の「大僧正舎利記」の前に位置づ     けられ、元本(写し)は、唐招提寺蔵→昆陽寺蔵→宮内庁蔵の流れで作成されたと考     えられる。 (110) 「景静攀号不及」とあるが、『大唐西域記』に「出家の僧衆は制して号泣することなし」と     火葬時の僧侶の所作が述べられている。(石村喜英『日本古代仏教文化史論考』山喜     房佛書林、昭和62年、393頁。) (111) 根本誠二「語り伝えられる行基」『民衆の導者行基』193頁。) (112) 米山孝子『行基説話の生成と展開』平成八年、勉誠社、48頁。 (113)『続日本紀』天平勝宝元年2月丁酉(2日)条。 (114) 喪葬令第15は、「凡そ百官身亡なわば、親王及び三位以上は薨と称せよ」とある。     大僧正の位が上記に準ずるかをみたとき、行基の次に大僧正となった鑑真は、続日     本紀卒伝(天平宝字7年5月戊甲(6日)条)に「物化、遷化」とあり、「薨」は行基個人の     身分に付随するものと考える(『律令』日本思想体系第3巻、岩波書店、438頁)。 (参考文献) 『国史大辞典』第四巻「行基年譜」、「行基」、「行基墓誌」。 『行基年譜』、『続日本記』、『群書類従』、『続群書類従』、『大日本仏教全書』。 井上薫『行基』、吉川弘文館,1959年。 『行基 鑑真』日本名僧論集第1巻、吉川弘文館、昭和31年。 『行基事典』井上薫編、国書刊行会、平成9年。 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館,1987年。 千田稔『天平の僧 行基』中公新書1178,中央公論社,1994年。 根本誠二『奈良仏教と行基伝承の展開』、雄山閣出版、平成3年。 米山孝子『行基説話の生成と展開』平成8年、勉誠社。 『民衆の導者行基』日本の名僧〈2〉速水侑編、吉川弘文館、2004年。 中井真孝『日本古代の仏教と民衆』評論社、昭和48年。 『大阪の歴史と文化』和泉書院、1994年。 『行基と渡来人文化』たる出版、2003年。 『探訪古代の道第三巻河内みち行基みち』法蔵館、1988年。 『淀川流域の交通史』枚方市教育委員会、平成9年。 吉田一彦『民衆の古代史』風媒社、2006年。 木崎愛吉「摂津昆陽寺鐘銘」『大日本金石史』第1巻、歴史図書社、昭和47年。 森本六爾『日本の古墳墓』木耳社、1987年。 藤沢一夫「墳墓と墓誌」(『日本考古学講座』第6巻)。 「墳墓の考古学」『斉藤忠著作選集』第四巻、雄山閣。 『日本古代の墓誌』図録第三冊、飛鳥資料館、昭和52年。 『伊丹市史』、『宝塚市史』、『尼崎市史』、『芦屋市史』、『兵庫県史』、『奈良県史』、『鎌倉市史』。 『地域研究いたみ』、『伊丹史学』、『兵庫史学』、『ひょうご考古』。 『伊丹古絵図集成』、『昆陽組邑鑑』、『伊丹史話』、『伊丹の伝説』。 『伊丹の寺院』伊丹市博物館友の会。 『大日本地名辞書』吉田東吾、『摂津名所図会』、『摂陽群談』、『雍州府史』。  

(補論)行基・忍性の舎利瓶記について

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