目次 1 中将姫の史料 2 中将姫と行基 3 伝承上の中将姫 4 中将姫を取り巻く人たち 5 藤原家の女たち 6 当麻曼荼羅の憶測 はじめに 中将姫は、奈良の當麻寺に伝わる『当麻曼荼羅』を織った、日本の伝説上の人物とされている(1) が、井上大ミは、「中将姫の存在も記録と史実とは全く合わない。」(2)と指摘している。 平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材ともなった。 実在しない説話上の人物としては、『竹取物語』のかぐや姫がある。 中将姫の説話は、中将姫の妹の白滝姫(3)、あこや姫説話(山形県の伝説) (4)と拡大される。 他方、中将姫と同様に奇跡を行う点では共通であるが、更に超能力を持ち超人的な足跡を残す行基 については、実在を疑われる人物になっていない。行基は、鎌倉時代に行基墓が発掘されるまでは伝 説上の人物とみなされていた(5)とされるが、拙論で行基墓の発掘及び明治期の墓誌残片の発見は疑義 あることを論じた。 中将姫は実在しなかった人物なのか、中将姫伝説に見合う時代とその周辺を考察する。 1 中将姫の史料 表1 中将姫の史料注)江戸時代以降の資料は多くあるが、筆者が限定的に選択した。 『諸寺縁起集(大日本仏教全書118)』の当麻寺項「極楽反曼荼羅織日記」には、天平宝字7年6月 23日に、化人が麻呂子親王夫人に蓮糸変相を与える。天平宝字8年頃ヨコハギ大納言娘曼荼羅を写 す発願に化人が一夜で織りて姿を消すことを記す。この当麻曼荼羅図成立に関する初期の文献は長 和・寛仁の頃のものと推定されている。(6) ついで、11世紀末に成立したとされる『伊呂波字類抄』10巻本は、「当麻寺名禅林寺在大和国、 横帯大納言女子建立」とされるが、橘忠兼が編集した『色葉字類抄』2・3巻本にない記述であり、 中将姫伝承が拡大変容する端緒となっているように思われる。 中将姫の名前は、初め「ヨコハギ大納言娘」から「中将局」「中将」「中将女」「中将内侍」 「中将の妃」「横佩家の郎女」「中将姫」のほか、出家して「せんに(禅尼)比丘」「法如」「本願 尼」「法女」「善心比丘尼」「妙意」「中将法如(比丘尼)」などと変遷する。 時代を経るに従って、中将姫の名称が変化するとともに中将姫に係る伝承が横帯大納言女子の当 麻寺建立(7)を初め、当麻曼荼羅織成から、中将姫の一生への伝承になるに連れて、長谷寺観音の申 し子、継子いじめ譚など様々な要素を加味し、謡曲・浄瑠璃・歌舞伎などにも作られるようになり 「中将姫」という名を広く知らせるようになった。(8) これは、行基の説話が、小僧と呼ばれた弾圧の時から法師、大僧正と昇りつめる中、婆羅門僧正 との和歌の贈答、大仏勧進、智光説話など変容していくのに似ていることが指摘できる。 2 中将姫と行基 表2 中将姫と行基
史料 成立 作者 内容等 諸寺縁起集 長和・寛仁(1012-1021) 清範 当麻曼荼羅織成 (麻呂子親王夫人・化人) 天平宝字8年ヨコハギ大納言娘曼荼羅を写す発願。 伊呂波字類抄 11世紀末 橘忠兼 当麻寺名禅林寺在大和国、横帯大納言女子建立 建久御巡礼記 建久3(1192) 実叡 当麻曼荼羅発願(麻呂子親王夫人・ヨコハギ大納言御娘二説)、天平宝字7年(763)6月23日有化人、以蓮糸織成。極楽往生。 当麻曼荼羅注 貞応2(1223) 証空(門下) 「正二位横佩右大臣尹統息女字中将局」(中将の初見) 当麻寺流記(九条家本) 寛喜3 (1231) 宰相中将入道 「横佩右大臣尹統息女字中将」称賛浄土経一千巻書写、一夜竹、横佩横佩の墓。 大和国当麻曼荼羅縁起(仁和寺本) 建長5(1253) 証空 本願横佩大臣鍾愛女と比丘尼の前で、機織女が宝字7年6月23日一丈五尺の曼荼羅一鋪を竹の節無きを軸とし、掛けて祀る。 古今著聞集 建長6(1254) 橘成季 横佩大臣藤原尹胤鍾愛の女・本願禅尼 私聚百因縁集 正嘉元(1257) 住信 孝謙天皇時「中将内侍」「姫君」 和州当麻曼荼羅縁起(禅林寺本) 弘長2(1262) 道観証恵 実在の藤原豊成の名を用いる。以後姫の父は豊成に定着する。 一遍聖絵 正安元(1299) 聖戒 「中将の妃」 続教訓抄 1210-1322 狛朝葛 「中将姫」 元亨釈書 元亨2(1322) 虎関師錬 僕射拱佩右大臣女、天平宝字6年7月当麻寺入寺、宝亀6年(775)3/14逝去。年齢なし。 尊卑分脈 1377-1399 洞院公定 藤原豊成女子当麻曼荼羅本願号中将姫 当麻曼荼羅疏 永享8(1436) 酉誉聖聡 横佩右大臣豊成息女中将姫。継母左大臣諸房女。17歳「中将内侍」弟少将14歳没。継子いじめ譚が付加される。 当曼白記 慶長19(1614) 袋中良定 唱導談義の重点が曼荼羅織成より姫出家の動機に移る 中将姫本地 慶安4(1651) 御伽草子 せんに(禅尼)比丘、横佩右大臣豊成、継母の計略 南都名所集 延宝3(1675) 太田叙親・村井弘道 天平19年(747)生、宝亀6年(775)3/14没、29歳、 法如・善心比丘尼 奈良名所八重桜 延宝6(1678) 大久保秀興・本林伊祐 養老6年(722)生、宝亀6年(775)4/10没、54歳 奈良坊目拙解 享保15(1730) 村井古道 天平19年(747)生、宝亀6年(775)4/14没、29歳、中将姫の母は百能 中将姫行状記 享保15(1730) 致敬 父「従一位右大臣横佩朝臣豊成卿」、実母「二位紫侍従と云える女官なり」継母「橘の諸房卿(あるいは諸兄)の御息女照夜前」異母弟宝寿丸 当麻変相考 延享2(1745) 忍海 中将姫の母は藤原百能 中将姫一代記 寛政13(1801) 灌河道人 法如25才豊成公七回忌のため、称賛経千部を書写。 誕生寺三棟殿略縁起 文政9(1826) 中将姫天平19年(747)8/18―宝亀6年(775)3/14姫は天平19年8月18日の早朝に生を受け、父親の藤原豊成はその日のうちに「中将内侍」の官名の勅許を受けたことから中将姫と呼ばれる。中将姫母を百能とする。 中将姫の墓塔は、奈良市徳融寺とともに当麻寺北墓地に十三重石塔があり、行基の1100年紀供養 碑と共にある。 中将姫との比較において、大きく異なる点は没年齢である。 今でこそ、82歳の高齢は不思議でないが、奈良時代にあって60歳を超えて課役を免除される高齢は 奇跡ではなくとも、数多くあったことではないだろう。この82歳は古事記が43歳とする継体天皇 の年齢を日本書紀が82歳とするのと同じである。ある意味、稀有な出来事、奇福であったことだろ う。しかし、年齢はともかく、超能力を用いて民衆を教導したり、文殊の化身とされる行基を実在 の人物を考えることはできない。 一夜で曼荼羅を織り、生きたまま極楽往生する中将姫が伝説上の人物ならば、これに類する行基な る人物も伝説上の人物であると考えても良いのではなかろうか。 ただ、中将姫の父が実在する藤原豊成ならば、息女中将姫の実在を想定することは可能だろうし、 また同様に、行基は渡来系の高志氏(百済王の末裔)でなく、カリスマ性を持った人物の存在を想定で きるかもしれない。 行基と中将姫が係わる共通の数字がある。「25」と行基四十九院の「49」である。 (9) 「中」に関しては、『古今著聞集』における中将姫の説話は、聖徳太子と行基の説話の真ん中に挿入 される。(10) 3 伝承上の中将姫 (1)中将姫の伝承地 表3 中将姫の伝承地
項目 中将姫 行基 長谷寺 豊成・紫の前、出生祈願 房前・長谷寺供養導師 曼荼羅 当麻曼荼羅 智光曼荼羅 写経 浄土佛摂受経1000巻 不明 奇跡 ・化人が一夜で蓮糸曼荼羅を織る。
・中将姫が一夜で当麻曼荼羅を織る。節のない竹。
・弥生満月の日に25菩薩に迎えられ、生きたまま極楽浄土に旅立つ。
・龍田川の鳴動を止める。・文殊の化身、杖が根付く。
・膾を食して池に吐き出すと小魚になって泳ぎだす。竹杖−竹生島行基伝承
・49院建立。菩薩
・民衆の救済安養寺 中将姫開基 本尊阿弥陀如来行基菩薩作(奈良坊目拙解) 生年(没年齢) 743/747年〜宝亀6年(775)3/14 (29歳) 670/668年〜天平21年(749)2/2 (80/82歳) 行道 二十五菩薩来迎会(練供養) 薪の行道、四十九院、二十五三昧所 当麻寺北墓地 中将姫供養塔(十三重石塔) 行基1100年供養碑 古今著聞集 中将姫 聖徳太子・行基(昆陽寺鐘) 世阿弥 当麻・雲雀山 難波・蘆刈 袋中 当麻曼荼羅・当麻踟供養図記・当曼白記 智光曼荼羅・山崎・橋本・飯岡・瓶原 再会 父との再会 菩提遷都との再会 伊勢神宮 23歳参拝(行状記・一代記略) 伊勢参宮(宇佐八幡宮縁起) 八幡神 称賛浄土経を授与(一代記略) 石清水寺建立 熊野信仰 熊野詣道(紀伊國有田郡糸我得生寺) 熊野大神勧進(伊丹市昆陽) その他 当麻寺名物サワガニ、姫餅(蓬餅・草餅)、中将姫和讃、西堂 蟹幡寺、蟹供養 行基和讃、西芳寺西来堂 注)中将姫の伝承は全国に広がるが、近畿の主要なものに留めた。 (2)中将姫の略歴 表4 中将姫の略歴
伝承地 遺物 現在地 誕生寺・三棟殿 天平15年(743)8/18―宝亀6年(775)3/14「中将法如尼坐像、産湯を使った井戸 奈良市三棟町 徳融寺 豊成公中将姫御墓・虚空塚・姫捨ての松 奈良市鳴川町 安養寺(横佩堂) 中将姫開基(知れ難し)、本尊豊成卿安置仏(行基作) 奈良市鳴川町 高林寺 豊成古墳 奈良市井上町 日張山青蓮寺 中将姫自作19歳像・松井嘉藤太妻形像及び墓 奈良県宇陀市菟田野宇賀志 雲雀山得生寺 中将姫の作「蓮糸縫三尊」「紺紙金泥三部経」「称讃浄土経」、重要美術品の「当麻曼茶羅図」、 開山堂には中将姫と春時の座像。雲雀山には「机の巌」や「経の窟」などもある。 和歌山県有田市糸我町 福王寺(雲雀山) 雲雀山・中将倉や糸の懸橋・布経の松・運び堂・琴の淵・位牌、勘定仕宅跡板碑・由来記 橋本市恋野 当麻寺 曼陀羅堂の中将姫座像二十九歳像・称讃浄土経一千巻 奈良県北葛城郡当麻町 中の坊 中将姫剃髪堂・誓いの石・中将法如 奈良県北葛城郡当麻町 石光寺 染の井・糸掛け桜が伝わる。 奈良県北葛城郡 注)当麻曼荼羅疏による略歴は日向一雅を参考とした。(11) 実母紫の前は、中将姫が7歳の時に世を去り、父豊成は継母照夜の前を迎える。「奈良絵本中将姫 本地」などにおいて、母の死は3歳であり、『当麻曼荼羅疏(以下『疏』と略す)』以後では、それが 主流になるようである。継母を迎えた後は、継母から疎まれる。 13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍、弟は少将となる。紀国在田郡ひばり山に棄てられる。 15歳の時、豊成に再会。17歳出家、蓮糸曼荼羅を織る。 曼荼羅は化仏尼や織工の化人が協力して、一夜で織り成す。 29歳の時、聖衆来迎して往生す。 曼荼羅を織成後、13年後に聖衆が極楽浄土に来迎するというのが多い。 史実との比較では天平宝字元年(757)豊成筑紫左遷(54歳)の時、中将姫は11歳であり、宝字8年 (764)18歳の時、仲麻呂の乱が起こる。神護景雲元年(767)豊成薨は21歳の時である。 後者二つの歳に出家の話が作られる。 (3)中将姫の没生年 表5 中将姫の生没年
年齢 当麻曼荼羅疏(1436成立)による略歴 その他の説 1歳 豊成夫妻長谷寺観音に祈り、姫君誕生。 天平19年(747)8/18生(中将姫行状記) 3歳 弟誕生。 実母死(奈良絵本・中将姫本地・本朝女鑑抄) 5歳 実母死(中将姫行状記・青蓮寺縁起) 7歳 母の死、継母(左大臣諸房女)を迎える。 称賛浄土経読請、母の菩提を弔う(中将姫本地) 8歳 継母に豊寿丸生まれる(中将姫行状記) 9歳 姉弟葛城山地獄谷に遺棄、帝に救われる。 13歳 中将内侍、弟少将となる。 称賛浄土経1000巻写経を始める(当麻寺縁起・享禄本) 14歳 紀国ひばり山に棄てられる。 菟田野雲雀山青蓮寺にも同じ伝承がある。 15歳 父と再会、中将姫入台。 16歳説/出家15歳(中将姫本地) 16歳 弟没。当麻寺に入る。 称賛浄土経写経成就 17歳 出家、蓮糸曼荼羅を織る。 天平宝字6年6/15出家、同6/23曼荼羅織成、21歳説(奈良絵本) 18歳 出家(中将姫絵伝) 21歳 出家(奈良絵本)、淳仁天皇後宮に望まれる。 25歳 豊成七回忌供養(一代記略) 29歳 聖衆来迎して往生す。 宝亀6年(775)3/14往生。34歳説(奈良絵本)、54歳説(奈良八重桜) 中将姫の没生年・年齢は、史料により異なるものの、概ね中将姫は天平十九年(747)生、宝亀6年 (775)3/14没、没年齢は二十九歳とするものが多い。 ここでは、天平十九年生と二十九歳没を注目しておこう。 (4)中将姫の謎解き 中将姫は、伝説上の人物とされ、架空の存在と見做されている。そして、中将姫の原像は、百能と する見方がある(12)が、これは豊成女の中将姫説話自体を否定するので論外とする。 中将姫の説話において、「中将姫」は、横佩右大臣女から後発的に変容した名前であるが、石川知 佳は、「疏の本文のなかで、横佩右大臣の子の呼称は「女子」「姫君」「中将姫」と変化する。中将 姫という呼称については、言及されていないが、『私聚百因縁集』と同様、中将内侍という役柄にあ ったことに由来していることは本文から読み取れる。」(13)とされる一方、『誕生寺三棟殿略縁起』 では、中将姫の名前は、天平十九年(747)に生まれたその日に、豊成が「中将内侍」の官名を勅許され たことから中将姫と呼ばれるようになったとの異論がある。 田中貴子らは、「なぜ、「中将」なのかは分からない。」とされる。(14) 「中」は「あたる」と訓付けられる。 「中」が使われるのは、上下・前後・長幼の順と関係するだろう。 「中将姫」は、「姫」自身が「中将」と読み取れるが、「中将の姫」とすれば、豊成が天平十二年中 衛大将になるから、二字中略で豊成を「中将」としたのかもしれない。 「中将姫」の「ちゅうじょう」は「中嬢」を想像し、また、そのように連想するかもしれない。 「中将の姫」を「中嬢の姫」に置き換えると、「中嬢の姫」の母は豊成室であるから、「中嬢」=豊 成室は、房前の二女を意味するのではないか。(15) (5)実在する中将姫 中将姫は、『尊卑分脈』の藤原氏家系には、豊成女として、中将姫の記載がある。(16) それでは、実在の中将姫は、いつ生まれたのであろうか。 中将姫の兄弟を見る。 表6 中将姫の兄弟
史料 生年 没年 年齢 備考 奈良絵本中将姫 天平14年(742) 宝亀6年(775)3/23 34 生年は、没年34歳から逆算した。(日向一雅中将姫説話覚書P9) 奈良名所八重桜 養老6年(722) 宝亀6年(775)4/10 54 天平7年(735)当麻寺宝蔵院落飾14歳/毎月卯月14日法事あり。 南都名所集・諸国案内旅雀 天平19年(747) 宝亀6年(775)4/14 29 中将姫本地 天平12年(740) 神護景雲元年(767)6/23 28 生年は、15歳出家、13年後往生から算定 死者の書 天平13年(741) 豊成左遷757年、姫17歳より算定 奈良観光 天平15年(743)8/18 宝亀2年(771)3/14 29 元近畿大学教授藤原敞作成 当麻曼荼羅縁起 鎌倉時代 宝亀6年(775)8/14 高野山清浄心院蔵 一代記・奈良坊目拙解・中将姫行状記 天平19年(747) 8/18 宝亀6年(775)3/14 29 奈良坊目拙解は宝亀6年(775)4/14没。 中将姫の名が記される『尊卑分脈』家系図からみると、藤原豊成には、四人の男子と中将姫がい る。藤原豊成の妻は、路真人虫麻呂の女が武良自、継縄(727-796)・乙縄(?-781)の三男を生み、 北家房前の女(殿刀自)が縄麻呂(729-779)を生む。『尊卑分脈』には、中将姫の母の記載がない。 注目すべきことは、中将姫が長男武良自(良因)と次男継縄の間に位置することである。 中将姫は、豊成長男の武良自(良因)の生年は不明であるが、二男継縄(727-796)より年長となるの で、727年以前の生まれとなり、天平十九年(747)は20年以上後になる。 中将姫が727年以前誕生とする史料には、養老6年(722)生の『奈良名所八重桜』がある。(17) 中将姫伝承には、色々な類型があるが、実在した中将姫の真の姿を見えなくしている。 鍵となる数は誕生年の「19」と往生年の「29」と思われる。 (18) 特に、中将姫が生まれた天平十九年は、その年に誘導するための年次ではないかと思われる。 4 中将姫を取り巻く人たち (1)中将姫伝説に係る藤原豊成
氏名 生没年 母 従五位昇授 備考 武良自(良因) ? 路真人虫麻呂女 勝宝6(754)1/16・? 一男 中将姫 ?-775 紫の前 長女 継縄 727-796 路真人虫麻呂女 宝字7(763)1/9・37歳 二男 乙縄 728?-781 路真人虫麻呂女 宝字8(764)10/7・37歳? 三男 縄麻呂 729-779 藤原房前女 勝宝1(749)4/1・21歳 四男 藤原豊成は、ヨコハギ大臣とか横佩(右)大臣とか言われるほか、横萩大臣や横帯大納言・伏突大納 言などとされる。 後、『和州当麻曼荼羅縁起』に豊成という実在した人名が出てから、中将姫の父は 藤原豊成に集束されていく。 横佩の由来は、一般に、刀を横に帯びる意味らしい(19)が、横佩は、大和国葛城郡の郷名にして豊 成公別業があったので、豊成を横佩(右)大臣という。(20) また、横佩は、廟所(横佩墓)の名によりていふなり(『大和名所図会』89頁)ともある。 『尊卑分脈』には、「号横佩大臣、薨横佩墻内之故也」とする。 横佩(右)大臣というのは、別称というよりも本名を伏せた仮名乃至は暗号名であったやも知れない。 中将姫の母名紫の前や継母照夜の前も同様であろう。(21) (2)中将姫を取り巻く人物 中将姫の母名紫の前や継母照夜の前など隠された名前を追っていきたい。 表7 中将姫を取り巻く人物
ヨコハキ(ギ)ノ大納言・横帯大納言・伏突大納言・大納言横佩卿・横佩大納言尹統朝臣・藤原豊成公・横佩右大臣豊成・横萩大臣・横佩大臣藤原尹胤・正二位横佩右大臣尹統(マサムネ)・従一位横佩朝臣豊成公・僕射藤拱佩 中将姫の伝承では、中将姫の母紫の前が亡くなって、継母の照夜の前を迎えることになる。 酉誉聖聡の『疏』は、豊成・妻が長谷寺に祈願して姉弟を儲けたことを記すが、少将となる弟は 14歳で亡くなる。 また、『中将姫行状記』は、照夜の前の子、異母弟豊寿丸を記し、中将姫に弟がいる設定になって いることは注目される。 (3)紫の前 伝承上の母である紫の前は、品沢親王の娘又は藤原百能とされている。紫の前の名前は、藤原豊成 を横佩大臣としたように実名を隠した仮名であろう。 表8 紫の前
藤原豊成の妻 子 備考 紫の前 中将姫・少将(二歳年下の弟) 品沢親王の娘又は藤原百能 照夜の前 法寿丸(豊寿丸) 藤原百能又は橘諸兄or諸房の娘 豊成の室である紫の前は、品沢親王の娘とする史料が多く、品沢親王は、歴史上見えないから仮空 の名であろうし、麻呂子親王夫人との結びつけを暗示させるのではないか。 他方、藤原百能は藤原麻呂の女で実在する人物である。 延享2年(1745)『当麻変相考(忍海上人記)』では、中将姫の母は藤原百能とする(22)が、洞院公定の 『尊卑分脈』や同時代の『奈良名所八重桜』を否定しなければならない。 さて、先に、中将姫に関して天平十九年が注目されることを述べた。 『一代記、奈良坊目拙解、中将姫行状記』などの中将姫の生年の天平十九年と紫の前の没年の天平十九 年(奈良観光)である。 表10のとおり、『続日本紀』によると、藤原殿刀自は、天平十九年一月二十日、無位から正四位上 に初叙位を賜る。この時、豊成は従三位右大臣であったから、豊成室として叙位されたものと思われる。 そして、以後の『続日本紀』には藤原殿刀自のその後の動向が見えない。(23) 中将姫の母は、天平十九年を過ぎた三〜七歳の時に亡くなるから、『続日本紀』に見えない殿刀自は 亡くなったと想定すると中将姫伝承と一致する。 藤原殿刀自は、拙考「藤三娘考」で、豊成室の北家房前女と比定した。 紫の前は、藤原房前女の殿刀自と考える。 遠藤慶太は、「豊成の嫡妻は房前女ではなかろうか。房前女が生んだ縄麻呂は、四男であるのも関わ らず兄である継縄、乙縄よりも昇進が早い。四男である縄麻呂がそのような扱いを受けた理由は、母の 出自に求められる。」(24)とするが、母の出自と同時に、右大臣豊成室となった母の位階が高かったこ ともその理由であろう。(25) (4)照夜の前 表9 照夜の前
紫の前 史料 備考 品沢親王の娘 誕生寺縁起、中将姫絵伝 藤原百能 誕生寺縁起、中将姫絵伝、奈良坊目拙解 元正天皇第五皇子息女(二位紫侍従) 田中貴子 津村順天堂の伝説(28頁) 照夜の前は、『疏』に左大臣橘諸房娘とされるが、右大臣藤原豊成の同時期における左大臣は橘諸 兄であり、この左大臣橘諸房は、橘諸兄の名を隠したものと思われる。 橘氏系図には表れないが、『続日本紀』に出自が不明な橘姓の女性がいる。 次の表を見てほしい。 表10 豊成妻と思われる女性
照夜の前 史料 備考 橘諸房の娘 当麻曼荼羅疏、中将姫絵伝、青蓮寺縁起 左大臣橘諸高娘/橘氏女照夜 橘諸房あるいは橘諸兄の娘 誕生寺縁起、田中貴子(津村順天堂の伝説) 藤原百能 中将姫絵伝、奈良坊目拙解、当麻変相考 橘通可能なる人物が天平感宝元年(749)四月十四日に、藤原殿刀自と同様の正四位上の初叙位を受 けている。叙位の同日、橘諸兄は正一位を叙位しているから、通可能は諸兄の親族と考えられ、諸兄 女の可能性が高い。(26) 同日、従三位豊成もまた右大臣を拝命しているから、通可能の「正四位上」という初叙位は殿刀自 と同様であり、豊成室に相応しい叙位と考えられる。(27) そして、豊成は諸兄政権を支えた人物(28)であるから、殿刀自の死後、諸兄女の通可能を豊成の後添 えとしたのであろうか。 そのように考えると、殿刀自は天平感宝元年(749)四月ごろまでに亡くなった可能性がある。 伝説上の中将姫は、紫の前の初子で天平十九年(747)生とされるから、殿刀自と紫の前が同一人と 想定すれば、中将姫三歳の時までに紫の上が亡くなったことになり、中将姫伝承の一部と合致する部 分がある。 しかし実在の中将姫に殿刀自所生の弟縄麻呂が存在するならば、中将姫は、縄麻呂の生年天平元年 (729)より早く生まれたことになり、中将姫伝承の天平十九年(747)生と約二十年近くの齟齬を生ず る。(29) また、継母である照夜の前は、離婚や追放、入水自殺、身を隠すなど所在が不明になるが、橘通可 能もまた天平感宝元年(749)四月十四日以後の動向は『続日本紀』などに見えないから一致するところ がある。 そして、橘通可能の後に、藤原百能が豊成の後妻に加わったものと考えられる。(『続日本紀』延暦 四年四月己巳(十七日)条/百能薨伝) 5 藤原家の女たち 『続日本紀』などに見える藤原家の女たちをまとめる。 (1)鎌足の娘 斗売姫(中臣意美麻呂妻)、氷上媛(天武天皇夫人)、五百重媛(天武天皇夫人、後不比等室)、耳面刀 自(大友皇子妃) (30) (2)不比等の娘 宮子から光明皇后まで八名を拙考「藤三娘考」に掲げた。この中で、『続日本紀』に一度だけ現れ、 最後に残った藤原駿河古を消去法により大伴古慈斐室に比定した。 (3)藤原四家の女 表11 藤原四家の女たち
名前 『続日本紀』の記事 備考 路真人虫麻呂女 武良自、継縄(727-796)・乙縄(?-781)の母 北家房前女 縄麻呂(729-779)の母 藤原殿刀自 天平19年(747)1/20 無位→正四位上 以後見えない。 橘通可能 天平感宝元年(749)4/14 無位→正四位上 同日、豊成右大臣任。以後見えない。 藤原百能(720-782) 天平感宝元年(749)4/1無位→従五位下
天平宝字8年(764)9/20正五位下→従三位
神護景雲2年(768)10/15従三位→正三位
宝亀9年(778)8/15 正三位→従二位続日本紀藤原百能薨伝に豊成後妻とされる。 注) 橘入居母(31) 殿刀自は、中将姫母の住まいに「三棟殿」の名前が残され、「殿」という文字が使われるから、中 将姫伝承の母とも重なる部分がある。 (4)万葉集の藤原郎女 万葉集766に、大伴家持(718-785)が妻坂上大嬢に送った歌を聞き、藤原郎女が和した歌がある。 天平十二年(740)十二月のことであるから、家持二十三歳であり、藤原郎女は出自が不明である。 恭仁京にあって、家持の近くにいたこの藤原郎女は誰であろうか。 後、天平勝宝二年(750)、家持の婿南家右大臣家藤原二郎慈母の逝去にあたり、家持が詠んだ歌が万葉 集19-4216にある。 南家右大臣家藤原二郎は、仲麻呂次男の藤原久須麻呂(訓儒麻呂)とする説(32) もあるが、藤原久須 麻呂母の哀比良女は天平宝字六年に薨じるから、南家右大臣家藤原二郎は、豊成次男の藤原継縄(右大 臣延暦9年2月27日任)を指すものと考える。 若い家持に気軽に歌を和した藤原郎女は、藤原哀比良女と考える。 後に、万葉集4-768〜792のとおり、家持と藤原哀比良女の子久須麻呂が頻繁に和歌を贈答するからで ある。 6 当麻曼荼羅の憶測 (1)当麻曼荼羅の史料 永暦2年(1167)曼荼羅堂が勧進僧観融・観智・増賀らによって棟上げされた。 治承4年(1180) 兵火により講堂が全焼、金堂も一部罹災したが、寿永三年(一一八四)に興福寺別 当信円の下で金堂が上棟された。 建久二年(1191)歳末、藤原多子が南都を巡礼し(33)、実叡が『建久御巡礼記』を著した。 「平安時代半ばの浄土信仰のたかまりを思うと当麻曼荼羅が世に見出されなかったことは不思議 である。」(34)とされる。 表12
藤原四家 氏名 夫 母 備考 武智麻呂(南家) 南夫人? 聖武天皇 竹野女王 房前(北家) 北夫人? 聖武天皇 牟漏女王 殿刀自 藤原豊成 牟漏女王 縄麻呂母 哀比良女 藤原仲麻呂 牟漏女王 真先・久須麻呂母 宇合(式家) 弟兄子 藤原巨勢麻呂 不詳 弓主母 家子 藤原魚名 不詳 鷹取・鷲取・末茂母 帰子 橘奈良麻呂 不詳 橘入居母 麻呂(京家) 百能 藤原豊成 当麻氏 当麻曼荼羅の奇跡は、当麻曼荼羅が一夜で織り上がることである。 伝説では、当麻曼荼羅の材料となる蓮糸は、大和・河内・近江国から集めた九十駄の蓮を使って化 尼が染色し、化人(織工)が一夜で織り上げることが具体的に説明される。 化尼が染色し、化人(織工)の存在はもとより、四メートル四方の曼荼羅が一夜で織り上げることは あり得ないことであるとすれば、どのように考えればいいのだろう。 始めには、中将姫法如女の願により化仏や化人(織姫)が曼荼羅を織るが、後には、その役割は中将 姫法如本人が行うことに変化している。(35) また、曼荼羅を織るために、集める蓮茎の数や集める国も変化する。 『九条家本・嘗麻寺流記』では、近国に宣旨を下して、忍海連を遣わして、三日間に九十駄を用意 させたが、後に近江国から百駄の蓮を集たり(当麻寺流記・九条家本)、近江・大和・河内三国から 九十駄の蓮茎を集めた(当麻寺流記・九条家本)ことに変わる。 当麻寺から離れた近江国が注目される。近江守は天平17年(745年)から曼荼羅が織成される時期ま で、藤原仲麻呂が務めていたので、近江国は藤原仲麻呂へ誘導する意図があったのではないかと思 われる。 一貫して変わらないことは、曼荼羅織成が天平宝字7年(757年)6月23日とすることである。 (2)当麻曼荼羅の由来 『建久御巡礼記』には当麻曼荼羅の上部の軸には節のない竹が使われていることが記されており、 それにより当麻曼荼羅が一夜で織り上げる根拠に繋がったと思われる。 節のない竹はどのようなものであったろうか。一節竹(ひとよたけ)と言われるように、一日で背丈 が大きく伸びる一節の竹のようにされているが、実際には節に当たる部分が削られて滑らかになって おり、節間の空洞が無いのかも知れない。 節のない竹は、アジア南方に多い竹の一種であるバンブーであろう。バンブーは中が詰まり頑丈な ので、大きい曼荼羅をぶら下げる軸とするのに好適であったものと思われる。 当麻曼荼羅は、伝説にあるような蓮糸で織られた織成品でもなく、上質の練絹を諸色に染めた彩緯 で織り成した綴織であることが判明したとされる。…また、当麻曼荼羅は、中国唐時代の浄土教家善 導大師の解釈になる『観無量寿仏経疏』四巻に基づいた図相であることは一般に認められている(36) とされる。 かっては、奈良時代の作例とも考えられていた当麻曼荼羅が唐からの舶来品であるとすれば、曼荼 羅を発注し、取り寄せることができた人物の存在を含めて、唐からの舶来品が当麻寺に存在すること の意味を考えなければならない。 (3)当麻曼荼羅の発願者 『建久御巡礼記』によると、当麻曼荼羅の本願は麻呂子親王夫人とヨコハギ大納言娘とする二つの 縁起があり、麻呂子親王夫人の縁起は、時代・年号が合わないことが記され、曼荼羅製作者が麻呂 子親王夫人からヨコハギ大納言の娘に移っていったとされる。(37) 麻呂子親王(聖徳太子の弟)は、当麻氏の先祖につながるが、その夫人名が使われることは、真の 発願者を隠すためではなかろうか。 麻呂子親王夫人は、『日本書紀』推古天皇十一年秋七月条に「舎人姫王」と見える。これが暗号を 解く鍵かも知れない。そして、後世の説話では、その役割を中将姫に担わせている。 当麻曼荼羅を発願した実在の夫人は誰か。 河原由雄は、「発願者については、『建久御巡礼記』のヨコハギの大納言の娘が初見であり、つ いで藤原尹統、藤原尹(伊)胤、藤原豊成の娘と伝承され、一方『当麻曼荼羅注』及び『私聚百因縁 集』で中条局、中将内侍として登場するようになるが、なかには京都知恩院本当麻曼荼羅図の銘文 のように「大臣藤原□卿之二娘」(38) なる珍奇な書振りもあって、適切な人物に比定しがたい。」 としながらも、当麻曼荼羅の発願者に、当麻氏出身の高貴の女性のうち、可能性に富むのは藤原百 能の名を挙げるほか、光明皇后の追善法会のために造立あるいは施入された可能性を述べ、更に 「曼荼羅縁起で最も大事な点は、前段の麻呂子親王夫人の発願により、天平宝字七年六月廿三夜に 化人が蓮糸を以って変相を織る挙げる段には、天平宝字七年六月廿三日という具体的な日付を明記 していることである。この日付は、藤原房前の女で仲麻呂の室である宇比良古(尚蔵兼尚侍、正三 位)の一周忌にあたり(『続日本紀』『尊卑分脈』)、この日付がもし正しければ、この女性のために 造られた可能性も考えられよう。」(39)とする。 名が挙がった藤原百能は、親王という出自とは無関係であり、光明皇后は天平宝字四年六月七日 に崩御したから、厳密には年忌の日付が異なるので、該当しないのではないかと思われる。 ところが、天平宝字六年六月廿三日に逝去した藤原宇比良古(尚蔵兼尚侍、正三位)の別名袁比良女 は織姫である化女を連想させる。(40) オヒラメの音はオリヒメに近く、オリ羅女と書けば、当麻曼荼羅を一夜で織った化女に通じる。 藤原袁比良女は故人でありながら、その一周忌の六月二十三日に化女として出現し、当麻曼荼羅 を織成したというお話が説話の本筋ではないだろうか。 つまり、実際の当麻曼荼羅は、哀比良女一周忌の供養のために発願され、唐で製作され、舶来し たものと考える。 説話の中では、麻呂子親王夫人という言い方だけでなく、中将姫の母紫の前は、「品澤親王の娘」 という言い方もされる。この二人の女人は、聖徳太子と淡路廃帝(淳仁天皇)の時代の差があり、 麻呂子親王夫人と品澤親王夫人を同一人と見做せないが、どちらも実際の本願者を隠喩しているので はないか。先に、麻呂子親王夫人は、舎人姫王として見えることを述べた。 麻呂子親王夫人や品澤親王夫人の名は、一品舎人親王に導かれる。一品知太政官事、贈太政大臣で あり、諡号は、崇道尽敬皇帝・尽敬天皇である。 当麻の縁に係る人物として、舎人親王夫人の一人に淳仁天皇(淡路廃帝)の母の当麻真人山背がいる。 隠されていた真の当麻曼荼羅の発願者は当麻真人山背と想定する。 藤原哀比良女の一周忌に当たって、当麻真人山背が、子である今上が婆婆(はは)とも慕う(『続日 本紀』天平宝字三年(759)六月十六日詔)藤原哀比良女の供養に舶来品の曼荼羅を使用したものと憶 測する。曼荼羅の来朝には、淳仁天皇や藤原仲麻呂の関与があったものと考えられる。 そして、天平宝字八年、仲麻呂(恵美押勝)の乱で、仲麻呂は近江国で殺され、淳仁天皇と当麻真人山 背は淡路島に配流される。 当麻曼荼羅が永い間、日の目を見なかったのは、淡路廃帝や当麻真人山背及び逆賊恵美押勝の縁の 品物を公にすることは憚れたことであろう。 中将姫の出家の理由にも、「或書に曰く…中将姫は豊成流人の息女として、謀反人押勝が姪なれば、 かたがた身の憚りありて、当麻寺に身を隠し、尼となり給いぬ。(大和名所図会)」とされる。 そして、仲麻呂の乱のほとぼりが冷めた頃に、曼荼羅が蔵から取り出され公開されるに当たって、逆 賊恵美押勝と反対の立場であった豊成の女の発願であれば、お咎めなしと考えたのであろうか。その ため、当麻曼荼羅と豊成女が結び付けた説話が作られ、更に、当麻曼荼羅を離れた豊成女の一生が中 将姫の伝説として、様々な形を取りながら広く世間に拡大していったのであろう。 中将姫の伝説が多様に変化するさまは、行基の謎にも繋がるのではないかと憶測している。 註 (1)『朝日日本歴史人物事典』「当麻曼荼羅の発願者と伝えられる女性」/『日本大百科全書』「伝説上の人物」』 /『日本国史大辞典』「伝説上の人物」 (2)井上大昂「当麻曼荼羅の研究:特に中将姫の縁起について」『佛教大学研究室報』第12号、1963年、46頁。 (3)「摂津名所図会」『日本名所風俗図会巻10,大阪の巻』角川書店、1980年、337頁。/『摂陽郡談』第8、田の部、 梅雨井白瀧姫「横萩右大臣豊成御息女中将法女の妹也」 (4) 川崎剛志「当麻寺流記の発見」『中世文学』第59(0)号、2014年、54-62頁。 その他の伝承地は、中将姫誓願桜(岐阜・島根)、神奈川県秦野市「落幡」地名、鶴巻温泉近くの寺院「中将姫の絵」、 藤沢市遊行寺(清浄光寺)近くの中将姫伝説地(志水義夫「二上山の彼方:當麻の時空」『万葉古代学研究所年報』第7 号、奈良県万葉文化振興財団万葉古代学研究所編、2009年、66頁。) (5) 森田康夫『上方文庫23 河内:社会・文化・医療』和泉書院、2001年、32頁。 (6)井上大昂「当麻曼荼羅の研究:特に中将姫の縁起について」『佛教大学研究室報』第12号、1963年、44頁。 (7)『伊呂波字類抄』は「当麻寺名禅林寺在大和国、横帯大納言女子建立」とするから、11世紀末成立とされるが、 現存する写本は天養〜治承(1144-1181)のものとされるから、内容的には独自性を主張する。 (8)金志虎『当麻寺の歴史と信仰』勉誠出版社、2015年,185頁。 (9)中将姫伝説の二十五菩薩の来迎、曼荼羅織成十三年後の迎え、天平宝字七年の曼荼羅織成、「四句の偈」の数字 四は、それぞれ「49」から派生する真ん中の数字を表す。中将姫の伝承はこれらの数字から成り立つ。四には真ん 中に該当する数字がないので、そこで止まるが、「25−13−7−4」の合計は「49」となる。 (10) 『古今著聞集』説話番号35聖徳太子と説話番号37行基の間に説話番号36が中将姫の説話である。聖徳太子−中 将姫−行基の位置からすれば中将姫は真ん中で行基は左隣横でもある。 (11) 中将姫の略歴に疏を取り上げたのは、疏が 2歳年下の弟が誕生した設定になっているからである。(日向一雅 「中将姫説話覚書」『明治大学人文科学研究所紀要』39号、1979年1996年、340-341頁。) (12)裏紫都子『当麻寺の歴史』淡交社、2010年、9頁。 (13)石川知佳「中将物語における継子譚の分析」『学芸古典文学』第4号、2011年、162頁。/ 『大日本仏教全書』148『私聚百因縁集』に「聖武天王ノ皇女孝謙天王ノ時ノ内史侍ナリ、中将内侍ナリ」とある。 (14)田中貴子「中将姫説話覚書」『日本<聖女>論序説/斎宮・女神・中将姫』講談社、2016年、31頁。 /日向一雅同上338頁。 (15) 房前長女は、北夫人(聖武天皇夫人)で、三女は袁比良女(藤原仲麻呂室)である。 (16) 新訂増補国史大系『尊卑分脈』第二篇、吉川弘文館、1983年、413-416頁。 また、『帝王編年記』天平神護元年(765)11/27条にも当麻曼荼羅の願主が中将姫とされる。(河中一学327頁。) /児玉幸多編『標準日本史年表』吉川弘文館、1977年、46頁掲載の「中臣氏・藤原氏系図」は、藤原豊成の子に中将 姫と継縄の二人を記し、実在の人物と考えている。 (17) 『奈良名所八重桜』大和名所図会、355頁。 (18) 暗示する言葉は、19→十九・解くと29→18・十八永遠(とわ)であり、中将姫が往生する日は3月14日で、この 数字が3・14→42逝去を示している。 行基の亡くなった日は、二月二日で同じく四(死)を表している。作為のある月日であろう。 (19) 「豊成は「横佩の大将」と呼ばれた。それは、従来太刀は縦に吊る下げて佩いていたものを、豊成は伊達者で あったのか、横たえて吊る佩き方を案出したとされたのが横佩の由来である。」河中一学『当麻寺私注記』雄山閣 出版、1999年、331頁。 (20) 『大日本地名辞書』冨山房、大和(奈良)北葛城郡の部、337頁。 (21) 「紫の前」「照夜前」は何を意味するのかを考えてみた。「紫の前」は豊成左遷の筑紫を連想する。「照夜前」 の隠されている言葉は、月である。万葉集には、「照る月夜」の言葉は多く見られる。筑紫の「筑」や「月」には、 「次」の言葉が連想される。つまり、「紫の前」の次は「照夜前」であり、「照夜前」の次を隠喩される。 (22)『中将姫説話の調査研究報告書』元興寺文化財研究所編、1983年、19頁。『大和名所図会』はこれを引く。 (23) 天平勝宝四年(752)東大寺大仏開眼会献物に藤原袁比良女の名はある(正倉院宝物銘文集成)が、殿刀自の献物は 確認できないから、それまでに亡くなっている可能性が高い。 (24)遠藤慶太「尚侍からみた藤原仲麻呂政権」『藤原仲麻呂政権とその時代』木本好信編岩田書院、2013年、49頁。 (25)藤原殿刀自は、天平十九年一月二十日に無位から正四位上に叙位されたのに対して、仲麻呂室の藤原袁比良女は 天平感宝元年四月一日に従五位上から正五位下に昇叙している。 (26)諸兄の妻は、藤原鎌足女の多比能である。能字が付く三字名の両者は親子関係が想定できる。 (27) 豊成室の房前女を藤原駿河古とする説が多いが、駿河古は天平勝宝元年四月一日に正六位下から従五位上に叙位さ れている。豊成室は位階から見て、駿河古(鎌足子・大伴古慈悲室と想定する。)より、殿刀自が妥当である。 (28) 天平感宝元年閏五月廿日付け『聖武天皇施入勅願文』には、正一位行左大臣太宰帥橘宿祢諸兄と右大臣従二位藤原 朝臣豊成及び大僧都法師行信が署名している。(大日本古文書3巻240-242頁。) (29) この二十年近くの齟齬については、行基の生年に関しても行基の実像との比較において同様に言えるだろう。行基 の場合は、二十年繰り下げた場合が行基の実像にふさわしいと考えている。 (30)宝賀寿男『古代氏族系譜集成』中巻、1986年、712-713頁。 (31)宝賀寿男『古代氏族系譜集成』中巻、1986年、824頁。 (32)岩波万葉集四巻は未詳としながらも一巻では仲麻呂次男の藤原久須麻呂のことかとする。『万葉集』第四巻、岩波 書店、2003年、59頁。 (33)川崎剛志「当麻寺流記の発見」『中世文学』第59巻、2014年、55頁。 (34)北澤菜月『特別展当麻曼荼羅完成1250年記念当麻寺』奈良国立博物館、2013年、81頁。 (35)『中将姫説話の調査研究報告書』元興寺文化財研究所編、1983年、4頁。 (36)河原由雄「綴織当麻曼荼羅図」『大和古寺大観 当麻寺』第2巻、岩波書店、1979年、81頁。 (37)「二上山の彼方:當麻の時空」志水義夫『万葉古代学研究所年報』第7号、2009年、69頁。 (38)「二娘」は、先に述べた「二嬢」と同一であり、□は北になり、中将姫の母は贈左大臣・贈太政大臣房前二女を 指すのであろう。 (39)河原由雄「綴織当麻曼荼羅図」『大和古寺大観 当麻寺』第2巻、岩波書店、1979年、84頁。 (40)化女のおりはため(織機女)「当麻曼荼羅縁起」『大日本仏教全書』118,537頁。 <参考文献> 元興寺文化財研究所『中将姫説話の調査研究報告書』1983年。 『古今著聞集』日本古典文学大系84、岩波書店、1966年。 『室町物語草紙集』「中将姫本地」新編日本古典文学全集63、小学館、2002年。 河原由雄「当麻曼荼羅の成立とその周辺」『日本絵巻大成』第24巻解説、中央公論社、1979年。 志水義夫「二上山の彼方:當麻の時空」『万葉古代学研究所年報』第7号、奈良県万葉文化振興財団万葉古代学研究所編、2009年。 日沖敦子『当麻曼荼羅と中将姫』、勉誠出版、2012年。 河中一学『当麻寺私注記』雄山閣出版、1999年。 折口信夫(釈迢空)著『死者の書』中央公論社、1974年。
史料 内容 建久御巡礼記 鳥羽皇女八条院(北家藤原得子の子)or藤原多子説 曼荼羅縁起 横佩大臣女の願により化人が一夜で織り上げる。 節のない竹、一節竹(ひとよたけ) 中将姫の往生 阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。 九条家本・嘗麻寺流記 朝廷が中将の請により近国に宣旨を下して、忍海連を遣わして、三日間に九十駄を用意させた。 当麻寺曼荼羅縁起・光明寺蔵 勅を得て中将は、近江国から百駄の蓮を集め糸となす。 曼荼羅縁起・享禄本 勅により近江・大和・河内三国から九十駄の蓮茎を集めた。 中将法女比丘尼伝記 近江・河内・紀伊国から九十五駄の蓮茎を集めた。
お羊さま考−多胡郡碑−
忍海野烏那羅論文集
行基論文集 |