行基大徳考

目次
1 山崎橋                                            
2 伊丹の伝承・伝説
3 行基の一生
4 笑みする行基と百合 
5 行基とサイ
6 行基と六歳日
7 行基・婆羅門僧正贈答歌
8 酒解神
9  大養徳
10 継体天皇と行基
11 行基と薬師寺の関係 優婆塞貢進解
12 二生の人
13 白鳳年号 
14  続日本紀の行基伝
15 伊丹の伝承・伝説(2)

はじめに
 私は「伊丹は行基の聖地」と呼ぶに相応しいと思っている。それは、行基の足跡が多く残るからである。
伊丹に行基町や行基橋がある。それらは「ぎょうぎ」と濁音で読むのである。行基名を濁音で読むのは、
伊丹市の他にも岸和田市がある。
 僧行基の名前の読み方については、『日本霊異記』が「ぎょうぎ」と読んでおり、境野黄洋が「ぎょうぎ」
と読むのが正しいと言われている。(注1)
 行基の謎を解くには、歴史学や史料文献など正統な学問追求だけでは解決できないと思われるので、異なる
便法を駆使し、いわゆる言葉遊びを含めた文芸及び広く各地の伝承や民俗学を鑑みることも紐解くことの一助
となろうかと考えている。
 「行基大徳」は、天平十年頃の大宝律令の解釈書である古記の「謂行嘉(行基)大徳)」や霊異記などに用いら
れる。また、行基名は追号であり、菩薩号でもある。創作された行基像の核心は高志氏という帰化人の家系で
ある。ところで、摂津国勝尾寺は天保七年文化改正伊丹之図に勝王(尾)寺とある。勝尾寺の謂れは、元弥勒寺
であったが、六代座主の行巡上人は、清和天皇の御脳の時、勅使二度まであったが従わず、献じた法衣と念珠
により玉体平癒したことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」の寺号を 帝より賜ったとされる。同寺では
「王」を「尾」に替え、勝尾寺と号し、勝運の寺として信仰されて来た。このような伝承を踏まえながら、行基
大徳を考える。
注1 境野哲(黄洋)『仏教史論』丙午出版社1916年、368頁 1 山崎橋と行基の活動  山崎橋は、神亀二年と神亀三年の建造とされる史料がある。
成立史料
神亀二年行基年譜(9月12日始起)、作者部類(6月13日起工)
神亀二年・神亀三年帝王編年記
神亀三年水鏡・本朝事始・如是院年代記・仁寿鏡・濫觴抄・扶桑略記…

『行基年譜』は、山崎橋の建造を神亀二年とする。これは『帝王編年記』題目の記載誤りから始まった ものと考える。 『帝王編年記』本文では、山崎橋の建造を神亀三年とするが、題目では神亀二年のとこ ろに転記したものであり、『行基年譜』など『帝王編年記』の題目だけを見た者は以後、山崎橋の築造を 神亀二年としたものと考える。

行基の活動
名称紀年内容備考
久修園院神亀2年天王山木津寺、釈迦堂本尊行基作『行基年譜』
橋本寺(廃寺)神亀3年山崎橋の東、阿弥陀如来、渡橋通行旅人休憩所なり。石清水八幡宮図に橋本寺址が記される。
山埼院天平三年乙訓郡山前郷无水河側『行基年譜』
宝積寺神亀元年(724)鬼くすべの修法(慶雲3・706)寺伝
神亀4年(727)聖武天皇勅願により行基が建立。もとは山崎寺。伝行基作十一面観音の行基像あり。『山城志』


 山崎院・山崎橋は、行基より先に道昭(船大徳)が作ったことが『行基年譜』に見える。
また、北樟葉にある久修園院は、『石清水八幡宮史』史料第一輯中「縁起」に「石清水八幡護国寺久修園
院」と記され、石清水八幡宮・護国寺と久修園院が一体となっており、『宮寺見聞私記』には「彼寺鎮守者、
奉勧請狩尾明神」「此寺鎮守当山狩尾明神、行基菩薩勧請之云々」とあるように、行基と石清水八幡護国
寺及び狩尾明神との結びつきが深い様子が窺える。
 『行基年譜』58歳条の久修園院の所在は、「交野郡一条内」とある。一条は、条理制を意味するものと
考えられている(注1)が、北樟葉における条里制の存在自体は明確でない。
 条というのは、通常道路を指すと思われるが、川筋と見ることができないだろうか。
『枚方市史』によると、久修園院は、「寺所蔵の『久修園院縁起』に、寺は天王山木津寺と称し、行基の開
基で、聖武天皇から賜った地の四至は、東は男山のうち高尾の峯、南は王余魚河、北は米尾寺、西は大河
を限る」とあり、久修園院の四至の南限は「王餘魚川」とある。「王餘魚川」は、鏡伝池乃至元登池から流れ
出る天満川に比定する。王餘魚川=天満川は、西流し、大谷川から淀川に流入した。(注2)
久親恩寺は篠崎の郷・天部の郷に所在した。天部郷は「天マ郷」と略され、王余魚河はいつしかテンマ川
となったか? 天満川は現在一部区間は暗渠化され、緑道となるが、北楠葉から分流され、南下する水路も
天満川とされている。

注1 『枚方市史』第2巻、1972年、157頁。 注2 昭和58年1月昭文社発行の枚方市地図に天満川が表示されている。
2 伊丹の伝承・伝説 (1)「片目の魚」「片身の魚」  伊丹の伝承など片身の魚・片目の魚の伝承がある。魚が生き返る奇跡である。片目の魚は、柳田国男が 考察している。(注1)  『行基年譜』三十七歳条 に「行基諸国遊行給、還旧里時人々池側集、魚取食、 勇人見行基以鮒鱠奉之、 即食之吐出、彼鱠小鮒。 従口生入池、人驚敬咎悔、今池見在云云、 皆無片眼。」とあり、魚の膾(なます) を食べて池に吐き出すと生き返り、小さな魚になって泳ぐ話である。 また、『摂州川辺郡崑崙山昆陽寺略縁起』に「行基の曰く、今より汝に食を与ん。殺生の業をなすことな かれと、則魚を禁じて食を与へ給ふ。其餘肉を池に放ち給ふに、暫して小波を起ゝ、泳き去。 今に一盲半 焦身の魚此池にあり。其後殺生禁制なり。」(注2)とある。  社寺の境内の魚を捕らえ食う事を忌んだ。膾になった魚を池の吐き出すのは、「イケ=生きよ」という 呪文のようにも思われる。「一盲半焦身の魚」とは、片目で、片身が焦げた魚をいうのであろうか。  「行基鮒」というのが、昭和30年代ころまで、伊丹市近辺の池や水路等で見られた。これは、鱗や皮膚 が透き通り、体色が赤くみえるので、魚を半身にしたような様子であるが、片目ではなく、両眼がある。 「片目・片身」は別の意味があろう。「片目・片身の魚」の伝承は、行基の生誕地である堺の家原寺にも残 るから、行基と結びつけられている。(注3)  半焦身と焦げた魚は、荒木村重の乱で昆陽寺のほとんどが焼失したことと関係するか。昆陽寺は安楽院 以外は全て焼失し、現昆陽寺の位置に移転した。(注4)  行基の仁和寺日本図も半分焼けて西日本部分が無くなっている。 「片目の魚」「片身の魚」といえば、カレイ、ヒラメの類である。 ところで、カレイは、「王餘魚」と書く。 「王餘魚」について、「朱豪L云、南海有王餘魚加良衣比、俗云加禮比 昔越王作鱠不盡餘半棄水、 因以半身為一レ魚、故名曰王餘魚也」とある。(注5) 行基説話の出所元であろう。昔越王が鱠を作り、全部を食べ盡さず、半分の餘りを河水に棄てると、半身 の魚となったゆえに、名を「王餘魚」というのである。文字通り、王が食して余った魚である。  『行基年譜』三十七歳条は、「みぞな→見ぞ名」とする。持統天皇記3年7月23日条に「魚」これを「儺 (な)」という。小さな魚=小魚(サイヲ)であるから、「サイ王」を作る。
注1「一目小僧その他」(『定本柳田国男集5』所収・1964年・筑摩書房)』 注2『摂州川辺郡崑崙山昆陽寺略縁起』元禄15年(1702)『略縁起集成』第六巻、2001年、勉誠出版、   155-158頁。 注3『和泉名勝図会』 注4『昆陽組邑鑑』伊丹市博物館、1997年。 注5 岡田 希雄『類聚名義抄の研究』勉誠出版、2004年、602頁。 (2)「荒府の池」の和歌  瑞ヶ池は、平安時代より「あらふ(荒府)の池」として和歌(注1)に読まれている。 『日本名所風俗図会』荒府池、名産?菜ジュンサイ、この池の名草なり。「名草」は「名僧」を連想する。 「香、他に異なり、古歌に詠ず。」とある。 「川上やあらふの池のうき蓴(ぬなは)うき事ありやくる人もなし」『新拾遺和歌集』曽彌好忠 「白波のあらふの池のうき蓴引根によきて玉ぞこぼるる」『名寄』藤原家隆   「詩経」の六義の一に「興」がある。『大辞林(三省堂)』によると「草や鳥など自然界の事物から歌を 起こして、それとなく人間世界にたとえる手法」とある。波風にふらふらと漂う「うき蓴」は、時の政治 に翻弄された行基の姿に重なる。  『晉・張翰伝』に「蓴羮鱸膾」がある。「じゅんさいのすいものとすずきのなます。」「蓴鱸」である。 「晉の張翰は故郷のこれらの食べものをなつかしみ官を辞して帰郷した。転じて、故郷を思う情のたとえ。 」とある。(注2) 『行基年譜』三十七歳条説話には、「あらふ(荒府)の池うき蓴」が「魚のナマス」とともに出てくる。 ところで、この「うき蓴」は、ジュンサイのことである。行基とジュンサイが関連を持つとすれば、『拾 遺和歌集』の行基の歌「法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し」の「菜摘み」の「菜」 とも連想して「サイ」が導かれる。また、最勝王経供養に根?を用いる習わしも「サイ」を掛けているか。  昆陽の歌に「蘆(芦)・あしのは」が多く読まれる。   つの国の児屋は何にかかくるらん くきのみたてる霜かれの蘆 夫木集 藤原隆房   津国のこやのうら風音づれて蘆の枯れ葉に秋は来(き)にけり 夫木集  範光   蘆の葉にかくれて住し津国のこやもあらわに冬はきにけり『拾遺和歌集』源重之  昆陽は、和名抄で、児屋郷とする。児屋は、字を置くである。 「霜かれの蘆」は、「霜枯れの葦」と書き換えると、「枯・葦」の二字から古い木(基)・サイが導かれる。 注1 『日本名所風俗図会』大阪編、244頁 注2 『角川・新字源』6953「蓴」の項、868頁。 (3)崑崙山昆陽寺  昆陽寺の「崑崙山」は、どこから発想したものだろうか。 「崑崙山」は、「中国古代に西方にあると想像された高山。書経の禹貢、爾雅・山海経などにみえる。崑 山。」(大辞苑)とある。仙女である西王母が住む場所である。 宝暦六年(1756年)頃の『昆陽組邑鑑(以下「昆陽鑑」とする。)』「川辺郡千僧村」の項では、阿弥陀堂 境内に、「行基菩薩御母公之石塔」があったとされる。 (注1) 連想ゲーム的に関係付けるならば、行基の母=西王母と見做すならば、行基は「西王」ということになる。  西王母の園の桃、長寿を願う漢の武帝の宮殿に天降り、仙境の実七粒を武帝に与えた。この桃は、三千 年に一度花咲き実を結ぶという。(列仙伝)(注2)  ある歌会で、「三千代へてなるてふ桃のことしより花咲くあひぞしにける[右是則]。「とし(年)」と 云ふべきことを「代」とよめりとて負く。」と桃のなる三千年を三千代としたので負けとなったという話 がある。(『袋草子』下217頁。)ここに、「西王母」に結びつく「三千代」が見える。  他方、『神明鏡上』に「始皇帝不死薬ヲ求也。垂仁治、常世国奉果。今橘是也」とある。」(注3) 天平勝宝元年大伴家持が「時及能香久乃菓子(この橘を等伎自久の可久能木実と名付けけらしも:万葉集18 -4111)」いわゆる、非時香菓・時及能香久乃菓子は橘であり、三千年に一度花咲き実を結ぶ桃と通じる。 また、昆=魚=イヲである。陽は「いつわり」の意味である。 注1『昆陽組邑鑑』伊丹市博物館、1997年 、46頁。 注2『神道集』東洋文庫94、貴志正造訳、1967年、154頁。 注3『続群書類従』852上96-97 (4) 行基の歌 行基を織り込んだ歌  『古今和歌六帖』にしなが鳥の歌がある。 「しなが鳥ゐな野を行けば有間山 霧[きり]立渡り明ぬ此夜は」(第二、山) 「しなが鳥ゐな山響き行く水の 名をのみよせし隠れ妻はも」 (第五、かくれづま)  これらは『万葉集』の 「しなが鳥猪名野を来れば有間山 夕霧立ちぬ宿[やどり]は無くて」(巻第七−1140) 「しなが鳥猪名山響[とよ]に行く水の 名のみ縁[よ]さえし隠妻[こもりづま]はも」(巻第十一−2708) の正しい読み方を失ったかまたは改作したものであろうとされる。(注1) 前出の和歌には、行基の名が読み込まれている。併せて、妻があるが、音読みではサイである。 また、神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良の歌、万葉集巻5-799 「大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る」にも繋がるか。 山上憶良は行基と何らか関係するのかもしれない。  上記下線部が行基を織り込んだ部分である。有馬山、水、名、隠妻は行基の縁語であろう。  「しなが鳥」は「息が長い鳥」つまり、カイツブリのような水中に潜って餌を探す鳥である。 「しなが鳥」は「ゐな」に掛かる。貴族社会のことである。隠された意味は、「品が取り」「否」である。 王族に与えられた「品」が無くなるのを嫌がることを指すのである。 やまどりの歌 昆陽寺の境内に行基の歌碑がある。 「山鳥の ほろほろとなく 声きけば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ」(玉葉集・釈教) この歌は『夫木和歌抄』巻二十七の九動物部の「□(=義+鳥)ヤマトリ」に  山鳥の啼くをききて 行基菩薩 やまとりのほろほろとなく おときけば ちちかとぞ思ふ ははかとぞ思ふ と収録されているのを撰集の資料とされる。(注2) さらに、『行基菩薩縁起図絵詞』の歌に、雉鶏振レ羽有レ興、有レ感菩薩作歌曰 「春乃野乃に ほろほろとなく きし尾 ちちかとそおもふ 母かとそ於もふ」と改作される。(注3)  初句が字余りで、三句目が字足らずの変な表記が見られるから、謎解きをする。 父はカナ書きで、母は漢字(漢字ヨか)初句と三句目を合わせると、「足らざるを足るで充ちよ」と考える。 「春」→分解すると「三人か」と読める。きし尾=基師と王である。 また、「乃野乃」と「尾」は「三の」と「王」で→「三野王→美努王」が織り込まれている。母を感じる に「三千代」となるか。 「ほろほろ」と「おもふ」の重なりがある。父母とも重なる。「山鳥」を重ねると「嶋」ができる。「嶋」 は、「山斎」ともある。ここから、鳥=斎が導かれる。斎は鳥で取られることを示す。 「ほろほろ」の声乃至声はどこから発想されたのか。 『万葉集』巻十九には、神護4年(727年)に光明子に皇子が誕生した際に三千代が詠んだと伝えられている 県犬養命婦の和歌が収められている。 太政大臣藤原の家の県大養命婦の、天皇に奉りし歌一首 天雲をほろに踏みあだし鳴る神も今日にまさりて恐けめやも(巻19-4235番歌)。 ここに、「ほろ」が一つ見えるが、武具の「ほろ」は「母衣」と書く。母が出てくる。「ほろほろ」と鳴く やまどりの歌は、美努王や三千代に導かれるものと思われる。 「山鳥」の「山」は、「さん」である。また、横棒を一と見るならば、「山鳥」は「さん取り」或いは「さん い取り・さい取り」となる。 注1 『伊丹市史』第1巻、1971年、420-421頁。 注2 米山孝子『行基説話の生成と展開』勉誠社、1996年、152-166頁。 注3 同上155頁。 3 行基の一生 行基の呼び名など
名前・表記史料内容備考
行基、法行墓誌法行一名行基/行基菩薩年譜「行法(大僧正)」
行器丸行基大菩薩行状記榎の木の股に置いた胞衣、心太(テングサ)
法基丸和泉国名所図会父高志氏貞知、母蜂田虎身女薬師姫
行嘉大徳古記行基大徳霊異記「行基大徳」
行基菩薩続日本紀時の人号けて行基菩薩と曰ふ墓誌「世に菩薩と称す」
大菩薩行基年譜秦堀河君足「大菩薩遊化行事」
師位僧行基優婆塞貢進解師主薬師之寺師位僧行基
帰化人新撰姓氏録古志連(高志氏)文宿祢同祖、王仁之後也
年歯鉄杖東大寺正倉院開封記行基八十二歳鉄=サ・サイ
 行器丸は信じがたい。(注1)   行基の名前の由来は、 新羅の恵基から取ったとする説がある。(注2) 誕生譚   行基誕生の奇異譚は、胞衣に包まれて出生することである。(『行基菩薩行状記』) 『日本往生極楽記』(以下『極楽記」と略称)には次のように記されている。  「行基菩薩は、俗姓高志氏、和泉国大鳥郡の人なり。菩薩初めて胎を出でしとき、胞衣に裏み纏れり。 父母忌みて樹の岐の上に閣げつ。宿を経てこれを見るに、胞を出でて能く言ふ。収めて養へり。」  胞衣のまま出生するという誕生の型が何に由来するものかは不明(注3)とされる。胞衣は、「えな」で ある。胞衣に包まれた行基は、恵名(えな)が掛けられ、生まれながらに恵まれた名前であったという意 味か。智光が地獄に落ちたとき、金の宮殿は、行基が入る場所とする。これは、行基が始めから恵まれた 立場にあることを示すか。行基の居場所は黄金の宮殿。金は五行説で西の方向を指す。 『行基年譜』は、家原寺を建立した三十七歳の記事から始まる。それ以前は故意に削除されたか脱落して いる。行基と数字の三十七は親近性がある。橘氏の能因法師が『昆陽池亭五首』序に用いる。橘奈良麻呂 は三十七歳の時に奈良麻呂の乱があった。  三七は、「御名」であり、三十七は「見ぞ名」である。行基の名前は御名としなければならない。菩薩 号である行基という意味にもなろう。 宿禰/史 『行基大菩薩行状記』に見える行基伝の特徴。父は高志宿彌貞知で、宿彌は絵詞と行状記だけに見られ る表現である。一方、『霊異記』は越史、『行基菩薩伝』は高志史とする。宿祢は行基の正体を明らかに するものの一つと考える。例えば、山崎院出土瓦にある「佐為宿祢手子」の如くである。 『行基墓誌』には、「一号法行」など独自な記載があるが、「百済王子の末」など奇妙な記載もある。  続日本紀・日本霊異記・行基年譜などの大僧正の任月日、高志宿祢・高志史の区別、など複数の説や 異説が見られる事項についてはそれを明確にすることはない。つまり、行基墓誌はそれらの書を見て作 成されたことになり、後世作られたものと考えられる。年齢については『続日本紀』80歳とは異なる82 歳とする。墓誌に現れる人物は、真成と景静の二人で、景静は、東大寺僧であるが、行基弟子とするの は他の資料で確認できず、行基と景静の関係は行基墓誌だけに見える。景静が行基の死に接する場面は 釈迦の涅槃図を思わせる。本来、修行を積んだ僧侶は師の死亡にあたっても物事に動じないものだろう。  行基墓誌の時代の後出性は論じたが、それらは、「多宝塔、近江大津之朝、寿八十二、戊辰之歳、施 [一]百戸」などの言葉に見られる。  忍性瓶記は行基墓誌を参考にしたということだが、実際は逆で、行基墓誌は、忍性瓶記から創られ、 忍性瓶記は 叡尊の死亡記事を参照したと思われる。  八角石櫃、銅筒、銀製舎利器なども忍性の模倣であり、行基墓の実物は存在しない。舎利瓶器の破片 も後世に偽造されたものと考える。 行基大徳  行基大徳は、霊異記などに用いられる。天平十年頃の大宝律令の解釈書である古記の「謂行嘉(行基) 大徳)」とあ る。その頃、行基は故人になっていたのではないだろうか。 大僧正   行基の経歴で最も大事であるが、大僧正の授与の時期は、『行基墓誌』は、その時期を示さないが、 『続日本紀』の「天平17年2月」と『霊異記』の「天平16年11月」で異なる。  また、『続日本紀』には生前の授与となっているが、鑑真の場合は没後の追号であると読める。行基 の場合も鑑真と同様に没後の可能性がある。大僧正任の時期がまちまちであるのは、死後の追号である ことが想定できるのではないか。 菩薩号  『法中補任』群書類従94に菩薩号は4人で、行基菩薩、興正菩薩(思圓上人)、忍性菩薩(良観上人)、 大悲菩薩(窮情 /覚盛上人)(注4)とあり、叡尊・忍性・覚盛の菩薩号は死後の追号である。  『続日本紀』に行基は民衆から菩薩と崇められたとある一方、行基菩薩とも言われている。菩薩号は、 後の3人が追号であることから、行基の場合も追号の可能性があると考える。つまり、行基の名は追号 であり、行基の名自体が菩薩号と考えるのである。 行基の一生  『奥の細道』 世の人の見付けぬ花や軒の栗『おくのほそ道』(岩波文庫)栗が西方浄土に縁があり、 行基が栗の木の杖や柱を使ったという資料が見つかっていない。説話集になども見られないのだが、口 伝えではあったのかもしれな い。  「栗の花」此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと に覚えられて、ものに書き付侍る。其詞、栗といふ文字は西の木と書きて、西方浄土に便ありと、行基 菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。  「栗」は、分解すると、西と木になる。木は行基に通じ、西は「西方浄土」から「さい」と読める。 行基の一生は、「さい」でもあった。  行基が80歳を超える高齢になったが、続日本紀の記事には見えない。
年次人物年齢褒賞物
文武天皇2年義淵56高年を優して杖を賜る
文武天皇4年左大臣多治比真人嶋77霊寿杖・輿
養老5年百済沙門道蔵80養老のため物を施す
天平13年左大弁巨勢朝臣奈弖麻呂72杖を賜ふ
神護景雲3年大和宿祢長岡80卒正四位下を授ける
宝亀8年飯高諸高80紬、糸、絢、調布、庸布
 官人や僧侶は高齢を嘉して褒賞され、八十になれば、ハトが掛けられ、(宝物集は八十は鳩の杖の齢と する)鳩は咽ばないように鳩杖を贈られる。行基は齢八十…以上であるが、褒賞物や杖を賜ったことは、 続日本紀にはその記事がない。『行基年譜』には、天皇や橘諸兄から賜るのは天平13年頃である。 注1 田中重久「行基と建立の四十九院」『史跡と美術』118号、374頁 注2 『薬師寺縁起』 注3 米山孝子『行基の誕生説話とその展開』勉誠社、1996年/『沙石集』では、胞衣を心太と表現する。  心太(ところてん)心は凝るから変化する。 注4 菅原和長著/永正11年(1514) 4 笑みする行基と百合
史料内容
行基年譜菩薩暗知咲云(66歳条)、天皇感悦給、大菩薩奉礼咲含、悦テト云々(74歳条)
霊異記菩薩神通を以て光の念ふ所を知りたまひ、咲を含み、愛びて言はく…
三宝絵(智光)杖ニカカリテ尋ネイタリヌ。行基菩薩暗ニソノ心ヲシリテ、ホヲヱミテ云、…
往生極楽記菩薩□見、知意含咲
古来風体抄行基菩提僧正「互いに手を取り、笑みを含みて、物語し給いて…」
 行基は「ゑみ」を含む人である。近寄りがたい厳しい容貌の唐招提寺行基像と違って、物語に登場する 行基は笑っている場合が多い。なぜ、行基は笑みを含むのか。似通う人物がいる。  「昔 唐朝に、北叟と云者あり。世間の無常を知りければ、君に仕て名利を貧る心も無く、私を顧て財寶 を貯る恩も無かりけり。都の北に居所をしめて、柴の庵を結で身を宿し、麻の衣を著て寒を防ぎ、草をつ み菓を拾て飢を慰めて、日夜を過し年月を送りけり。悦ある事を見てる少し咲み、憂ある事を聞てもる少 し咲けり。是は悦も憂も終に不レ久、 善も悪も皆夢と成り行、無常の理を能く知て也。今の人も、少し ゑみたるを「ほくそ咲」と云へるは、此北叟が事なるべし。」(注1)  「ほくそ咲(一七四頁)『塵添?嚢紗』五「北叟笑の事」に「少しゑむを、ほくそわらいと云は何事ぞ。 北叟が笑を、ほくそ咲と云成せる也。喩へば昔し唐の世に一りの老翁あり。王城の北に居する故に、是を 北叟と云。塞翁が事なるべし。」(注2)とあるように、少し笑う人には、唐の北叟があり、別名塞翁という。 笑うと咲くは同じである。花笑(はなえ)みの百合・由理の花がある。 『古事記』に 「その川を佐韋川(さいかわ)という故は、その川の辺に山ユリ草 多(さわ)にあり。   故(か)れ、その山ゆり草の名をとり、佐韋川と号(なづ)けき。   山ゆり草の本(もと)の名は「さゐ」と云ひき 」(岩波文庫89頁。)とある。   中国と日本原産のゆりは古名を佐韋(さい)、三枝(さいぐさ)といい、これは賽の河原のサイと同じ 意味で、ゆりの霊力が天上の扉を開くと信じられていた。百合というのは漢名で、鱗片(りんぺん)が幾 重にも重なり合っていることからついたとされる。  『万葉集』に詠まれた「ゆり」は十首ある。 「道の辺の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや(作者不詳 巻七・1257)」では、 「道端の草深いところに咲き匂う笹百合花のように、微笑んだからといって、もうあなたの妻になったの ではありません」と詠じる。「百合」と「花笑み」がセットで用いられている。 「草深百合を妻と言ふべしや」の「妻」は百合の古語「さゐ」が掛けられている。  遠くからでも目を引くゆりの大きな花は、観る者に向かってにっこりと微笑みかけてくれるように見え る。 「さ百合の花の花笑みに にふぶに笑みて(家持 巻一八・4116)」  百合は、笹百合、山百合そして姫百合が登場するが、とりわけ笹百合は細茎に大きな花を咲かせること から、乙女が 微笑 ほほえ んでいるかの如くに見え、揺れ微笑む姿は一際美しく、その姿を優美な人とし て擬人化させて捉える。百合の花は「笑み」を表わす代表的な花である。 また、「ゆり」という語には、「後」という意味があるらしく、花の百合に続いて「後(あと)」という 表現が用いられる歌がある。 「灯火の光に見ゆるさ百合花 ゆりも逢はむと思いひそめてき 」内蔵伊美吉縄麻呂 巻十八・4087  「わぎも子が家の垣内のさ百合花 ゆりと言えるは否と言ふに似る 」紀朝臣豊河 巻八・1503   揺れる 百合 ゆり 即ち「 緩 ゆる み」の義から「遅い=後」と解して「後(のち・あと)」の意味を 含ませて詠んでいる。内蔵伊美吉縄麻呂の歌では、「燈火の光に見えるさ百合の花、そのゆりの名のごと く、また後にもお逢いしようと思いはじめました」と詠じ、百合を詠むことには微笑に合わせて再会や遭 遇をも意味している。(注3)  石清水八幡宮の百合は秘蔵の花とある。(注4) この秘蔵の花の百合は古名サイ(サヰ)であり、行基が隠されているのではないか。本殿を飾る欄間には 「百合とかまきり」があり、揺れる百合の花にカマキリがいる。カマキリを人物に想定すると、藤原鎌足 か。本殿西側の門上蟇股には「甲羅を持つ犀」がある。ここでの犀は水牛と言われる。(注5 )  百合の古語「さゐ」と妻、再会など「サイ」が掛けられている。百合はサイに導かれるようだ。  注1「妻鏡」『日本古典文学大系83仮名法語集』宮坂宥勝校注、岩波書店1964年、173-174頁。 注2 同上補注114、449頁。 注3 庄司信洲「百合と花笑(はなえ)みの美学 」 注4『説経』「百合若大臣」 注5 石清水八幡宮西門サイの額 5 行基とサイ (1)サイの詞@
サイの詞
さいころ(七はサイ 六と一。合わせて二十一。双六すごろく)蓑衣(サイ)虫。ニゴイをサイ。 さゐ:小さな魚の田のあぜの水たまりなどにある。 大刀はさひ・さび、佐比は鈕鍬のこと。佐比は鋤持の神の鋤(サイ)と同じ。賽の河原(地蔵菩薩)。斉明(皇極)天皇。鋤田寺「智光説話」。採桑老(雅楽の曲名、帽子の後ろに桑の葉をかたどったササの葉をさした老人が鳩の杖をついて一人で舞うもの)。采微歌:『行基年譜』。鋤を持つ行基像:輿山往生院。口はサイ(災)。山由理草。佐比持神(記・塩?珠)、鋤持神(神武紀)。長谷寺縁起「小井門子」。吹田市佐井寺。狭井神社。石清水八幡宮西門サイの額。狭衣。
 行基の資料を漁ると、「サイ」の造形が目立つ。「サイ」は、どうやら、行基と関連するようだ。数字 の七は博打の言葉で「サイ」という。 「さいころ」は六と一の組み合わせで、合わせて二十一となる。三昧地には六地蔵や七仏がある。 佐比は鋤持の神の鋤(サイ)と同じ。佐比は鍬の古語なり。(注1) 推古記に「太刀ならば呉の真鋤(さび)」とある。 (2)サイの詞A
基本語類語・縁語関連語拡張・連想
さい佐為・狭位・左位・七・塞・佐韋さいころ ・蓑衣虫再会・賽ノ神六・二十一・小魚・六斎日・七魚・道祖神・幸神・百合・勇魚(いさな)
サイ西・三一・三位・菜・犀・妻西家・西宅・小井王・木・酒・鉄・刀・栗・不知西王母・じゅん菜・再会・再生・基・弁財天
サヒ佐比佐備・鋤鉄・□(金偏に且)呉真□(金偏に且)
サン三・山三位・三昧大養徳・三千代・山斎

 大徳を追求してきた。大・尾とも王に通じる。王を分解すると、三と一ができる。 同様にして、行基に関する言葉を分解したり、関連付けると、「さい」という言葉に行き着く。 昔の人は、論語など漢籍から学び、漢字に堪能であり、言葉に敏感であり、多様な発想のもとに用いて いる。隠語も多い。 (3)行基とサイ  輿山往生院に鋤を持つ行基像がある。 行基を冠する言葉は、行基山・行基寺・行基橋、行基焼、行基鮒、行基七墓、行基式目など数多い。 行基山佐井寺は、「佐井寺の背後の行基山は水に乏しかったが、行基菩薩の祈祷により「佐井の清水」が 湧水したといわれており、吹田三水の一つ…」とある。 吹田市佐井寺摂津国三嶋郡西佐井村「佐井寺=山田寺」、『拾芥抄』に二十一寺の一つ。「朝廷恒例の読 経を行わるる公家の祈願所である。」  「さい」の名は、天皇や藤原氏のように忌避された名前か。古代の人名に東人(注2)は見られるが、西人 は見られない。僅かに西の字を「かわち」と読む西麻呂(注3)があるぐらいだ。『行基年譜』などには、 天平8年に菩提遷都が難波に到着した際、菩提遷都を迎える摂津太夫の姿が見えず、その役割を行基が果た している。 (4)ゆかりの寺院 行基の寺は、行基寺、国分寺、竹林寺、医王寺、薬師寺などがあるが、西の字が付く寺やサイの字が付く 寺がある。行基由緒寺は、『全国寺院名鑑』(昭和44年刊行)によれば、全国に647箇所あるが、北海道、青 森、鹿児島、沖縄県を除く日本列島のほぼ全域に及んでいる。 表 西・サイの字が付く寺院
寺院名所在備考
獨鈷山普門院 西明寺 栃木県芳賀郡益子町大字益子『坂東観音霊場記』第20番、観世音菩薩を安置。 もともとの寺号は益子寺であったが,北条時頼(1227−63。 出家して,世に西明寺殿と呼ばれた)が本堂を修営したのを縁に「西明寺」と改名した。
医王山西念寺 (山城国鹿山寺)木津川市鹿背山行基が堂塔整備、浄勝寺とし、薬師如来を本尊とする。遍照僧正(816-890)が鹿山寺(行基菩薩行状記[群書類従第二百四])と改め、元禄6年(1693) 西念寺改名
西明寺 三重県上野市才良坂本西教寺の末寺
極楽山西明寺尼崎市食満尼ケ池
玉手山西教寺柏原市円明町行基建立「安福寺」
西明寺与謝郡伊根町聖観音「行基伝承」
薬王山西光寺丹波篠山天平年間行基開基
西芳寺(苔寺)京都市西京区聖徳太子創業、行基建立「西来殿」
最勝寺(大岩山多聞院)栃木県足利市行基寺
最明寺新潟県南蒲原郡下田村院内千手観音菩薩
行基山佐井寺吹田市佐井の清水、『拾芥抄』二十一寺の一つ。
西明寺木津市加茂町大野寺伝では行基ゆかりと伝える
普現山西遊寺八幡市橋本中ノ町前身は橋本寺とされるが、橋本寺は別にあった。
 『行基菩薩行状記[群書類従第二百四]』に、山城国鹿山寺の名が出てくる。伊丹市史では具体的には どこか不明であるとされているが、「泉木津、笠置寺、木津河」と「木津河、狛の里」の地名のある話 の間に挿入されている鹿山寺は、山城国の木津河付近に想定されそうである。木津町鹿背山には過去に 鹿山寺と呼ばれた寺院がある。それは西念寺である。鹿山寺の三鹿が蘇る。森が木を積み上げらたよう に鹿を積み上げた三字は、□(ソ→蘇)である。  縁起や棟札によれば、百済の僧がこの地で修行し、のち行基が堂塔を整備して浄勝寺とし、薬師如来 を本尊にしたことがはじまりとされている。その後、遍照僧正(816-890)が鹿山寺と改め、更に、元禄6 年(1693年)に医王院西念寺と改名した。 開基は行基菩薩とされている。  加茂町には「大野」の地名が多い。木津町との境には、大野山があり、四箇所の大野がある。また、 西明寺がある。 注1 足立康『大和史』5巻3号「春日率川宮址について」 注2 県犬養宿祢東人、中臣宮処東人、大伴宿祢東人、大野東人、御手代東人、置始東人、大倭宿祢小東人、 為奈真人東麿、、、 注3 『続日本紀』宝亀8年(777)記事:大和宿禰西麻呂従五位下。 6 行基と六斎日
霊異記上5・中2・中7・中8・中・12中29・中30
六歳日81415232930
処理中8中2中12中7中8中7中8中8中29中30
上5×6
『日本霊異記』の巻番号の数字は、単独で、または組み合わせると「六斎日」の六個の日の数と一致する。 「中8」「中29」「中30」は単独で一致する。 「中2・中7」は、二つを掛け合わせると、十四になる。 「中12」は、「中2」から「中12」までの四つを加えると、二十九になる。上5の処理は、5×6=30となろう。 この霊異記の行基の記事と似通うものに『続日本紀』がある。
続日本紀 記事内容六歳日
養老元(717)年4月23日壬辰条行基弾圧の詔23
天平2(730)年9月29日庚辰条「近レ京左側山原」での集会29
天平3(731)年8月7日癸未条行基集団の部分的公認8+7
天平15(743)年10月19日乙酉条行基の大仏建立への参加15・29
天平17(745)年正月21日己卯条行基を大僧正に補任未成立
天平21(749)年2月2日条行基薨伝21+2
宝亀4(773)年11月20日辛卯条行基の「修行之院」への施入4+11
 『続日本紀』に行基に関する記事は、霊異記と同様に、年月日の数を組み合わせると、「六斎日」となる ものが多い。ところが、天平十七(745)年正月21日己卯条は、「行基を大僧正に補任」の記事であるが、 年月日の組み合わせで、「六斎日」未成立。これには、霊異記の大僧正任は「天平十六年十一月」とする異 論がある。Iの行基薨伝記事は、続日本紀の正規の記載方法である天平勝宝元年を使うと六斎日を満足しない が、天平二十一年なら成立する。
7 行基・婆羅門贈答歌  行基の歌の特徴は、引用されるごとに、その言葉が「変化」するのである。私流に表現するなら「差異」 を生じている。小さい差異は、平かな・カタカナ・漢字の変化、単語の言換えなどがある。 差異が分かりやすい事例として、行基・婆羅門贈答歌が挙げられる。  行基・婆羅門贈答歌は、『拾遺和歌集』を初出に、数多くの史料に引用されている。 拾遺和歌集以後は俊頼髄脳、今昔物語、袋草紙、源平盛衰記、長門本平家物語、沙石集、古事談のほか、 三宝絵、法華験記、日本往生伝、建久御巡礼記など少しずつ変化が見えるが、表の如く大きくあからさま に差異を設けるものもある。 行基・婆羅門贈答歌の変容
類型内容先後
A 行年七十六歳天平十五年 即ハラ門僧正和歌云、
伽毘ラ衛二聞テ吾来シ日本ノ文珠ノ御跡今ソ知リ奴留卜云云、…
 或説、行基#云云、
霊山ノ釈迦ノ御前二契リテシ真如不朽相見ツルカナ云
 バラ門僧正答云、
迦ビラヱニ共契シ甲斐有リテ文殊ノ御加保相見カナ云云、
婆羅門和歌
或る説 行基菩薩云々
行基(文殊)→返し婆羅門
B 南天竺より東大寺供養にあひに、菩薩がなぎさにつきたり時、よめる
霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな
 返し 婆羅門僧正
かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな
行基(文殊)→返し婆羅門
C 婆羅門僧正、南浜に於いて行基菩薩と相見て云はく、
霊山の釈迦の御前にちぎりこし文殊のみかほあひ見つるかな
 行基菩薩
迦毘羅会にともにちきりしかひありて真如くちせすあひみつるかな
婆羅門→返し行基(文殊)
D 行基菩薩は即婆羅門僧正の袖を引へて
霊山之釈迦ノ御所仁契而真如朽ちせす相見つる哉
 と一首之歌を詠じ給へは、婆羅門僧正、
迦毘羅会に契て置し甲斐有て文殊之御顔相見つる哉
行基(文殊)→返し婆羅門
E 行基菩薩すなわち婆羅門僧正の御手を引いて、
迦毘羅会に契りをきにしかひ有て文殊のみかほ相見つる哉
 と一首の歌を詠じ玉へば、婆羅門僧正、
霊山の釈迦のみもとに契てし真如朽ちせず相見つるかな
行基→返し婆羅門(文殊)
和歌が入れ替わる
F 行基菩薩すなわち婆羅門僧正の御手を引き給ふに、婆羅門僧正、
迦毘羅会に契りをきにしかひ有て文殊のみかほ相見つる哉
 と一首の歌を詠じ玉へば、行基菩薩、
霊山の釈迦のみもとに契てし真如朽ちせず相見つるかな
婆羅門→返し行基(文殊)
A:行基年譜/ B:拾遺和歌集(俊頼髄脳、今昔物語、袋草紙、源平盛衰記、長門本平家物語、沙石集、 古事談、古来風躰抄、三宝絵、法華験記、日本往生伝、建久御巡礼記)/ C:渓嵐拾葉集/ D:太平記西源院本/ E:太平記元正本/ F:太平記神宮徴古館本・南都本  行基・婆羅門贈答歌の変化は、『渓嵐拾葉集』のように、最初に行基が詠み、菩提僧正が応える順に違い があったり、菩提僧正を文殊とするような『太平記』元正本がある。  正しく歌を伝えないものの中には写し・転記誤りなど単純な誤りもあろうが、そのままの形で歌を伝える ことより、「差異」を設ける作為を目的とする者がいたものと考える。行基・婆羅門僧正の邂逅は、天平八 年のことであったが、多くは東大寺供養、つまり、大仏開眼供養のこととしている。これは、天平勝宝四年 のことであり、行基の死後であるからあり得ないことになる。。 「二人は「再会」を喜び合い、和歌を詠み交わす。」ことは共通している。(注1) これらの贈答歌は、どのように変化があっても、贈答歌の主題は、「再会」であることは変わらない。 もう一つは、行基の文殊菩薩化身である。菩提僧正(バラ門)と行基菩薩(文殊)はある意味、対になっている といえる。モンが共通しているので、婆羅門僧上と文殊が対になっていると考えると分かりやすい。   『行基菩薩行状記』では、婆羅門僧正と出会う行基を「此のときより行基大僧正は文殊の化身なりとしろ しめされけり」、「日本の文殊」とする。行基の本身は、「文殊師利菩薩」と理解される表現であることを、 言葉遊びとして捉えるならば、発想の連鎖を広げ、日本の文殊を読み替えるならば、「日本の門守」に行き 着く。「日本の門守」とは何なのか。外国からの使節は、大宰府に到着するが、その後、難波にたどり着く。 そこで国司の出迎えを受けるのである。婆羅門僧正は百官を引き連れた行基に迎えられたのである。外国か らの使節を迎える関守、つまり「日本の門守」は、摂津職の官人であり、その長は摂津職の大夫である。 従って、行基の本性は、摂津職に関与する官人が隠されているものと思われる。 注1 田中貴子『渓嵐拾葉集の世界』名古屋大学出版会、2003年、221頁。 8 酒解神 酒の神 
項目所在地備考
酒解神自玉手祭来酒解神社、山崎離宮八幡宮、宇治神社、梅宮大社、
樫原三ノ宮神社、伊賀国坂下酒解神社、盛岡八幡宮梅宮社、
酒避の神、道の神
大酒神社桂宮院、京都太秦、播州赤穂、相生市大避神社
酒見神社加西市北条町かるかや、酒見寺は行基開基
酒垂神社有馬郡三田、川辺郡藍村、豊岡酒滴神社
酒波寺滋賀県高島郡川上荘天平13年行基開基(興福寺官務牒疏)
梅宮社一所二条西大宮学館院内、一所山城国井手寺内、橘氏の氏神伊呂波字類抄
梅宮大社京都梅津酒解神、大若子神、子若子神、子酒解神
酒の神京都松尾神社亀井
伴酒著神茨木市宿久庄酒著神社続日本後紀・三代実録
酒殿神社二座酒彌豆男神、酒彌豆女神/佐牙神社(京田辺市)も同神を祀る。興福寺濫觴記
道祖神河内国古市郡・安宿郡酒解神、橘三千代の出身地に祀る。
その他、佐牙神社(京田辺市)、酒列磯崎神社(茨城県大洗)、丹生酒殿神社(和歌山県かつらぎ町)などがある。 酒解神の謎解き  大山崎の自玉手祭来酒解神社の酒解神は橘氏の氏神である。また、山崎離宮八幡宮には、酒解神を祀る。 宇治市に勧請された離宮八幡宮は、現在の宇治神社および宇治上神社である。 宇治川の中の島に橘地名がある。この宇治神社、宇治上神社は、氏、氏神と通じ、離宮八幡宮が酒解神を 祀ることから、橘氏と関連を持つ。また、酒見寺や酒波寺は行基開基の寺である。  酒解神の意味を考える。 梅宮大社は、 日本最古の酒造の神と言われ、橘氏の氏神である。 松尾大社も酒造の神であり、松尾大社の霊水「亀の井」は、「酒の元水」と言われる。 石清水八幡宮では、橘の実を使い酒を醸す。 酒の字は「三水に日読みの酉を書く、字訓して酒と付たり」問答「三寸(ミキ)と名付ける」文字どおり、 「酒解」の「酒」を分解すると、「サンズイの水」と「酉」になる。「酉」は、さらに「一」と「西」に 分解できる。「酒」は「三・一・西」と分解でき、二つの「サイ」が出来るが、「三」と「一」の組み合わ せは「王」ともなり、 「酒」は「サイ王」となる。道祖神「さいの神」は橘三千代の祀る神とされる。 9 大養徳国  大養徳恭迩京(恭仁京・久迩京)を考える。 行基年譜の直道一所(自高瀬生駒大登山道)がある。この「大登山道」は生駒山に通ずる道とされている が、疑問である。まず、高瀬から生駒山に向かうのであれば直道とは言い難いのではないか。地元では清 滝街道が行基道とされている。清滝街道に沿う形で行基道も発掘されている。清滝街道(国道165号)を 真っすぐ東に向かうと、大養徳恭仁京に行き当たる。「大登山道」とは「大養徳(恭仁京)道」と考える。 この大養徳恭仁京は山背国に所在する。 大徳供養 これらの「大養徳恭仁」・「考」・「養生功徳」の文字を自由な発想の元に考えると、「功徳(くとく= 句解く)」・「考」から、京都方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」を思い浮かべる。 「国家安康」は、僧侶である天海和尚によって、家康を切り離す呪詛をしたと豊臣が攻められるきっかけに されたものだが、この発想がもたらされた原点に、大養徳国があるのではないだろうか。『名目抄』(群書 類従468)に「盂蘭?供ウラボン。不レ読二供ノ字一ヲ例也」とあり、「供」の字を読まない例とされている。 この読まない字を補充して、大養徳に加えると、「大徳供養」ができる。大養徳恭仁とするほうが一層分か りやすいのであるが、アナグラム「大養徳恭仁」を並び換えると、「大徳供養に(仁)」となる。つまり、 大養徳恭仁京は、大徳の供養を冠した都になっていると思われる。(拙考「大養徳国考」) 行基図  仁和寺蔵の最古の行基図 西の部分が残り、東日本の部分が焼失している。仁和寺は応仁の乱でも焼失し なかった。それでも行基図が焼けているのは何故だろう。昆陽寺は荒木村重の乱で焼失した。焼け残ったは 仁和寺の末寺である。すると、仁和寺から流出したものが里帰りした可能性がある。仁和寺図には大和と山 城の国境に四角の枠があり、「王城」と読める。これは、山背国にあった大養徳恭仁京に該当するものであ るから、行基図原型は奈良時代恭仁京に都があった時を元にしていると考えられる。

10 継体天皇と行基
古事記712日本書紀720行基(668-749)
出自品太王五世孫袁本杼命 近江国(父方) 誉田天皇五世孫男大迹天皇 越国三国の地(母方)越国/河内国
年齢43(生年485年―没年527年)82(生年450年−没年531年)80/82
即位-507年58歳(即位前紀)58歳久修園院
皇妃7人関媛が漏れか。9人茨田連小望女関媛、根王女広媛(2皇子)茨田
御子19(男7、女12)→17(男7、女10)で合わない。関媛子が漏れか。21(男9、女12)→合わないのは広媛の2皇子か。
欣明天皇-母手白香皇女/生年509/510-没年571538年仏教伝来
皇居即位伊波礼玉穂宮即位樟葉宮→山背筒城宮→弟国宮→磐余宮(大和 国以前20年/一説7年)久修園院・山崎院建立
筑紫石井の乱磐井の乱鎮西→五泊
死去丁未(527)年4月9日辛亥531年2月7日丁未/甲寅534年749年2月2日丁酉
御陵摂津三島藍御陵藍野陵(今城塚古墳と比定する)大和生駒山東陵
事業-治水、足羽郡糞置荘文殊山、黒龍を降伏、鏑矢 で岩を射抜き、泉を湧出/ 任那4県百済国に割譲堀川渠 糞袴(樟葉) 石清水
年号継体天皇16年壬寅(522年建年号為善化『海東諸国記』→九州年号白鳳7年(668)生→九州年号
 継体天皇の記事は、古事記より日本書紀の方が詳しい。  行基の経歴は日本書紀の継体天皇と似る。年齢82歳で、樟葉で即位したときは58歳。行基は58歳で 久修園院を建てている。生年からすると、行基が継体天皇に似ることになる。継体天皇は、樟葉宮で 即位した後、山背筒城宮に遷り、その後大和の磐余宮に落ち着くまで何故、筒城宮から弟国宮に戻っ たのか。この足取りを手繰ると、行基の足跡と似通っている。  隅田八幡神社に伝わる人物画象鏡は、日本最古の金石文の一つとして国宝に指定され東京国立博物 館に寄託されている。「隅田八幡神社人物画像鏡」銘文に、 「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百 旱作此竟」(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢 人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る)(判読・解釈には異説あり) と あり、「癸未年」(503年)、「男弟王」が大和の「意柴沙加宮」(忍坂宮)にいた時に「斯麻」が鏡 を作らせて「男弟王」の長寿を祈ったことが記される。「斯麻」は『日本書紀』のみならず墓誌にも 別称の記された百済国の武寧王(462-523/在位502-523)であるとの見方が強まっている。「男弟王」は 「男大迹王=継体天皇」に比定することができる。そして、西暦503年に継体天皇が忍坂宮に居たこと になり、『日本書紀』『古事記』どちらにも忍坂宮のことは見えない。更には、『日本書紀』の即位 58歳は遅すぎて疑問だ。 ◎是年也、太歳丁亥。 元 年(507)の春正月の辛酉の甲申に、天皇、樟葉宮に行至りたまふ。 五年(511)の冬十月に、都を山背の筒城に遷す。 十二(518)年の春三月の丙 辰の朔 甲 子 に、遷りて弟国に都す。 二十年(526)の秋九月の丁 酉の朔 已  酉に、遷りて磐余の玉穂に都す。望蕊に丑はく、七年なり といふ。  崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初 の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の没年を527年としている。没年齢 は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。大和国宮にいた期間は、『日本書紀』では5年間。 『古事記』では、1年間程であり、いずれも隅田八幡神社所有の人物画像鏡銅鏡と異なる。 継体天皇の記事は『日本書紀』の作為が多いと思われ、それは行基の経歴に似たものとなっていること が指摘できる。『日本書紀』は、続日本紀など行基伝に影響されている可能性がある。 『続日本紀』霊亀元年条に「継レ体承レ基」がある。継体崩御は丁未(527)年・辛亥531年・甲寅534年の 三説がある。(注1)  応神天皇は八幡大神で僧体で現れる。行基は勿論僧。 『日本書紀』などを通観してみれば、文字を換えると、クズ→葛、城、弟、磐→石、筑紫→西・次など の語が読み取れ、敏達天皇の五世王の葛城王・佐為王兄弟が思い起される。 注1 『枚方市史』第1巻57頁。
11 行基と薬師寺の関係
史料紀年内容備考
優婆塞貢進文740-745師主薬師之寺師位僧行基行基は私度僧でなく高い地位にある僧侶
舎利瓶記749薬師寺沙門也和尚法諱法行一号行基
続日本紀797薬師寺僧
日本霊異記822-823行基景戒は行基の俗性と生地を誤った(井上薫)
薬師寺縁起1015薬師寺の別当
七大寺年表1165薬師寺行基弟子行達
三国伝記1407-1446薬師寺ノ行基菩薩
薬師寺新黒草紙江戸時代開山第二祖行基第一祖祚蓮
 特異な史料は、薬師寺僧景戒が書いた『日本霊異記』である。ここでは、行基を薬師寺僧とせず、井上 薫によると、「行基の俗性と生地を誤った」とされる。大僧正の任命も天平十六年として異なる。行基の 実像を知らなかったまま、行基の記事を書いたように思われる。 『薬師寺新黒草紙』は、行基を薬師寺開山第二祖行基とするが、同寺の故高田好胤師も「行基菩薩は私ど もの薬師寺の二代目の住職です。今の薬師寺の寺地を定められたお方です。(寺院東P3)」とし、別の書(史 料忘失)では、「行基は二代目薬師寺の師主として崇められている。追号であっても、それを政争の具とな し、薬師と行基の関係を否定し、更には行基を落としめようとする考えには与しない。」とある。 『舎利瓶記』には、行基の別名「法行」が記される。  ここで、明確に「師主薬師之寺師位僧行基」と記される『優婆塞貢進文』を見る。 「優婆塞貢進文とは、政府公認の得度を願い出る時に 提出する申請文書のことである。ここでは丹比連 大歳なる人物の得度が申請されているが、師主が行基と記されてあるから、行基の弟子であったことが知 られる。この文書は年月日を欠いているが、井上薫氏の考証によるなら、天平十二年(七四○)以後、 十七年(七四五)以前のものと推定できるという(井上薫「行基と鑑真」家永三郎編『日本仏教思想の展 開』平楽寺書店、一九五六年)。行基が政府から高い評価を得た後のもので、行基は師主として弟子の得 度を申請したのである。」とされる。(注1)  また、野村忠男は、貢進解は信頼のおける文書であろうが、検証が必要としている。(注2) そこで、行基の名が追号であれば、死後に行基となるわけであるが、多くの史料はそうではない。優婆塞 貢進文は、正倉院文書に保存されているが、挟まれている位置は大日本古文書第24巻の宝亀年間の文書が 混じる中に編冊されている。(注3)  天平十二〜十七年から離れた天平勝宝年代である。行基名の優婆塞貢進文は、甚だ簡明である。その文 字面を追っていくと、編冊前後の文書をなぞらえているようである。  寧楽遺文中に纏められた智識優婆塞等貢進文は、天平四年から宝亀六年まで約百五十名の名前があるが、 そのうち行基が関与したと思われる丹比連大歳優婆塞貢進文は、128番目である。  その優婆塞貢進文の特徴は、丹比連大歳の年齢が欠如していること、優婆塞貢進文の期日がなく、時期 が不明で、丹比連大歳の戸籍も調べられないことである。次に「浄行五年」が行基名の後に書き加えられ ているのは、直前にある寺史妖麿の異筆「浄行四年」を見て書き加えたようである。  「師主薬師之寺師位僧行基」の「薬師之寺」とする表記も新しい時代を感じさせる。そして、貢進の結 果として、「反」という文字が異筆で書かれている。  因みに、丹比連大歳優婆塞貢進文の後に秦伎美麻呂の優婆塞貢進文があり、大倭国が使われているが、 丹比連大歳優婆塞貢進文では大養徳国であり、天平九年から天平十九年頃までの表記である。 何より、丹比連大歳優婆塞貢進文の前後のもので、この優婆塞貢進文が構成されることから、この宝亀年 間に追加された可能性がある。 行基の優婆塞貢進文
丹比連大歳大養徳国城下郡鏡造郷戸主
立野首斐太麻呂戸口
 読経  法華経一部並破文
    最勝王経一部
    千手千眼経
    薬師経     「反」(異筆)
 誦経  八名普密経
   多心経
   観世音経

 師主薬師之寺師位僧行基
     浄行五年
丹比連大歳前後の優婆塞貢進文
坂本君沙弥麻呂年十三
     左京七條一坊戸主池田朝臣夫子戸口

 誦  多心経 十一面陀羅尼 
 読  最勝王経一部 観世音経  「不」(異筆)
    薬師経 唱礼


寺史妖麿 年廿 右京三條三坊戸主寺史足之戸口  
 読 法華経一部
  最勝王経一部   
 誦  最勝王経第七巻
      観世音経一部
   八名府普密陀羅尼経
 咒 羂索陀羅尼
   金鐘陀羅尼
   唱礼具   「浄行四年」(異筆)


  (丹比連大歳)

秦伎美麿 年廿一
     大倭国忍海郡栗樔郷戸主従七位勲十二等忍海上連薬
戸口
   (略)


日置部君稲持貢進文
   (略)
 師主薬師之寺僧平註
       天平十五年正月八日
   出雲国守従五位下勲十二等多治真人大国
 行基名を追号と考えるなら、丹比連大歳優婆塞貢進文は偽作とすることができる。行基名の著作は偽 書が多い。行基の第一次資料はない。「行基には直接自らを示す−例えば著書のような−いわゆる一次 史料が残されていないことを忘れてはならず、 たとえ詔勅であっても、「伝」と同じく二次史料として のとり扱いが必要であることは、今さら指摘するまでもなかろう。」 (注4) 注1 吉田一彦「行基と霊異神験」『民衆の導者行基』162-163頁。 注2 野村忠男70頁 注3 大日本古文書第24巻天平十七年八月一日類収続々修二十八帙五裏302頁。    注4 中川修『民衆と仏教』日本仏教史研究五、永田文昌堂、1984年、101頁。 12 二生の人 (1) 東大寺過去帳 東大寺二月堂の修二会で東大寺に関わる人の過去帳が読み上げられる。 同過去帳に関して有名な話は「青衣の女人」である。過去帳に読み上げられない「青衣の女人」は、過去帳 70番に「井上親王」はあるが、「井上内親王」がないこと等から光仁天皇の皇后である井上内親王と読み解 いた。(注1) ここで、一番から十五番まで読み上げ順に挙げる。 1大伽藍本願聖武皇帝 2聖母皇太后宮 3光明皇后 4[    ]  5本願孝謙天皇  6不比等右大臣   7諸兄左大臣 8根本良弁僧正 9当院本願実忠和尚 10大仏開眼導師天竺菩提僧正 11供養講師隆尊律師   12大仏脇士観音願主尼信勝 13同脇士虚空蔵願主尼善光  14造寺知識功課人  15大仏師国公麻呂 あえて、四番目を[   ]としたが、誰が入るのか予想してほしい。  4を除いて考えると、1〜7までは聖武天皇の身内と言って良い。8に良弁が入るが金鷲長者として東大寺 の前身となる山房を建てた人物であるから、4は聖武天皇の夭逝した皇太子基王を想定する方があるかも 知れない。しかしながら、答えを申し上げると「行基菩薩」である。基王が入るべき場所に行基が入って いるのである。行基と基王の関係を考えなければならない。 (2) 二生の人  『古来風体抄』は、真福田丸説話として「行基菩薩のさきの身に、やまとのくにになりける長者」 「(片袴の歌)かくいはれて二生の人にこそおわしけれと帰服しにけり」とあり、『和歌色葉』は、 「姫君は行基の化身也。行基菩薩は文殊の変化也」とされ、行基は二回生きる人、再生する人、前生が ある人、権化・反化(反化は変化の仮借とされる)の人として描かれる。 行基は二生の人とする説話を考える。  二生のパターンはいくつかある。 二生の人  『霊異記』に、行基は死後西方に生まれるとされる。(注2) 『古来風体抄』は、行基は二生の人とする。真福田丸説話を載せる。 小野篁は、二生の人、文殊の化身(帝王編年記)、 地獄に落ちて蘇る。  蘇生譚は霊異記に智光(中7)をはじめとして、数多くの説話が見える。 その他、小野篁(帝王編年記・竹林寺記)、三善清行(浄蔵貴所伝)、道賢=日蔵(道賢上人冥途記)がある。 死んだ後、別の場所に現れる例は、次のとおり。 高宮寺願覚(霊異記上4)は、遺体を焼却後、近江の国に現れる。行基もまた、近江の国に現れる。(注3) 死後の行基出現
史料内容備考
霊異記西方に生まれる(中2)、金の宮に生まれる(中7)安楽国=阿弥陀浄土(下39)
行基菩薩行状記文殊再生の大士
吾妻鏡孝謙天皇御宇天平勝宝元年十二月七日丁亥、東大寺供養。天皇並びに太上皇(聖武)寺院に幸す。導師は南天竺波羅門僧正、呪願師は行基大僧正。
為兼卿和歌抄行基天平勝宝4年大仏開眼供養
霊山寺縁起天平勝宝8年、行基と遷那が相謀って創建した746年
諸山縁起仁明天皇の使いとして、現れる。仁明天皇の母は橘加智子
造石山院所解行基大僧正私建石山寺は天平19(747)良弁開基
脱魂  霊異記(下38)に景戒が夢で火葬され、魂神(たましひ)が見れば意の如く焼けず、自ら□(しもと)を取り、 焼かるる己が身をつき貫き刺して返し焼く。…景戒の神識(たましひ)声を出して叫ぶ。 転生  聖徳太子は唐南岳大師、聖武天皇は聖徳太子の後身とする。 行基の前生は真福田丸を諭す姫君。(真福田丸説話)
史料内容備考
絵因果経釈尊が過去世に善慧仙人と生まれた『寺社縁起』岩波書店、457頁
仏法伝来次第聖徳太子者唐南岳大師後身
霊異記善珠→大徳皇子、寂仙→神野親王(下39)
諸山縁起役優婆塞、昔は大倭州の聖人、今は大唐国の第三の仙人『寺社縁起』岩波書店、136頁
 伝に没年が二つ以上ある。 生没年不詳とされる場合があるが、伝などにより拾う。 玄ム(没年738/745/746)、真備(没80/83歳)、行信(没年750/767)、良遍(1184/1194-1252)、 宗性(1202-1277/1292)、忍性(1217-1303/)、行基(668/670-749)  伝に没年が二つ以上あるのは、行基に関わる周りの人物に多い。行基もまた80歳/82歳没とされる。 真福田丸説話における行基の前生
史料行基の前世
霊異記行基は文殊の反化なり
今昔物語集和泉国大鳥の郡に住みける人の娘
私聚百因縁集大和ノ国猛者ノ厳シキ姫君
奥義抄大和国、猛者のいつきの姫君
聖誉抄行基ハ先年郡士ノ女也
古本説話集大和国の長者の姫君
古来風躰抄やまとのくになりける長者、国の大領などいふ物のむすめ/ 二生の人にこそ御座しけれ。
和歌色葉大和国猛者のいつき姫君/姫君化身
前生(過去に現れる行基)、  釈尊は過去世に善慧仙人と生まれた。(注4)
史料内容備考
行基年譜菩提遷都と加ビエラで約束した。贈答歌
泉橋寺、泉大橋(天平13年)聖武天皇との歓談
東大寺要録川原寺、斉明天皇治7年辛酉行基菩薩の建立661年
東寺王代記持統天皇6年法蔵行基為陰陽博士692年
法華験記行基は前生に法華持経者行基伝
仏教の教えでは、六道四生のおける輪廻転生は奇跡ではなく、普通に起こり得ることと信じられている のである。 (3) 行基になぞらえる人物。  さて、行基の二生及び転生について、様々な類型を見てきたが、行基になぞらえる人物として、徳一 (藤原仲麻呂の第六子、東北の新行基)、道昌・重源は行基の再来、仁範は行基の化身 (粉河寺縁起)が挙 げられる。  それ以外にいないだろうか。 (4) 基王  聖武天皇の皇子は、応永33年(1426)に成立した『本朝皇胤紹運録』に諱を基王とされる。(注5) 神亀4年(728)閏9月29日に誕生した皇子は翌年9月13日、2歳で病没する。誕生した神亀4年(728)年は 戊辰の年であり、行基は天智天皇8年(668)戊辰年に生まれたこととされる。  還暦は、「生まれなおして赤ん坊に還る」意味で、行基の還暦年に基王が生まれたことになる。 不思議ではないが、基王が誕生した戊辰年を基準として一回り先の還暦年に行基が誕生したようでもある。 そこには作為が考えられる。『行基年譜』に、60年の誤差の記事あることに暗示される。  霊異記景戒が火葬になる夢も延暦七年(728)戊辰年三月十七日であり、『行基年譜』は三十六歳以前が 削除されたと思われ、三十七歳から始まることに暗示される。 芭蕉の『奥の細道』に記載される行基の一生杖の栗の文字は、西と木に分解され、二生とすれば、サイと 基に別れるのではないか。 官職と官位の関係を示すものに、「行」と「守」がある。(注6) 夭逝した基王の姿を変えて、再生させるため、基王の没年を還暦年(60年)を遡らせ、行基という超人を創 り上げ、転生させたのではないだろうか。 『霊異記』(下38)に、光明皇后が諾楽宮に座す時 「年若くして失せたる王(みこ)、宝のごとき失せたる王や、破れたる玉、排れたる綾はよ。しが命幾何に 贖はむ。…」とうたわれた基王夭逝を惜しむ解決策は、「聖武御子行基菩薩転生」である。(注7 ) 「文殊の化身」と「帰化人」、この二つの言葉を結ぶと、帰化の文を殊にすると「基化」ができる。 つまり、基王=行基なのである。 基王の菩提寺は金鐘寺であり、後の東大寺である。東大寺過去帳の4番目に行基が位置することが理解でき よう。また、聖武天皇・光明皇后が建立した多くの国分寺に行基像が残る。夭逝した基王を行基として転生 させたのではなかろうか。同様に、法隆寺には「聖徳太子二歳像」がある。これも二歳で没した基王を同じ 皇太子である聖徳太子像の身代わりとしたのだろうか。(注8 ) 『続日本紀』神亀五年十二月条金光明経六十四巻を諸国に頒つ。国別に十巻なり。これは同年九月に薨じた 基王の供養のためと思われる。 注1 桜井徳太郎「縁起の類型と展開」『寺社縁起』岩波思想体系20、1975年、457頁。 注2 『日本霊異記』岩波書店70頁。注10。 注3 『日本霊異記』上4願覚/『造石山院所解』行基石山寺を作る。 注4 「過去現在因果経」                                    注5 続日本紀には皇子とのみあって名は記されていない。『本朝皇胤紹運録』には基王とある。これは     「某王」の誤謬とする見解(『大日本史』を嚆矢とする。)もあるが、一般的には基王が用いられている。   (水本好信『藤原四子』吉川弘文館、94頁。) 注6「行」と「守」:位の名と官の間に置いて、位が高く官の低いことを示すのに用いる語。この反対に、  官が高く位が低い時には「守」の字を用いる。(三省堂新明解古語辞典第二版) 注7 菊池山哉「三国長吏家系図」『特殊部落の研究』批評社、1993年。 注8 聖武天皇も聖徳太子の生まれ代わりとされる。 13 白鳳年号  白鳳という年号がある。『竹林寺略録1305年』や『行基菩薩縁起図絵詞1316年』に行基は、天智天皇 御宇七年戊辰白鳳八年(668)の生まれとある。何故、行基誕生に白鳳年号が使われるのかを考える。
竹林寺略録・行基菩薩縁起図絵詞 天智天皇御宇七年戊辰白鳳八年(668)
竹林寺略録・流布本人王第三十九代天智天皇御宇七年戊辰菩薩誕生、年号即白鳳八年也
竹林寺略録・唐本人王第三十九代天智天皇御宇七年八月菩薩誕生、年号即白鳳八年也
行基菩薩縁起図絵詞天智天皇御宇白鳳八年生戊辰托生
 唐本(唐招提寺本の略)竹林寺略録の「八月」は、流布本「戊辰」を写し誤ったものと考えられる。 そうすると、流布本→唐本の前後の流れとなる。八世紀に書かれた『藤原家伝・貞慧伝』にも白鳳という 年号が使われている。何故、行基誕生に白鳳年号が使われるのかを考える。  田村圓澄は、『貞慧伝』に白鳳十六年があることについて、「白鳳は時の政府がつけた公年号でなくて、 民間のものがつけた私年号といわれています。では、民間のだれがつけたかということになれば、私は[藤 原鎌足の側近の高句麗の]道顕であったと思うわけです。」とする。(注1)    『貞慧伝』における白鳳十六年は天智四年(665)に当たり、白鳳元年は650年になるから、「竹林寺略録・ 行基菩薩縁起図絵詞」の白鳳元年=は661年と異なる。史料に白鳳年号を探す。
史料内容白鳳元年
大織冠伝、古語拾遺、運歩色葉集大化元年己酉の歳を元年、天智天皇即位の元年、戊辰の歳をさす649
続日本紀神亀元年冬十月条白鳳以来朱雀以前650
竹林寺略録・行基菩薩縁起図絵詞天智天皇御宇七年戊辰白鳳八年(668)661
藤原家伝・貞慧伝白鳳十六年(665)/白鳳五年歳次甲寅650
類聚三代格、天平9年3月10日太政官符白鳳より淡海天朝まで650
本朝皇胤紹運録文武天皇白鳳12年癸未(683)降誕、元正天皇白鳳10年辛巳(681)降誕672
多武峯略記・興福寺略年代記白鳳7年戊寅672
扶桑略記藤原宮御宇天皇代白鳳四十七年丁酉歳二月十日651
諸山縁起『寺社縁起』91頁白鳳の年…同(白鳳)13年の庚寅の年(690)678
同上113頁/補注386頁藤原御宇天皇の代、白鳳47年丁酉(697)651
興福寺官務牒疏天武天皇白鳳9年庚午(670)662
二中歴、和漢合符、本朝皇代記白鳳二三辛酉(661)  六六一〜六八三(対馬採銀観世音寺東院造)661
 『続日本紀』には、「白鳳以来朱雀以前」とある。「白鳳」は、孝徳天皇朝の年号(白雉)の別称とされ る。(注2) 「白雉元年」を白鳳元年と数えるものには、大織冠伝、類聚三大格、天平9年3月10日太政官 符、古語拾遺などがあり(注3) 、一般には、白鳳年は、白雉年を引き継ぎ、白鳳元年を650年とされる ものと天武天皇即位壬申年を白鳳元年とするものが多い。しかしながら、「竹林寺略録・行基菩薩縁起図 絵詞」の白鳳年号は、それに該当せず、天武天皇即位を白鳳2年とする『本朝皇胤紹運録』や「諸山縁起」、 『興福寺官務牒疏』とも異なる。『興福寺官務牒疏』は、庚午年であれば、天智天皇9年(670)であり、 天武天皇9年であれば、庚辰となるので誤記が認められる。本書は偽書とされる。(注4)  行基に使われる白鳳年号と一致するものに『二中歴』の九州年号がある。(注5) 九州年号は、李氏朝鮮申叔舟の『海東諸国記』や『如是院年代記』にも「白鳳年号」が使われる。 (注6) 白鳳元年が661年であるから「白鳳八年」は668年となる。併せて、白鳳元年は、斉明天皇の時代である。 ここにも行基と斉明天皇が関係付けられる。 「竹林寺略録・行基菩薩縁起図絵詞」における行基の白鳳八年誕生は九州年号によって記されたのである。 この理由を考えると、行基の誕生乃至行動の基点は九州鎮西から始まるものと推定する。(7注) ちなみに、石清水八幡宮の祭神は、九州鎮西からもたらされた誉田天皇(応神天皇)であり、志多羅神は九州 から伊丹・山崎を経由して石清水八幡宮に落ち着くのである。同じように鎮西筑紫から来るものに刈萱道心、 石童丸がいる。二人は伊丹を通過して高野山に着くのである。高野山には聖武天皇、行基の供養塔が作られ ている。 注1 田村圓澄『古代朝鮮と日本仏教』講談社学術文庫s60年、159頁。 注2 現代思潮社続日本紀第2分冊、注8頁。 注3 諸山縁起『寺社縁起』岩波書店、1975年、386頁。 注4 馬部隆弘『椿井文書』中公新書、2020年、68頁 注5 佃 收著『新「日本の古代史」(中)』星雲社、 注6 古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房、2010年、334頁。 注7 拙考「五泊考」 14 『続日本紀』における行基伝  天平勝宝元年紀に「天平廿一年二月」の七文字の錯入がある。行基薨伝条である。 「天平廿一年二月」の七文字が、ここに見られることは、改元元号はその年の年初に遡って適応される続紀 の記載方法に合わず、明らかに錯入と言うべきである。(注1)  これは、行基の記事を挿入したことによって派生したものと考える。行基の薨伝には、出生地が和泉国と されるが、和泉国は天平宝字二年(758年)から延暦十六年にかけて使われ、行基の生存中ではないからで ある。 近年の歴史学会の見解では『続日本紀』は何ものかを語り上げるために述作されたものであるとの見解が ある(注2)が、その何ものかの一つは行基に関するものと憶測する。  行基に関する記事の挿入は行基薨伝だけであろうか。『続日本紀』に行基の記事が6箇所ある。 それ以外に、中川修は、「養老二(718)年十月庚午条…大政官による僧綱に対する五箇条の布告/ 養老六 (713)年七月己卯条…弾圧の詔/天平二(730)年九月庚辰(29日)条…「近レ京左側山原」での集会に行基の 名前は明記されていないが、前後の事情から行基にかかわるものと見做される場合が多い。勿論、天平二年 の集会の中心人物を行基であるとは断定しえないが、彼の運動とのかかわりを否定し切れないことも確かで ある。」(注3)とする。  行基死後の宝亀四(733)年十一月辛卯条に行基の「修行之院」6院への施入記事がある。山崎院だけ何故 2反で他の5院は3反なのか。これは一つ不足していることを暗示するか。  行基の霊異記の記事番号と六歳日が一致したから、中川修が挙げた行基記事で、六歳日に当たる記事を探 すと、天平二(730)年九月庚辰(29日)条があり、この「近レ京左側山原」での集会記事がある。 この天平二(730)年九月庚辰(29日)条は、聖武天皇の皇太子が神亀五年九月二十九日から薨じてからちょう ど二年後。基王の命日に当たり、供養が行われたかと想像できる。この記事を含めると、行基に関する記事 は7か所にのぼることになり、奇しくも、七文字の錯入の数と一致する。七文字の錯入は、行基に関するこ れら7つの記事が錯入されていることを暗示しているのかもしれない。 行基薨伝   『続日本紀』天平勝宝元年二月二日条の行基薨伝は、「霊異神験類に触れて多し」とあり、『続日本紀』 編纂者の遊びだろう。この条は、行基の出身地を和泉国とし、行基の建立した院を四十九とする。宝亀四年 条は「四十余り」とするだけで、行基薨伝は宝亀四年以後に書き加えられた可能性が高い。  器に応じて誘導する。行基は、その形を変えて器に従う物は、水である。つまり、行基の姿は、「見ず」 となるのではないか。『日本書紀』の斉明天皇にも龍に乗る仙人や斉明天皇の喪を見つめる鬼が出てくる。 行基の弾圧  養老元年四月の詔に、「詔して曰く、職を置きて能を任ずるは、愚民を教導する所以なり。法を設け制を 立つるは、其れ好非を禁断するによるなり。(略)凡そ僧尼は、寺家に寂居し、教を受け道を伝えるに、令 に准ひて云はく、其れ乞食することあるは、三綱連署して、午前に鉢を捧げて告げ乞へ。此に因りて更に余 物を乞ふこと得ざれと。方今、小僧行基並びに弟子等、街衝に零畳して、妄に罪福を説き、朋党を合せ横へ て、指臂を焚き剥ぎ、歴門に仮説して、強ひて余物を乞ふ。詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す。道俗擾乱 して、四民業を棄てる。進ては釈教に違へ、退きては法令を犯すこと、二なり。(下略)」とある。 「方今」は、『行基年譜』にも出てくる。方は「ならべる」「くらべる」意味で、今は陰の源字である。 隠してあることを示す。五十歳になる行基に「小僧行基」と蔑称されるのは違和感がある。 「五十」は「いさ・いそ・い」と読む場合があり、「四十九」の次である。中有後の再生、蘇を意味するかも しれない。(注4)  行基の弾圧についての記事は、僧尼令に規定する内容が示されている。「僧尼令」は、「僧(に)令(し)む」 と僧に誘導する。「小僧」の字を分解すると、「小僧行基」は「サイ・ゾ・行基」となる。ここに、行基の隠 された別名が「サイ」で示される。「サイ」は、橘宿彌佐為にたどり着くのではないか。(注5) 注1 中川修『続日本紀』三巻、岩波書店、   注2 『行基伝承を歩く』根本誠二、岩田書院、23頁。『行基伝承を歩く』根本誠二、岩田書院、23頁。 注3 中川修『民衆と仏教』日本仏教史研究五、永田文昌堂、1984年、112-113頁。 注4 聖武天皇の皇太子は神亀四年(728)戊辰年生、行基も遡ること60年、戊辰年(668)生である。     注5 佐為王は、東宮(聖武天皇)の侍従として仕えた。聖武天皇の雑集(天平三年)に「慎口言」が使われる。 これは行基遺誡の「可慎口業」と似通っている。 「慎口言」は侍従の佐為王が東宮(聖武天皇)に教示したものと思われる。 15 伊丹の伝説2 「片目の魚」「片身の魚」や「荒府の池」の和歌、崑崙山昆陽寺などは前述の通りである。 さて、行基の謎に迫る史料を紹介しておきたい。伊丹に残る「大路庄鋳物師村由来記」である。  「覚書之事」に菅原道真と鋳物師村住人橘何某・大路何某との話したことに「菅公宣ふハ、各之名字ハ 何れの氏ニ候や、橘諸兄卿末孫抔ニ候や、如仰聖武帝御宇葛城大君之御事ニ候、菅公宣ふハ、其頃行基と 両人は帝江発向之方ニテ諸書ニも見覚候、然は各ハ橘元祖姓也、…」とある。(注1)  菅原道真と話した鋳物師村住人の橘何某と大路何某の両人は、橘諸兄卿末孫であると紹介すると、道真 は「其頃行基と両人は帝江発向之方ニテ諸書ニも見覚候、然は各ハ橘元祖姓也、…」と話されたとある。  筆者が読み解くところは、「聖武天皇の時代、行基と葛城大君(葛城王=橘諸兄)は帝である聖武天皇に向 かって直接発言できることが諸書に記されていたことを覚えているが、然るは、各は(両者が)橘元祖姓な り」とする。「然は各ハ橘元祖姓也」の解釈が難しいが、前文に「行基と両人」とあるので、「各は」の 意味は、「橘何某・大路何某」でなく、「行基と葛城大君」を指すと考えられる。いわば、道真の口を通 じて行基の正体を明かしていることなる。 結論的には、行基は葛城王とともに元橘姓であったことにな る。  葛城王とともに橘姓を賜ったのは、弟の佐為王、つまり橘佐為である。 また、その記には「竜蓮寺縁起を藤原不比等が行基を伴い四国の領地に行こうとしてこの地に寄られた時 蓮の池から竜が天上するするのを聞いて寺が建立されることになったと話す。」(注2)  ここには、養老元年行基が弾圧された時の首班が藤原不比等であり、続日本紀の記載にはない、行基― 藤原不比等の姿が描かれる。この史料には、行基のほかに藤原不比等や菅原道真の名前が出てくるが、江 戸時代に作られた偽書とされる。しかしながら、偽書と雖も伊丹に残る伝承が含まれていると考えるので、 内容の全てを作り物として否定することは正しくないかもしれない。 注1『旧鋳物師村大路利一氏文書(2)』伊丹市立博物館資料集5 注2『伊丹の伝説』23頁。 まとめ  行基は、「大徳」と呼ばれ、「サイ」に集約された。 八百万神や幾千万もの仏は人が造ったものである。行基菩薩もまた、然りである。 「天平二十一年己丑の春、二月の二日丁酉の酉時に、法(みのり)の儀(かたち)を生駒山に捨て、慈(うつく しび)の神(みたま)は彼の金の宮に遷りたまふ。」(注1) 黄金の宮殿に行基が入る。金は五行説で西を表す。  酒解神は橘氏の神である。酒を分解すると「三一」と「西」ができる。「三一」は「王」となる。 一号行基となりえる人物は、一人は法行大僧正であろう。それは僧体をした人物であったか。また、 仏の世界も人が死ねば、六道に輪廻転生するのである。  物事の起源となることを創り出し、行基の名前を冠せられる言葉が多く残り、文化的ヒーローとなる(注2) が、行基銘は追号であり、行基の著作は偽書と考える。   神と同様に超人の姿をする行基は、夭逝した聖武天皇の皇太子である基王を顕彰する目的で作られた人物 像であり、また、基王と同様にその時代に生きた聖武天皇身近な人物をモデルにしたものと考える。 注1『日本霊異記』岩波書店、1996年、73頁。 注2 堀一郎『我が国民間信仰史の研究』東京創元社、1995年。

お羊さま考−多胡郡碑−

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