成立 | 史料 |
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神亀二年 | 行基年譜(9月12日始起)、作者部類(6月13日起工) |
神亀二年・神亀三年 | 帝王編年記 |
神亀三年 | 水鏡・本朝事始・如是院年代記・仁寿鏡・濫觴抄・扶桑略記… |
名称 | 紀年 | 内容 | 備考 |
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久修園院 | 神亀2年 | 天王山木津寺、釈迦堂本尊行基作 | 『行基年譜』 |
橋本寺(廃寺) | 神亀3年 | 山崎橋の東、阿弥陀如来、渡橋通行旅人休憩所なり。 | 石清水八幡宮図に橋本寺址が記される。 |
山埼院 | 天平三年 | 乙訓郡山前郷无水河側 | 『行基年譜』 |
宝積寺 | 神亀元年(724) | 鬼くすべの修法(慶雲3・706) | 寺伝 |
神亀4年(727) | 聖武天皇勅願により行基が建立。もとは山崎寺。伝行基作十一面観音の行基像あり。 | 『山城志』 |
山崎院・山崎橋は、行基より先に道昭(船大徳)が作ったことが『行基年譜』に見える。 また、北樟葉にある久修園院は、『石清水八幡宮史』史料第一輯中「縁起」に「石清水八幡護国寺久修園 院」と記され、石清水八幡宮・護国寺と久修園院が一体となっており、『宮寺見聞私記』には「彼寺鎮守者、 奉勧請狩尾明神」「此寺鎮守当山狩尾明神、行基菩薩勧請之云々」とあるように、行基と石清水八幡護国 寺及び狩尾明神との結びつきが深い様子が窺える。 『行基年譜』58歳条の久修園院の所在は、「交野郡一条内」とある。一条は、条理制を意味するものと 考えられている(注1)が、北樟葉における条里制の存在自体は明確でない。 条というのは、通常道路を指すと思われるが、川筋と見ることができないだろうか。 『枚方市史』によると、久修園院は、「寺所蔵の『久修園院縁起』に、寺は天王山木津寺と称し、行基の開 基で、聖武天皇から賜った地の四至は、東は男山のうち高尾の峯、南は王余魚河、北は米尾寺、西は大河 を限る」とあり、久修園院の四至の南限は「王餘魚川」とある。「王餘魚川」は、鏡伝池乃至元登池から流れ 出る天満川に比定する。王餘魚川=天満川は、西流し、大谷川から淀川に流入した。(注2) 久親恩寺は篠崎の郷・天部の郷に所在した。天部郷は「天マ郷」と略され、王余魚河はいつしかテンマ川 となったか? 天満川は現在一部区間は暗渠化され、緑道となるが、北楠葉から分流され、南下する水路も 天満川とされている。
注1 『枚方市史』第2巻、1972年、157頁。 注2 昭和58年1月昭文社発行の枚方市地図に天満川が表示されている。
2 伊丹の伝承・伝説 (1)「片目の魚」「片身の魚」 伊丹の伝承など片身の魚・片目の魚の伝承がある。魚が生き返る奇跡である。片目の魚は、柳田国男が 考察している。(注1) 『行基年譜』三十七歳条 に「行基諸国遊行給、還旧里時人々池側集、魚取食、 勇人見行基以鮒鱠奉之、 即食之吐出、彼鱠小鮒。 従口生入池、人驚敬咎悔、今池見在云云、 皆無片眼。」とあり、魚の膾(なます) を食べて池に吐き出すと生き返り、小さな魚になって泳ぐ話である。 また、『摂州川辺郡崑崙山昆陽寺略縁起』に「行基の曰く、今より汝に食を与ん。殺生の業をなすことな かれと、則魚を禁じて食を与へ給ふ。其餘肉を池に放ち給ふに、暫して小波を起ゝ、泳き去。 今に一盲半 焦身の魚此池にあり。其後殺生禁制なり。」(注2)とある。 社寺の境内の魚を捕らえ食う事を忌んだ。膾になった魚を池の吐き出すのは、「イケ=生きよ」という 呪文のようにも思われる。「一盲半焦身の魚」とは、片目で、片身が焦げた魚をいうのであろうか。 「行基鮒」というのが、昭和30年代ころまで、伊丹市近辺の池や水路等で見られた。これは、鱗や皮膚 が透き通り、体色が赤くみえるので、魚を半身にしたような様子であるが、片目ではなく、両眼がある。 「片目・片身」は別の意味があろう。「片目・片身の魚」の伝承は、行基の生誕地である堺の家原寺にも残 るから、行基と結びつけられている。(注3) 半焦身と焦げた魚は、荒木村重の乱で昆陽寺のほとんどが焼失したことと関係するか。昆陽寺は安楽院 以外は全て焼失し、現昆陽寺の位置に移転した。(注4) 行基の仁和寺日本図も半分焼けて西日本部分が無くなっている。 「片目の魚」「片身の魚」といえば、カレイ、ヒラメの類である。 ところで、カレイは、「王餘魚」と書く。 「王餘魚」について、「朱豪L云、南海有二王餘魚一加良衣比、俗云加禮比 昔越王作レ鱠不レ盡餘レ半棄レ水、 因以二半身為一レ魚、故名曰二王餘魚一也」とある。(注5) 行基説話の出所元であろう。昔越王が鱠を作り、全部を食べ盡さず、半分の餘りを河水に棄てると、半身 の魚となったゆえに、名を「王餘魚」というのである。文字通り、王が食して余った魚である。 『行基年譜』三十七歳条は、「みぞな→見ぞ名」とする。持統天皇記3年7月23日条に「魚」これを「儺 (な)」という。小さな魚=小魚(サイヲ)であるから、「サイ王」を作る。
注1「一目小僧その他」(『定本柳田国男集5』所収・1964年・筑摩書房)』 注2『摂州川辺郡崑崙山昆陽寺略縁起』元禄15年(1702)『略縁起集成』第六巻、2001年、勉誠出版、 155-158頁。 注3『和泉名勝図会』 注4『昆陽組邑鑑』伊丹市博物館、1997年。 注5 岡田 希雄『類聚名義抄の研究』勉誠出版、2004年、602頁。 (2)「荒府の池」の和歌 瑞ヶ池は、平安時代より「あらふ(荒府)の池」として和歌(注1)に読まれている。 『日本名所風俗図会』荒府池、名産?菜ジュンサイ、この池の名草なり。「名草」は「名僧」を連想する。 「香、他に異なり、古歌に詠ず。」とある。 「川上やあらふの池のうき蓴(ぬなは)うき事ありやくる人もなし」『新拾遺和歌集』曽彌好忠 「白波のあらふの池のうき蓴引根によきて玉ぞこぼるる」『名寄』藤原家隆 「詩経」の六義の一に「興」がある。『大辞林(三省堂)』によると「草や鳥など自然界の事物から歌を 起こして、それとなく人間世界にたとえる手法」とある。波風にふらふらと漂う「うき蓴」は、時の政治 に翻弄された行基の姿に重なる。 『晉・張翰伝』に「蓴羮鱸膾」がある。「じゅんさいのすいものとすずきのなます。」「蓴鱸」である。 「晉の張翰は故郷のこれらの食べものをなつかしみ官を辞して帰郷した。転じて、故郷を思う情のたとえ。 」とある。(注2) 『行基年譜』三十七歳条説話には、「あらふ(荒府)の池うき蓴」が「魚のナマス」とともに出てくる。 ところで、この「うき蓴」は、ジュンサイのことである。行基とジュンサイが関連を持つとすれば、『拾 遺和歌集』の行基の歌「法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し」の「菜摘み」の「菜」 とも連想して「サイ」が導かれる。また、最勝王経供養に根?を用いる習わしも「サイ」を掛けているか。 昆陽の歌に「蘆(芦)・あしのは」が多く読まれる。 つの国の児屋は何にかかくるらん くきのみたてる霜かれの蘆 夫木集 藤原隆房 津国のこやのうら風音づれて蘆の枯れ葉に秋は来(き)にけり 夫木集 範光 蘆の葉にかくれて住し津国のこやもあらわに冬はきにけり『拾遺和歌集』源重之 昆陽は、和名抄で、児屋郷とする。児屋は、字を置くである。 「霜かれの蘆」は、「霜枯れの葦」と書き換えると、「枯・葦」の二字から古い木(基)・サイが導かれる。 注1 『日本名所風俗図会』大阪編、244頁 注2 『角川・新字源』6953「蓴」の項、868頁。 (3)崑崙山昆陽寺 昆陽寺の「崑崙山」は、どこから発想したものだろうか。 「崑崙山」は、「中国古代に西方にあると想像された高山。書経の禹貢、爾雅・山海経などにみえる。崑 山。」(大辞苑)とある。仙女である西王母が住む場所である。 宝暦六年(1756年)頃の『昆陽組邑鑑(以下「昆陽鑑」とする。)』「川辺郡千僧村」の項では、阿弥陀堂 境内に、「行基菩薩御母公之石塔」があったとされる。 (注1) 連想ゲーム的に関係付けるならば、行基の母=西王母と見做すならば、行基は「西王」ということになる。 西王母の園の桃、長寿を願う漢の武帝の宮殿に天降り、仙境の実七粒を武帝に与えた。この桃は、三千 年に一度花咲き実を結ぶという。(列仙伝)(注2) ある歌会で、「三千代へてなるてふ桃のことしより花咲くあひぞしにける[右是則]。「とし(年)」と 云ふべきことを「代」とよめりとて負く。」と桃のなる三千年を三千代としたので負けとなったという話 がある。(『袋草子』下217頁。)ここに、「西王母」に結びつく「三千代」が見える。 他方、『神明鏡上』に「始皇帝不死薬ヲ求也。垂仁治、常世国奉果。今橘是也」とある。」(注3) 天平勝宝元年大伴家持が「時及能香久乃菓子(この橘を等伎自久の可久能木実と名付けけらしも:万葉集18 -4111)」いわゆる、非時香菓・時及能香久乃菓子は橘であり、三千年に一度花咲き実を結ぶ桃と通じる。 また、昆=魚=イヲである。陽は「いつわり」の意味である。 注1『昆陽組邑鑑』伊丹市博物館、1997年 、46頁。 注2『神道集』東洋文庫94、貴志正造訳、1967年、154頁。 注3『続群書類従』852上96-97 (4) 行基の歌 行基を織り込んだ歌 『古今和歌六帖』にしなが鳥の歌がある。 「しなが鳥ゐな野を行けば有間山 霧[きり]立渡り明ぬ此夜は」(第二、山) 「しなが鳥ゐな山響き行く水の 名をのみよせし隠れ妻はも」 (第五、かくれづま) これらは『万葉集』の 「しなが鳥猪名野を来れば有間山 夕霧立ちぬ宿[やどり]は無くて」(巻第七−1140) 「しなが鳥猪名山響[とよ]に行く水の 名のみ縁[よ]さえし隠妻[こもりづま]はも」(巻第十一−2708) の正しい読み方を失ったかまたは改作したものであろうとされる。(注1) 前出の和歌には、行基の名が読み込まれている。併せて、妻があるが、音読みではサイである。 また、神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良の歌、万葉集巻5-799 「大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る」にも繋がるか。 山上憶良は行基と何らか関係するのかもしれない。 上記下線部が行基を織り込んだ部分である。有馬山、水、名、隠妻は行基の縁語であろう。 「しなが鳥」は「息が長い鳥」つまり、カイツブリのような水中に潜って餌を探す鳥である。 「しなが鳥」は「ゐな」に掛かる。貴族社会のことである。隠された意味は、「品が取り」「否」である。 王族に与えられた「品」が無くなるのを嫌がることを指すのである。 やまどりの歌 昆陽寺の境内に行基の歌碑がある。 「山鳥の ほろほろとなく 声きけば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ」(玉葉集・釈教) この歌は『夫木和歌抄』巻二十七の九動物部の「□(=義+鳥)ヤマトリ」に 山鳥の啼くをききて 行基菩薩 やまとりのほろほろとなく おときけば ちちかとぞ思ふ ははかとぞ思ふ と収録されているのを撰集の資料とされる。(注2) さらに、『行基菩薩縁起図絵詞』の歌に、雉鶏振レ羽有レ興、有レ感菩薩作歌曰 「春乃野乃に ほろほろとなく きし尾 ちちかとそおもふ 母かとそ於もふ」と改作される。(注3) 初句が字余りで、三句目が字足らずの変な表記が見られるから、謎解きをする。 父はカナ書きで、母は漢字(漢字ヨか)初句と三句目を合わせると、「足らざるを足るで充ちよ」と考える。 「春」→分解すると「三人か」と読める。きし尾=基師と王である。 また、「乃野乃」と「尾」は「三の」と「王」で→「三野王→美努王」が織り込まれている。母を感じる に「三千代」となるか。 「ほろほろ」と「おもふ」の重なりがある。父母とも重なる。「山鳥」を重ねると「嶋」ができる。「嶋」 は、「山斎」ともある。ここから、鳥=斎が導かれる。斎は鳥で取られることを示す。 「ほろほろ」の声乃至声はどこから発想されたのか。 『万葉集』巻十九には、神護4年(727年)に光明子に皇子が誕生した際に三千代が詠んだと伝えられている 県犬養命婦の和歌が収められている。 太政大臣藤原の家の県大養命婦の、天皇に奉りし歌一首 天雲をほろに踏みあだし鳴る神も今日にまさりて恐けめやも(巻19-4235番歌)。 ここに、「ほろ」が一つ見えるが、武具の「ほろ」は「母衣」と書く。母が出てくる。「ほろほろ」と鳴く やまどりの歌は、美努王や三千代に導かれるものと思われる。 「山鳥」の「山」は、「さん」である。また、横棒を一と見るならば、「山鳥」は「さん取り」或いは「さん い取り・さい取り」となる。 注1 『伊丹市史』第1巻、1971年、420-421頁。 注2 米山孝子『行基説話の生成と展開』勉誠社、1996年、152-166頁。 注3 同上155頁。 3 行基の一生 行基の呼び名など
名前・表記 | 史料 | 内容 | 備考 |
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行基、法行 | 墓誌 | 法行一名行基/行基菩薩 | 年譜「行法(大僧正)」 |
行器丸 | 行基大菩薩行状記 | 榎の木の股に置いた | 胞衣、心太(テングサ) |
法基丸 | 和泉国名所図会 | 父高志氏貞知、母蜂田虎身女薬師姫 | |
行嘉大徳 | 古記 | 行基大徳 | 霊異記「行基大徳」 |
行基菩薩 | 続日本紀 | 時の人号けて行基菩薩と曰ふ | 墓誌「世に菩薩と称す」 |
大菩薩 | 行基年譜 | 秦堀河君足「大菩薩遊化行事」 | |
師位僧行基 | 優婆塞貢進解 | 師主薬師之寺師位僧行基 | |
帰化人 | 新撰姓氏録 | 古志連(高志氏) | 文宿祢同祖、王仁之後也 |
年歯鉄杖 | 東大寺正倉院開封記 | 行基八十二歳 | 鉄=サ・サイ |
年次 | 人物 | 年齢 | 褒賞物 |
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文武天皇2年 | 義淵 | 56 | 高年を優して杖を賜る |
文武天皇4年 | 左大臣多治比真人嶋 | 77 | 霊寿杖・輿 |
養老5年 | 百済沙門道蔵 | 80 | 養老のため物を施す |
天平13年 | 左大弁巨勢朝臣奈弖麻呂 | 72 | 杖を賜ふ |
神護景雲3年 | 大和宿祢長岡 | 80卒 | 正四位下を授ける |
宝亀8年 | 飯高諸高 | 80 | 紬、糸、絢、調布、庸布 |
史料 | 内容 |
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行基年譜 | 菩薩暗知咲云(66歳条)、天皇感悦給、大菩薩奉礼咲含、悦テト云々(74歳条) |
霊異記 | 菩薩神通を以て光の念ふ所を知りたまひ、咲を含み、愛びて言はく… |
三宝絵 | (智光)杖ニカカリテ尋ネイタリヌ。行基菩薩暗ニソノ心ヲシリテ、ホヲヱミテ云、… |
往生極楽記 | 菩薩□見、知意含咲 |
古来風体抄 | 行基菩提僧正「互いに手を取り、笑みを含みて、物語し給いて…」 |
サイの詞 |
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さいころ(七はサイ 六と一。合わせて二十一。双六すごろく)蓑衣(サイ)虫。ニゴイをサイ。 さゐ:小さな魚の田のあぜの水たまりなどにある。 大刀はさひ・さび、佐比は鈕鍬のこと。佐比は鋤持の神の鋤(サイ)と同じ。賽の河原(地蔵菩薩)。斉明(皇極)天皇。鋤田寺「智光説話」。採桑老(雅楽の曲名、帽子の後ろに桑の葉をかたどったササの葉をさした老人が鳩の杖をついて一人で舞うもの)。采微歌:『行基年譜』。鋤を持つ行基像:輿山往生院。口はサイ(災)。山由理草。佐比持神(記・塩?珠)、鋤持神(神武紀)。長谷寺縁起「小井門子」。吹田市佐井寺。狭井神社。石清水八幡宮西門サイの額。狭衣。 |
基本語 | 類語・縁語 | 関連語 | 拡張・連想 | |
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さい | 佐為・狭位・左位・七・塞・佐韋 | さいころ ・蓑衣虫 | 再会・賽ノ神 | 六・二十一・小魚・六斎日・七魚・道祖神・幸神・百合・勇魚(いさな) |
サイ | 西・三一・三位・菜・犀・妻 | 西家・西宅・小井 | 王・木・酒・鉄・刀・栗・不知 | 西王母・じゅん菜・再会・再生・基・弁財天 |
サヒ | 佐比 | 佐備・鋤 | 鉄・□(金偏に且) | 呉真□(金偏に且) |
サン | 三・山 | 三位・三昧 | 嶋 | 大養徳・三千代・山斎 |
寺院名 | 所在 | 備考 |
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獨鈷山普門院 西明寺 | 栃木県芳賀郡益子町大字益子 | 『坂東観音霊場記』第20番、観世音菩薩を安置。 もともとの寺号は益子寺であったが,北条時頼(1227−63。 出家して,世に西明寺殿と呼ばれた)が本堂を修営したのを縁に「西明寺」と改名した。 |
医王山西念寺 (山城国鹿山寺) | 木津川市鹿背山 | 行基が堂塔整備、浄勝寺とし、薬師如来を本尊とする。遍照僧正(816-890)が鹿山寺(行基菩薩行状記[群書類従第二百四])と改め、元禄6年(1693) 西念寺改名 |
西明寺 | 三重県上野市才良 | 坂本西教寺の末寺 |
極楽山西明寺 | 尼崎市食満 | 尼ケ池 |
玉手山西教寺 | 柏原市円明町 | 行基建立「安福寺」 |
西明寺 | 与謝郡伊根町 | 聖観音「行基伝承」 |
薬王山西光寺 | 丹波篠山 | 天平年間行基開基 |
西芳寺(苔寺) | 京都市西京区 | 聖徳太子創業、行基建立「西来殿」 |
最勝寺(大岩山多聞院) | 栃木県足利市 | 行基寺 |
最明寺 | 新潟県南蒲原郡下田村院内 | 千手観音菩薩 |
行基山佐井寺 | 吹田市 | 佐井の清水、『拾芥抄』二十一寺の一つ。 |
西明寺 | 木津市加茂町大野 | 寺伝では行基ゆかりと伝える |
普現山西遊寺 | 八幡市橋本中ノ町 | 前身は橋本寺とされるが、橋本寺は別にあった。 |
霊異記 | 上5・中2・中7・中8・中・12中29・中30 | |||||
六歳日 | 8 | 14 | 15 | 23 | 29 | 30 |
処理 | 中8 | 中2中12 | 中7中8 | 中7中8中8 | 中29 | 中30 上5×6 |
続日本紀 記事 | 内容 | 六歳日 | |
1 | 養老元(717)年4月23日壬辰条 | 行基弾圧の詔 | 23 |
2 | 天平2(730)年9月29日庚辰条 | 「近レ京左側山原」での集会 | 29 |
3 | 天平3(731)年8月7日癸未条 | 行基集団の部分的公認 | 8+7 |
4 | 天平15(743)年10月19日乙酉条 | 行基の大仏建立への参加 | 15・29 |
5 | 天平17(745)年正月21日己卯条 | 行基を大僧正に補任 | 未成立 |
6 | 天平21(749)年2月2日条 | 行基薨伝 | 21+2 |
7 | 宝亀4(773)年11月20日辛卯条 | 行基の「修行之院」への施入 | 4+11 |
類型 | 内容 | 先後 |
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A | 行年七十六歳天平十五年 即ハラ門僧正和歌云、
伽毘ラ衛二聞テ吾来シ日本ノ文珠ノ御跡今ソ知リ奴留卜云云、… 或説、行基#云云、 霊山ノ釈迦ノ御前二契リテシ真如不朽相見ツルカナ云 バラ門僧正答云、 迦ビラヱニ共契シ甲斐有リテ文殊ノ御加保相見カナ云云、 | 婆羅門和歌 或る説 行基菩薩云々 行基(文殊)→返し婆羅門 |
B | 南天竺より東大寺供養にあひに、菩薩がなぎさにつきたり時、よめる
霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな 返し 婆羅門僧正 かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな | 行基(文殊)→返し婆羅門 |
C | 婆羅門僧正、南浜に於いて行基菩薩と相見て云はく、
霊山の釈迦の御前にちぎりこし文殊のみかほあひ見つるかな 行基菩薩 迦毘羅会にともにちきりしかひありて真如くちせすあひみつるかな | 婆羅門→返し行基(文殊) |
D | 行基菩薩は即婆羅門僧正の袖を引へて 霊山之釈迦ノ御所仁契而真如朽ちせす相見つる哉 と一首之歌を詠じ給へは、婆羅門僧正、 迦毘羅会に契て置し甲斐有て文殊之御顔相見つる哉 | 行基(文殊)→返し婆羅門 |
E | 行基菩薩すなわち婆羅門僧正の御手を引いて、 迦毘羅会に契りをきにしかひ有て文殊のみかほ相見つる哉 と一首の歌を詠じ玉へば、婆羅門僧正、 霊山の釈迦のみもとに契てし真如朽ちせず相見つるかな | 行基→返し婆羅門(文殊)
和歌が入れ替わる |
F | 行基菩薩すなわち婆羅門僧正の御手を引き給ふに、婆羅門僧正、 迦毘羅会に契りをきにしかひ有て文殊のみかほ相見つる哉 と一首の歌を詠じ玉へば、行基菩薩、 霊山の釈迦のみもとに契てし真如朽ちせず相見つるかな | 婆羅門→返し行基(文殊) |
項目 | 所在地 | 備考 |
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酒解神 | 自玉手祭来酒解神社、山崎離宮八幡宮、宇治神社、梅宮大社、 樫原三ノ宮神社、伊賀国坂下酒解神社、盛岡八幡宮梅宮社、 | 酒避の神、道の神 |
大酒神社 | 桂宮院、京都太秦、播州赤穂、相生市 | 大避神社 |
酒見神社 | 加西市北条町 | かるかや、酒見寺は行基開基 |
酒垂神社 | 有馬郡三田、川辺郡藍村、豊岡 | 酒滴神社 |
酒波寺 | 滋賀県高島郡川上荘 | 天平13年行基開基(興福寺官務牒疏) |
梅宮社 | 一所二条西大宮学館院内、一所山城国井手寺内、橘氏の氏神 | 伊呂波字類抄 |
梅宮大社 | 京都梅津 | 酒解神、大若子神、子若子神、子酒解神 |
酒の神 | 京都松尾神社 | 亀井 |
伴酒著神 | 茨木市宿久庄酒著神社 | 続日本後紀・三代実録 |
酒殿神社 | 二座酒彌豆男神、酒彌豆女神/佐牙神社(京田辺市)も同神を祀る。 | 興福寺濫觴記 |
道祖神 | 河内国古市郡・安宿郡 | 酒解神、橘三千代の出身地に祀る。 |
古事記712 | 日本書紀720 | 行基(668-749) | |
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出自 | 品太王五世孫袁本杼命 近江国(父方) | 誉田天皇五世孫男大迹天皇 越国三国の地(母方) | 越国/河内国 |
年齢 | 43(生年485年―没年527年) | 82(生年450年−没年531年) | 80/82 |
即位 | - | 507年58歳(即位前紀) | 58歳久修園院 |
皇妃 | 7人関媛が漏れか。 | 9人茨田連小望女関媛、根王女広媛(2皇子) | 茨田 |
御子 | 19(男7、女12)→17(男7、女10)で合わない。関媛子が漏れか。 | 21(男9、女12)→合わないのは広媛の2皇子か。 | |
欣明天皇 | - | 母手白香皇女/生年509/510-没年571 | 538年仏教伝来 |
皇居 | 即位伊波礼玉穂宮 | 即位樟葉宮→山背筒城宮→弟国宮→磐余宮(大和 国以前20年/一説7年) | 久修園院・山崎院建立 |
筑紫 | 石井の乱 | 磐井の乱 | 鎮西→五泊 |
死去 | 丁未(527)年4月9日 | 辛亥531年2月7日丁未/甲寅534年 | 749年2月2日丁酉 |
御陵 | 摂津三島藍御陵 | 藍野陵(今城塚古墳と比定する) | 大和生駒山東陵 |
事業 | - | 治水、足羽郡糞置荘文殊山、黒龍を降伏、鏑矢 で岩を射抜き、泉を湧出/ 任那4県百済国に割譲 | 堀川渠 糞袴(樟葉) 石清水 |
年号 | 継体天皇16年壬寅(522年建年号為善化『海東諸国記』→九州年号 | 白鳳7年(668)生→九州年号 |
史料 | 紀年 | 内容 | 備考 |
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優婆塞貢進文 | 740-745 | 師主薬師之寺師位僧行基 | 行基は私度僧でなく高い地位にある僧侶 |
舎利瓶記 | 749 | 薬師寺沙門也 | 和尚法諱法行一号行基 |
続日本紀 | 797 | 薬師寺僧 | |
日本霊異記 | 822-823 | 行基 | 景戒は行基の俗性と生地を誤った(井上薫) |
薬師寺縁起 | 1015 | 薬師寺の別当 | |
七大寺年表 | 1165 | 薬師寺行基 | 弟子行達 |
三国伝記 | 1407-1446 | 薬師寺ノ行基菩薩 | |
薬師寺新黒草紙 | 江戸時代 | 開山第二祖行基 | 第一祖祚蓮 |
丹比連大歳大養徳国城下郡鏡造郷戸主 立野首斐太麻呂戸口 読経 法華経一部並破文 最勝王経一部 千手千眼経 薬師経 「反」(異筆) 誦経 八名普密経 多心経 観世音経 師主薬師之寺師位僧行基 浄行五年 |
坂本君沙弥麻呂年十三 左京七條一坊戸主池田朝臣夫子戸口 誦 多心経 十一面陀羅尼 読 最勝王経一部 観世音経 「不」(異筆) 薬師経 唱礼 寺史妖麿 年廿 右京三條三坊戸主寺史足之戸口 読 法華経一部 最勝王経一部 誦 最勝王経第七巻 観世音経一部 八名府普密陀羅尼経 咒 羂索陀羅尼 金鐘陀羅尼 唱礼具 「浄行四年」(異筆) (丹比連大歳) 秦伎美麿 年廿一 大倭国忍海郡栗樔郷戸主従七位勲十二等忍海上連薬 戸口 (略) 日置部君稲持貢進文 (略) 師主薬師之寺僧平註 天平十五年正月八日 出雲国守従五位下勲十二等多治真人大国 |
史料 | 内容 | 備考 |
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霊異記 | 西方に生まれる(中2)、金の宮に生まれる(中7) | 安楽国=阿弥陀浄土(下39) |
行基菩薩行状記 | 文殊再生の大士 | |
吾妻鏡 | 孝謙天皇御宇天平勝宝元年十二月七日丁亥、東大寺供養。天皇並びに太上皇(聖武)寺院に幸す。導師は南天竺波羅門僧正、呪願師は行基大僧正。 | |
為兼卿和歌抄 | 行基天平勝宝4年大仏開眼供養 | |
霊山寺縁起 | 天平勝宝8年、行基と遷那が相謀って創建した | 746年 |
諸山縁起 | 仁明天皇の使いとして、現れる。 | 仁明天皇の母は橘加智子 |
造石山院所解 | 行基大僧正私建 | 石山寺は天平19(747)良弁開基 |
史料 | 内容 | 備考 |
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絵因果経 | 釈尊が過去世に善慧仙人と生まれた | 『寺社縁起』岩波書店、457頁 |
仏法伝来次第 | 聖徳太子者唐南岳大師後身 | |
霊異記 | 善珠→大徳皇子、寂仙→神野親王(下39) | |
諸山縁起 | 役優婆塞、昔は大倭州の聖人、今は大唐国の第三の仙人 | 『寺社縁起』岩波書店、136頁 |
史料 | 行基の前世 |
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霊異記 | 行基は文殊の反化なり |
今昔物語集 | 和泉国大鳥の郡に住みける人の娘 |
私聚百因縁集 | 大和ノ国猛者ノ厳シキ姫君 |
奥義抄 | 大和国、猛者のいつきの姫君 |
聖誉抄 | 行基ハ先年郡士ノ女也 |
古本説話集 | 大和国の長者の姫君 |
古来風躰抄 | やまとのくになりける長者、国の大領などいふ物のむすめ/ 二生の人にこそ御座しけれ。 |
和歌色葉 | 大和国猛者のいつき姫君/姫君化身 |
史料 | 内容 | 備考 | |
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行基年譜 | 菩提遷都と加ビエラで約束した。 | 贈答歌 | |
泉橋寺、泉大橋(天平13年) | 聖武天皇との歓談 | ||
東大寺要録 | 川原寺、斉明天皇治7年辛酉行基菩薩の建立 | 661年 | |
東寺王代記 | 持統天皇6年法蔵行基為陰陽博士 | 692年 | |
法華験記 | 行基は前生に法華持経者 | 行基伝 |
竹林寺略録・行基菩薩縁起図絵詞 | 天智天皇御宇七年戊辰白鳳八年(668) |
竹林寺略録・流布本 | 人王第三十九代天智天皇御宇七年戊辰菩薩誕生、年号即白鳳八年也 |
竹林寺略録・唐本 | 人王第三十九代天智天皇御宇七年八月菩薩誕生、年号即白鳳八年也 |
行基菩薩縁起図絵詞 | 天智天皇御宇白鳳八年生戊辰托生 |
史料 | 内容 | 白鳳元年 |
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大織冠伝、古語拾遺、運歩色葉集 | 大化元年己酉の歳を元年、天智天皇即位の元年、戊辰の歳をさす | 649 |
続日本紀神亀元年冬十月条 | 白鳳以来朱雀以前 | 650 |
竹林寺略録・行基菩薩縁起図絵詞 | 天智天皇御宇七年戊辰白鳳八年(668) | 661 |
藤原家伝・貞慧伝 | 白鳳十六年(665)/白鳳五年歳次甲寅 | 650 |
類聚三代格、天平9年3月10日太政官符 | 白鳳より淡海天朝まで | 650 |
本朝皇胤紹運録 | 文武天皇白鳳12年癸未(683)降誕、元正天皇白鳳10年辛巳(681)降誕 | 672 |
多武峯略記・興福寺略年代記 | 白鳳7年戊寅 | 672 |
扶桑略記 | 藤原宮御宇天皇代白鳳四十七年丁酉歳二月十日 | 651 |
諸山縁起『寺社縁起』91頁 | 白鳳の年…同(白鳳)13年の庚寅の年(690) | 678 |
同上113頁/補注386頁 | 藤原御宇天皇の代、白鳳47年丁酉(697) | 651 |
興福寺官務牒疏 | 天武天皇白鳳9年庚午(670) | 662 |
二中歴、和漢合符、本朝皇代記 | 白鳳二三辛酉(661) 六六一〜六八三(対馬採銀観世音寺東院造) | 661 |
忍海野烏那羅論文集 |
行基論文集 |