国分僧寺 | 国分尼寺 | 東大寺 | 法華寺 | |
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天平13年3月24日 | 金光明四天王護國之寺 | 法華滅罪之寺 | ||
天平14年7月14日 太政官符 | 金光明寺本名金鐘寺(金鐘寺と福寿寺の統合) | |||
天平15年1月13日 | 大養徳国分金光明寺 | |||
天平17年5月11日 | 旧皇后宮を宮寺とす。 | |||
天平19年11月7日 | 金光明寺 | 法華寺 | 東大寺優婆塞貢進解(続日本紀:天平元年4月1日) | 法華寺 |
天平勝宝元年7月13日 | 諸国分金光明寺 | 諸国法華寺 | 大倭国国分金光明寺 | 大倭國法華寺 |
鎌倉時代 | 総国分寺 |
国分寺は、国ごとに置かれ、国費で造営維持される寺であると定義される。(4) その国分寺の初見は、『続日本紀』天平13年1月15日条に「故太政大臣藤原朝臣家、食封五千戸を返上す。 …三千戸は諸々の国分寺に施入し、以て丈六仏像を造るの料に充つ。」とある。 堀池春峰は、これは、『続紀』編纂時に加筆追記されたと考えられ、「今日の時点では、天平十四年 十一月十七日の優婆塞貢進解(大日本古文書2-138)の「国分寺僧」の国分寺を初見とするといえる。」(5) とされるが、国分寺の定義をより厳格にしないと容易に決められないかもしれない。(6) 大養徳国分金光明寺となる東大寺は、天平14年7月頃に金鐘寺と福寿寺が統合されたものである。(7) 東大寺が総国分寺と表現されるのは、鎌倉時代の凝然『三国伝法伝通縁起』によるとされる。 (2) 国分寺建立の詔 『続日本紀』天平十三年三月二十四日条に国分寺建立の詔が記される。その内容は、諸国に七重塔を建 て金字金光明最勝王経を納めること、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経し、国ごとに、僧寺 には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置き、僧 寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺となし、その他、僧尼は毎月八日の最勝王経を 転読、月なかばに至るごとの戎羯磨を誦すること、毎月六斎日には公私漁猟殺生を禁止することなどであ る。ところが、天平十九年十一月乙卯(七日)条には、国分寺造営の督促がされ、国分寺建立の詔は「天平 十三年二月十四日」と記され、齟齬を生じている。 天平十三年三月乙巳(二十四日)条は、「天平十三年 二月十四日」の誤りとされる。(8) この明らかな誤りは、天平勝宝元年条の「七文字錯入」などに誘導する意図があるかもしれない。(9) なぜ、国分寺建立の詔は、三月乙巳二十四日としたのか。三月二十四日には、「西と八」が隠されている。 (10) 「東大寺西塔は承平四年(934)10月19日に焼け落ちた。それを記した『扶桑略記』裏書は、「大和国国分寺 也」と述べており、西塔[天平勝宝五年、東塔天平宝字八年完成]を国分寺とする認識があったことが知ら れる。…『南都七大寺巡礼記』によれば、西大門が大和国国分寺であり、国分寺法会はこの門で勤修する という。」(11) 東大寺西大門は国分寺門と呼ばれ、「金光明四天王護国之寺」の勅額が掲げられていたから、国分寺と 西が対応することになる。 また、国分寺と八の数字は馴染み深い。八日市(飛騨)、八月堂(信濃)。行基に関する記事の挿入と関係 がありそうである。二月八日は行基の葬日である。「毎月八日の最勝王経転読と六斎日の殺生を禁ず」に 誘導される。最勝王経齋会供養にはジュンサイを供えるのである。(12) (3)聖武天皇の願文 『続日本紀』には、省略されているが、『類聚三代格』及び『延暦僧録/聖武天皇伝』には、聖武天皇の 願文が記載されている。『類聚三代格』における聖武天皇の願文は、 「一 願天神地祗共相和順、恒将二慶福一永護二国家一。 一 願開闢己降先帝尊霊、長幸二珠林一同遊二宝刹一。 一 願太上天皇、大夫人藤原氏、及皇后藤原氏、皇太子已下親王、及正三位右大臣橘宿禰諸兄等、同資 二此福一倶向二彼岸一。 一 願藤原氏先後太政大臣、及皇后先妣従一位橘氏大夫人之霊識、恒奉二先帝一面陪二遊浄土一、長顧 二後代而一常衛二礼一聖朝。乃至自レ古已来至二於今日一、身為二大臣一竭レ忠本レ国者、及見在 子孫、倶因二此福一各継二削範一、堅守二君臣之礼一長紹二父祖之名一。広二沿郡生一通二該庶品 一。同解二憂網一共二塵籠一。 一 願若悪君邪臣犯二破此願一者、彼人及二子孫一必遇二災禍一。世世長生下無二仏法一処上。」 とある。(13) 三番目に現存者の安穏を祈る願があるが、そこに臣下の橘諸兄の名がある。『延暦僧録』には、橘諸兄 の名を欠くので相違が分かる。なぜ極位極官でない橘諸兄の名があるのか。その理由は、聖武天皇にとっ て、かけがえのない人物の逝去に会い、その悼み惜しむ気持ちの反映が橘諸兄の名を取り上げたと思われ る。橘諸兄の弟佐為は、中宮大夫として母宮子を見守り、聖武天皇が東宮時代の侍従であり、なおかつ、 夫人古那可智の父でもある。 (4)聖武天皇詔書銅板・平田寺勅書 東大寺西塔には、天平勝宝五年(753)一月十五日付の聖武天皇詔書銅板が残されていた。銅板表銘は、 「格」の後半の聖武天皇願文を中心に引用され、裏面の天平勝宝元年の平城宮御宇大上天皇法名勝満名の 勅施入文は、平田寺に残る天平感宝元年閏五月二十日付の勅書により改変されたとされる。(14) 2国分寺建立の流れと先駆的な政策 (1) 国分寺建立の流れ
紀年 | 内容 |
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神亀元年 | 国分寺/聖武天皇僧行基をして建立せしめ給ひし『大正大阪風土記』(15) |
神亀5年12月28日 | 諸国に「金光明経[金光明最勝王経]」を頒つ |
天平元年6月1日 | 「仁王経」を講ず(金光明最勝王経、法華経と合わせて護国三部経) |
天平9年3月3日 | 詔して曰く、国ごとに釈迦仏像[丈六像]一躯・挟侍菩薩二躯[普賢・文殊]を造り、兼ねて大般若經一部を写させしめよ、と |
天平9年4月8日 | 大般若經600巻を転読を国家の儀礼とする。道慈の提案。 |
天平9年8月1日 | 橘佐為卒 |
天平9年8月2日 | 四畿内二監および七道諸国に命じて、僧尼、清浄に沐浴して一月の内に二、三度最勝王経を読ましむ。また、月の六斎日には殺生を禁断せしむ。 |
天平9年12月27日 | 大倭国を大養徳国に改める。 |
天平12年6月19日 | 天下諸国をして、国ごとに法華経十部を写し并に七重の塔を建てしむ。 |
天平12年9月15日 | (藤原広嗣の乱)故にいま国別に観世音菩薩像壱躯高さ七尺なるを造り、并びに観世音経一十巻を写さしむ。 |
天平13年1月15日 | 故太政大臣藤原朝臣家、食封五千戸を返上す。…三千戸は諸々の国分寺に施入し、以て丈六仏像[釈迦牟尼仏]を造るの料に充つ。 |
天平13年2月14日 | 国分寺建立の詔:『続日本紀』天平19年11月7日条、『類聚三代格』(八箇条条文の形式)『延暦寺僧録/聖武天皇皇帝伝』『聖武天皇詔銅板』 |
天平13年3月24日 | 国分寺建立の詔:『続日本紀』 聖武天皇願文を欠く。 |
天平14年8月11日 | 聖武天皇信楽宮行幸、造離宮司任。 |
天平15年1月13日 | 1月14日から49日間大乗金光明最勝王経転読会。大養徳国金光明寺殊勝会。四十九座の大徳(行基名はなし。) |
天平15年10月15日 | 菩薩の大願を発して盧舎那仏金銅造像を造り奉る詔(信香楽宮) |
天平19年3月16日 | 大養徳国を大倭国に戻す。 |
天平19年11月7日 | 詔して国分寺造立を督促する「国分寺建立の詔天平十三年二月十四日」 |
天平勝宝元年7月13日 | 法華寺に墾田地一千町、国分金光明寺に四千町給ひて、僧寺安居曾には最勝王經を講じ、尼寺滅罪の場には法華妙典を説かしめ給ふ。 |
天平勝宝8歳6月3日 | 七道諸国に国分寺丈六仏造を催検せしむ。(同年5月2日聖武太上天皇崩御) |
天平宝字4年6月7日 | 東大寺、国分寺の創建は光明太后の勧むる所なり。(光明皇太后崩御略伝) |
類型 | 数 | 該当国分寺 |
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行基開基建立 | 19 | 武蔵、上総、丹後、摂津、讃岐、美濃、阿波、飛騨、遠江、甲斐、伊勢、常陸、出羽、越後、伯耆、紀伊、豊後、伊予、恭仁京 |
行基作本尊 | 16 | 上総、志摩、越前、淡路(釈迦)、下総、美濃(薬師)、出雲(薬師)… |
行基堂・像設置 | 4 | 周防、越中、土佐、丹波 |
本尊薬師 | 21 | 筑前・豊前・周防・長門・石見・隠岐・因幡・伯耆・紀伊・丹後・丹波・若狭・越前・美濃・佐渡・武蔵・上総・陸奥、飛騨、阿波、相模 |
叡尊教団配下 | 12 | 周防・長門・丹後・因幡・讃岐・伊予・伯耆・但馬、陸奥、尾張、加賀、越中 |
天平9年開基伝承寺院 | 3 | 武蔵分、遠江、淡路(行基仏) |
忍海野烏那羅論文集 |
行基論文集 |