行基と国分寺

目次
1国分寺建立
2国分寺建立の流れと先駆的な政策
3行基の関与
4行基像の安置

はじめに
 国分寺建立の詔は、『続日本紀』天平十三年三月二十四日条に記されるが、別には「天平十三年二月
十四日」と記され、齟齬を生じている。
 そして、『愚管抄』に「行基菩薩諸国ノ国分寺ヲツクル」とあるが、慈円が『簾中抄』の記事を誤読
したという説がある。(1) 
 これに対しては、辻善之助は、『国分寺考』で「関与したであろう」とする。(2) 
 また、井上薫は「彼(行基)の活動範囲を『年譜』の四十九院や社会事業施設の場所から推せば、大
和・河内・和泉・摂津・山背の五ヶ国で、『霊異記』では、大和・和泉・摂津・山城で説法したり、社会
事業を営んだ話がのせられている。この点からも彼が全国を歩きまわったというのは、無理な話で、した
がって諸国の国分寺を建てたなどとはいえないわけである。」と否定する。(3)
ところが、多くの国分寺には、行基像が安置され、また、行基に関わる伝承が残っている。
国分寺の行基の関与および国分寺に行基像が安置される理由を探る。

1国分寺建立 (1) 国分寺の名称
国分僧寺国分尼寺東大寺法華寺
天平13年3月24日金光明四天王護國之寺法華滅罪之寺
天平14年7月14日 太政官符金光明寺本名金鐘寺(金鐘寺と福寿寺の統合)
天平15年1月13日大養徳国分金光明寺
天平17年5月11日旧皇后宮を宮寺とす。
天平19年11月7日金光明寺法華寺東大寺優婆塞貢進解(続日本紀:天平元年4月1日)法華寺
天平勝宝元年7月13日諸国分金光明寺諸国法華寺大倭国国分金光明寺大倭國法華寺
鎌倉時代総国分寺

 国分寺は、国ごとに置かれ、国費で造営維持される寺であると定義される。(4)
その国分寺の初見は、『続日本紀』天平13年1月15日条に「故太政大臣藤原朝臣家、食封五千戸を返上す。
…三千戸は諸々の国分寺に施入し、以て丈六仏像を造るの料に充つ。」とある。
 堀池春峰は、これは、『続紀』編纂時に加筆追記されたと考えられ、「今日の時点では、天平十四年
十一月十七日の優婆塞貢進解(大日本古文書2-138)の「国分寺僧」の国分寺を初見とするといえる。」(5)
とされるが、国分寺の定義をより厳格にしないと容易に決められないかもしれない。(6)
 大養徳国分金光明寺となる東大寺は、天平14年7月頃に金鐘寺と福寿寺が統合されたものである。(7)
 東大寺が総国分寺と表現されるのは、鎌倉時代の凝然『三国伝法伝通縁起』によるとされる。
(2) 国分寺建立の詔
 『続日本紀』天平十三年三月二十四日条に国分寺建立の詔が記される。その内容は、諸国に七重塔を建
て金字金光明最勝王経を納めること、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経し、国ごとに、僧寺
には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置き、僧
寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺となし、その他、僧尼は毎月八日の最勝王経を
転読、月なかばに至るごとの戎羯磨を誦すること、毎月六斎日には公私漁猟殺生を禁止することなどであ
る。ところが、天平十九年十一月乙卯(七日)条には、国分寺造営の督促がされ、国分寺建立の詔は「天平
十三年二月十四日」と記され、齟齬を生じている。 天平十三年三月乙巳(二十四日)条は、「天平十三年
二月十四日」の誤りとされる。(8)
 この明らかな誤りは、天平勝宝元年条の「七文字錯入」などに誘導する意図があるかもしれない。(9)
なぜ、国分寺建立の詔は、三月乙巳二十四日としたのか。三月二十四日には、「西と八」が隠されている。
(10)
「東大寺西塔は承平四年(934)10月19日に焼け落ちた。それを記した『扶桑略記』裏書は、「大和国国分寺
也」と述べており、西塔[天平勝宝五年、東塔天平宝字八年完成]を国分寺とする認識があったことが知ら
れる。…『南都七大寺巡礼記』によれば、西大門が大和国国分寺であり、国分寺法会はこの門で勤修する
という。」(11)
 東大寺西大門は国分寺門と呼ばれ、「金光明四天王護国之寺」の勅額が掲げられていたから、国分寺と
西が対応することになる。
 また、国分寺と八の数字は馴染み深い。八日市(飛騨)、八月堂(信濃)。行基に関する記事の挿入と関係
がありそうである。二月八日は行基の葬日である。「毎月八日の最勝王経転読と六斎日の殺生を禁ず」に
誘導される。最勝王経齋会供養にはジュンサイを供えるのである。(12)
(3)聖武天皇の願文
 『続日本紀』には、省略されているが、『類聚三代格』及び『延暦僧録/聖武天皇伝』には、聖武天皇の
願文が記載されている。『類聚三代格』における聖武天皇の願文は、
「一 願天神地祗共相和順、恒将二慶福一永護二国家一。
 一 願開闢己降先帝尊霊、長幸二珠林一同遊二宝刹一。
 一 願太上天皇、大夫人藤原氏、及皇后藤原氏、皇太子已下親王、及正三位右大臣橘宿禰諸兄等、同資 
   二此福一倶向二彼岸一。
 一 願藤原氏先後太政大臣、及皇后先妣従一位橘氏大夫人之霊識、恒奉二先帝一面陪二遊浄土一、長顧
   二後代而一常衛二礼一聖朝。乃至自レ古已来至二於今日一、身為二大臣一竭レ忠本レ国者、及見在 
   子孫、倶因二此福一各継二削範一、堅守二君臣之礼一長紹二父祖之名一。広二沿郡生一通二該庶品 
   一。同解二憂網一共二塵籠一。
 一 願若悪君邪臣犯二破此願一者、彼人及二子孫一必遇二災禍一。世世長生下無二仏法一処上。」
とある。(13)
 三番目に現存者の安穏を祈る願があるが、そこに臣下の橘諸兄の名がある。『延暦僧録』には、橘諸兄
の名を欠くので相違が分かる。なぜ極位極官でない橘諸兄の名があるのか。その理由は、聖武天皇にとっ
て、かけがえのない人物の逝去に会い、その悼み惜しむ気持ちの反映が橘諸兄の名を取り上げたと思われ
る。橘諸兄の弟佐為は、中宮大夫として母宮子を見守り、聖武天皇が東宮時代の侍従であり、なおかつ、
夫人古那可智の父でもある。
(4)聖武天皇詔書銅板・平田寺勅書
 東大寺西塔には、天平勝宝五年(753)一月十五日付の聖武天皇詔書銅板が残されていた。銅板表銘は、
「格」の後半の聖武天皇願文を中心に引用され、裏面の天平勝宝元年の平城宮御宇大上天皇法名勝満名の
勅施入文は、平田寺に残る天平感宝元年閏五月二十日付の勅書により改変されたとされる。(14)

2国分寺建立の流れと先駆的な政策
(1) 国分寺建立の流れ
紀年内容
神亀元年国分寺/聖武天皇僧行基をして建立せしめ給ひし『大正大阪風土記』(15)
神亀5年12月28日諸国に「金光明経[金光明最勝王経]」を頒つ
天平元年6月1日「仁王経」を講ず(金光明最勝王経、法華経と合わせて護国三部経)
天平9年3月3日詔して曰く、国ごとに釈迦仏像[丈六像]一躯・挟侍菩薩二躯[普賢・文殊]を造り、兼ねて大般若經一部を写させしめよ、と
天平9年4月8日大般若經600巻を転読を国家の儀礼とする。道慈の提案。
天平9年8月1日橘佐為卒
天平9年8月2日四畿内二監および七道諸国に命じて、僧尼、清浄に沐浴して一月の内に二、三度最勝王経を読ましむ。また、月の六斎日には殺生を禁断せしむ。
天平9年12月27日大倭国を大養徳国に改める。
天平12年6月19日天下諸国をして、国ごとに法華経十部を写し并に七重の塔を建てしむ。
天平12年9月15日(藤原広嗣の乱)故にいま国別に観世音菩薩像壱躯高さ七尺なるを造り、并びに観世音経一十巻を写さしむ。
天平13年1月15日故太政大臣藤原朝臣家、食封五千戸を返上す。…三千戸は諸々の国分寺に施入し、以て丈六仏像[釈迦牟尼仏]を造るの料に充つ。
天平13年2月14日国分寺建立の詔:『続日本紀』天平19年11月7日条、『類聚三代格』(八箇条条文の形式)『延暦寺僧録/聖武天皇皇帝伝』『聖武天皇詔銅板』
天平13年3月24日国分寺建立の詔:『続日本紀』 聖武天皇願文を欠く。
天平14年8月11日聖武天皇信楽宮行幸、造離宮司任。
天平15年1月13日1月14日から49日間大乗金光明最勝王経転読会。大養徳国金光明寺殊勝会。四十九座の大徳(行基名はなし。)
天平15年10月15日菩薩の大願を発して盧舎那仏金銅造像を造り奉る詔(信香楽宮)
天平19年3月16日大養徳国を大倭国に戻す。
天平19年11月7日詔して国分寺造立を督促する「国分寺建立の詔天平十三年二月十四日」
天平勝宝元年7月13日法華寺に墾田地一千町、国分金光明寺に四千町給ひて、僧寺安居曾には最勝王經を講じ、尼寺滅罪の場には法華妙典を説かしめ給ふ。
天平勝宝8歳6月3日七道諸国に国分寺丈六仏造を催検せしむ。(同年5月2日聖武太上天皇崩御)
天平宝字4年6月7日東大寺、国分寺の創建は光明太后の勧むる所なり。(光明皇太后崩御略伝)

 聖武天皇は、国分寺建立の詔の以前、天平九年(737年)三月三日には国ごとに釈迦三尊仏像を造り、 大般若経を写すこと、天平十二年(740年)には法華経10部を写し、七重塔を建て、金字最勝王経を収 めるようにとの詔を出している。  天平十三年正月十五日続日本紀の記事「天平十三年正月十五日故不比等封戸返上。三千戸は諸々の国分 寺に施入し入れて丈六の仏像を造る料に充つ。」の丈六仏像とは、釈迦牟尼仏(『続紀』天平十三年三月 二十四日条)であるから、国分寺造立は、天平9年3月3日に遡ると言えるだろう。 また、『如是院年代記』(16)は、「天平九年三月詔二毎州一造二六釈迦像?菩薩像一。写二大般若一部一。 是国分寺之始也。/同十三年始建二諸国国分寺一。」とする。『元亨釈書』『扶桑略記』も同様とする。 (2) 国分寺創建の発想  国分寺に関わる僧侶の道慈もしくは玄ムと二人があげられている。(17) 「道慈は、天平九年−十年の律師辞任説が真実ならば、下野した道慈が国分寺に関係したとは考えにくい。 これに対して、玄ムは、国分寺創建のモデルになった隋唐の仏教制度に詳しい。また、天平九年に僧正に 任ぜられ、国分寺創建当時の仏教界最高実力者であった。さらに、詔発布直後の天平十三年七月十五日付 玄ム発願書写になる『千手千眼経』の奥書に、国分寺創建の詔勅の一節と同文が認められることなどから、 国分寺創建の実質的な推進者は玄ムである可能性が高い。」(18)とされる。  国分寺の創建が、天平九年三月三日に遡るなら、「天平九年四月八日大般若經六百巻を転読」を国家の 儀礼とす、恒例化の行事とするのは、道慈の提案とし、同年十月大極殿にて、金光明最勝王経を講説に道 慈が関わる。(19)そうならば、国分寺創建期初期には律師である道慈が貢献、関与したと思われる。  そして、道慈が関わる中で、国分寺にかかる根本経典が大般若経から金光明最勝王経への変化がある。 『続日本紀』における「金光明最勝王経」転読の初見は、天平九年八月二日である。この時点では、藤原 宇合はまだ生存しており、藤原四兄弟を初め天下万民のために金光明最勝王経の転読及び六斎日の殺生が 禁断されたのではない。その前日に橘佐為が逝去したことが契機となったと考える。  次いで、天平九年十月二十六日には、大極殿で金光明最勝王経を講じている。その二日前に、中宮供養 院にて百官人が薪を貢進している。これは、中宮大夫橘佐為の供養があったのではないか。因みに、薪貢 進は、法華八講五巻の日の薪行道に繋がるものであり、行基の「法華経を我が得しことは薪こり 菜摘み 水くみ仕へてぞ得し」(拾遺)の歌にも関わるものと憶測する。(20) (4)先駆的な政策 聖武天皇の国分寺整備以前にも歴代天皇によって、先駆的な政策が見られる。 天武天皇の時代まで遡ると、国府寺(21)の制度がある。 天武五年(676)十一月二十日に諸国に遣使して護国経典の金光明経を転読させ、同十四年(685)三月二十七 日には諸国の官衛ごとに仏合を設け仏像と経典を置き、礼拝供養させており、恒常的な諸国での法会が整 備されている。  持統五年(691)二月一日には仏殿経蔵を作り、月毎の六斎を行う。同八年(694)五月十一日には諸国に 金光明経百部を送置し、毎年正月上玄(八日〜十四日)に読経を命じている。 文武天皇は、大宝元年(701)七月十七日に、造宮官や造塔、丈六の二官を定めている。 元正天皇は、養老五年(721)五月五日、諸国の寺を併合している。(定額の寺)(22) 天平九年以前についても国分寺の記載も見られる。 養老二年『南都七大寺巡礼記』「東大寺養老二年造二諸国々分寺一其一大和国之国分寺是也」 養老五年『東大寺雑集録』巻一「養老五年諸国建二国分寺又七年始レ之ト云有レ之」  神亀元年『興福寺略年代記』「神亀元年、始東大寺」  神亀四年『摂津名所図絵』「国分寺本願聖武天皇、行基開創」  神亀五年12月乙丑(28日)条、諸国に「金光明経」を頒つ。この記事は、基王が神亀五年9月13日薨、 同19日那富山に葬。11月3日造山房司長官が任じられているから、基王の供養に関して行われたものであ ろう。同様に、天平2年の平城京の東で行われた野天の大集会も基王の三回忌にあたる。  東大寺の前身は、金鐘寺(基王のための山房)であり、聖武天皇の国分寺構想は基王に行きつくのでは ないかと考える。 3行基の関与 (1)行基建立の国分寺 表  国分寺と行基の関わり
類型該当国分寺
行基開基建立19武蔵、上総、丹後、摂津、讃岐、美濃、阿波、飛騨、遠江、甲斐、伊勢、常陸、出羽、越後、伯耆、紀伊、豊後、伊予、恭仁京
行基作本尊16上総、志摩、越前、淡路(釈迦)、下総、美濃(薬師)、出雲(薬師)…
行基堂・像設置4周防、越中、土佐、丹波
本尊薬師21筑前・豊前・周防・長門・石見・隠岐・因幡・伯耆・紀伊・丹後・丹波・若狭・越前・美濃・佐渡・武蔵・上総・陸奥、飛騨、阿波、相模
叡尊教団配下12周防・長門・丹後・因幡・讃岐・伊予・伯耆・但馬、陸奥、尾張、加賀、越中
天平9年開基伝承寺院3武蔵分、遠江、淡路(行基仏)

 行基開基及び建立国分寺は、「伊勢・遠江・甲斐・武蔵。上総・常陸・出羽・越後・伯者・紀伊・豊後 の十一か国の国分寺が行基開創を記しており、本尊を行基作とする国分寺も多く、これを加えるとその数 は二七か国を数える。一方、『行基ゆかりの寺院』の調査では、行基開創を謳う国分寺は二三、これに伝 行基作の仏像をもつ国分寺を加えると三〇となるが、近世の納経帳で確認できるところとの重複は意外と 少なく、両者を併せるとじつに四四か国の国分寺が行基との関係を伝えていた(いる)」とある。(23)  上記の十一箇国に、丹後、摂津、讃岐、美濃、阿波、飛騨、伊予、恭仁京を加えると、十九になる。  五来重の掲げる薬師如来を本尊とする国分寺18箇所(24)に、飛騨、阿波、相模、丹波を加えると21。 「国分寺は、平安後期以来、ほとんど薬師如来を本尊とする寺になったため、薬師と行基との結びつきか ら、国分寺を創建したのは行基であるとする伝説が生じた。」(25)とされる。  叡尊教団配下の国分寺12箇所は西国に多い。(26) (2)『愚管抄』と『簾中抄』 国分寺の造営に関与した僧には、道慈と玄ムが挙げられているが、行基の関与は、『愚管抄』に「行基 菩薩諸国ノ国分寺ヲツクル」とある。これは、慈鎮(慈円)が『簾中抄』の記事を誤読したという説があ る。『簾中抄』は歴代天皇の事績を述べる。「聖武天皇治廿五年…東大寺の大仏をつくらる。みちの国 より始めてこがねを参らす。行基菩薩此御時の人也。初めて諸国の国分(尼イ)寺をつくりて世のいのり をす」の分の「初めてから」は別の事項であるが、一つにした」とある。(27) しかし、「いのりをす」の主語は聖武天皇でなく、行基と考える。天皇ならば、尊敬語を用いて、 「いのりを奉らる」などとするであろう。 (3)行基の関わり  行基は、養老年間以前から家原寺を建て、養老4年頃に菅原寺を建立している。行基と国分寺は、神亀 元年頃から関わる伝承がある。これは、聖武天皇が即位した年である。  行基は、聖武天皇と親密な関係にあるとの史料も多い。国分二寺(僧寺・尼寺)の建立は、行基の四十 九院との影響が指摘されている。(28) 4行基像の安置  全国の国分寺には、行基像を安置しているケースがある。周防、越中、土佐、丹波である。  根本誠二は、「何故、行基像が国分寺に安置されることとなったかは不明である。」(29)とする。 この謎解きをしよう。  国分寺に行基像が安置される理由は、全国千四百箇所に寺院に行基伝承が残ることと軌を一にする。行 基伝説には、雲仙に行基の墓があり、広島の安芸生口島の行基遺跡、関東・丹後巡歴など地方に拡散して いる。これらも行基供養の一環として、行基墓、行基の供養塔と同様なものである。最も古い行基の供養 塔は、久安二年(1146)丹後網野町の明光寺である。  『行基年譜』は、行年七十四歳の天平十三年条に「遷化之後、大小寺誦経了云云、或云、此記天平十一 年云々」とある。同じく、『行基菩薩伝』には、「遷化之後、大少寺誦経云云、」とある。(30) この記の後に、所謂「天平十三年記」が記されている。行基の遷化後に、誦経を了えた大小の寺の中には、 国分寺が含まれているのではないかと考える。そして、天平九年に行基の開創伝承が生まれ、後世に行基 像が造られたと思われる。また、国分寺だけでなく、各地で天平九年に開基した寺院が多い。(31)  薬師信仰とともに、文殊会は行基信仰と表裏一体のものであったと思われる。  追塩千尋は、「行基追慕の高揚をうかがわせるものに文殊会があり、国分寺で 文殊会が行われた可能 性が高い。」とする。(32)  行基菩薩は、文殊菩薩と呼ばれてきたのである。 結びに  国分寺建立の詔は、恭仁京で発せられる。天平九年十二月二十七日、大倭国を大養徳国と改め、京師を 大養徳恭仁京と呼んだ。この京師の名称には、大徳供養が織り込まれている。そして、天平十九年三月 十六日、大養徳国は、大倭国に戻る。 『続日本紀』天平十三年三月二十四日に聖武天皇の詔が出される。  行基の伝説には、雲仙に行基の墓があり、広島の安芸生口島の行基遺跡・関東・丹後巡歴など地方に 拡散している。これをどう考えるか。行基を単なる僧であると考えるのではなく、奈良時代の日本を動く ことが出来る官人の姿をダブらせてはどうか。行基図の元になる図を作成し、国府記という地理書を編纂 し、摂津播磨の五泊を設けた実務家としての姿であり、天平八年に官人を率いて菩提遷那を迎える大僧正 任命以前の行基は、僧以上の役職をもった人物と思われる。   註) (1)『愚管抄』岩波古典文学大系86/1967年、144頁。 (2) 辻善之助「国分寺考」『日本仏教史の研究』金港堂、1919年、14頁。 (3) 井上薫『行基』吉川弘文館、1959年、96頁. (4)『日本歴史』3、中央公論社、2004年、342頁。 (5) 堀池春峰『南都仏教史の研究』上、法蔵館、1980年、79頁。 (6) 定義は、「国分寺を発願した聖武天皇から始まる」を加えたいところである。 (7) 吉川真司「国分寺と東大寺」『国分寺の創建・思想・制度編』吉川弘文館、2011年、76-77頁。 (8) 角田文衛『国分寺と古代寺院』角田文衛著作集第2巻、法蔵館、1985年、106頁。 (9) 拙考『行基大徳考:14続日本紀の行基伝』 (10) 2・4=8、24/3=8、八は蜂、八角形 (11) 吉川真司「国分寺と東大寺」『国分寺の創建・思想・制度編』吉川弘文館、2011年、87-88頁。 (12) 「延喜式大膳云正月最勝王経齋会供養料云々根蓴二把云々」『古今要覧稿』第5巻、788頁。 (13) 田村円澄『古代日本の国家と仏教』吉川弘文館、1999年、123頁。/ 「天平十三年二月十四日詔」が記される史料   には、『政治要略/第55巻』『東大寺要録/第8巻』「聖武天皇銅板勅願文」がある。 (14) 鈴木景二「聖武天皇勅書銅板と東大寺」『奈良史学』第5巻、奈良大学史学会、1987年。 (15)『大正大阪風土記』大正大阪風土記刊行会、1926年、273頁。 (16)「如是院年代記」『群書類従』雑部、第26輯、巻460。 (17) 井上薫『奈良仏教史の研究』吉川弘文館、1966年、258-260頁。 (18) 御子柴大介「光明子の仏教信仰」『女性と仏教』平凡社、1989年、95頁。 (19) 吉田一彦「国分寺国分尼寺の思想」『国分寺の創建・思想・制度編』吉川弘文館、2011年、4頁。 (20) 名畑崇「平安時代の法華経信仰」『大谷大学学報』第44巻第2号。 (21) 角田文衛『国分寺と古代寺院』角田文衛著作集第2巻、法蔵館、1985年、106頁。 (22) 荒井秀規「国分寺と定額寺」『国分寺の創建・思想・制度編』吉川弘文館、2011年、188-195頁。 (23) 小嶋博巳「国を分ける行基−『日本国六十六部縁起』の一節に関する覚書‐」『清心語文 第13号 2016年11月   ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会』 (24) 五来重『薬師信仰』雄山閣、S61年、18-19頁。 (25) 鶴岡静夫『古代中世寺と仏教』渓水社、1991年、118頁。 (26) 松尾剛次「勧進と破戒の中世史」『中世律宗と死の文化』吉川弘文館、181頁。 (27) 『愚管抄』岩波古典文学大系86/1967年、144頁注13/401頁補注3-13。 (28)「国分二寺は、養老六年七月十日の太政官奏を受けた行基の四十九院をモデルにしたと推測する。」御子柴大介  「光明子の仏教信仰」『女性と仏教』平凡社、1989年、96-98頁。 (29) 根本誠二「語り伝えられる行基」『民衆の導者行基』、吉川弘文館、2004年、199頁。 (30) 拙論「行基伝の研究 」では、行基の遷化を「天平九年」と考えた。 (31) 菅谷文則「行基開基伝承の寺院」『探訪古代の道第三巻』法蔵館、1988年、237頁。 (32) 追塩千尋『国分寺の中世的展開』吉川弘文館、1996年、127頁。

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